黒いすずらん 中篇(下)
満州の日没。その迫力は、幼少期を日本で過ごした芙美たちの価値観をまるで変えてしまった。地平線に世界が沈んでいく。真っ赤に煮えたぎる巨大な太陽が炉心の火のようにぼっと燃えたまま地平に隠れると、色紙を入れ替えるように赤味を帯びた夕暮れに天地が染まる。熟した柿の中にいるように想えた。それから焼け落ちるようにして暮れるのだ。髪の毛に火がついて空に吸い込まれるような気がするほどの濃厚な夕焼けだった。
夜も日本の夜とは違った。明るい藍色で、ぴかぴか光るいろんな色の星が大熊やひしゃくや輿のかたちを空に描き、月は氷飴のようだった。
そんな満州に比べて、シベリアの地はいつも青だった。吹く風には薄荷の匂いがついていた。冷えた青、灰色、そして色の薄くて小さな太陽。
「他の収容所にいるみんなは元気かな」
外気にさらされるとすぐに凍傷になってしまう。芙美たちは鼻先や手をこすりながら冬を耐えた。
本土と同じように満州で暮らしていた芙美たちもみな生粋の軍国少女だった。
昭和二十年七月。
結果的にこれが最後の募集となる補助看護婦が病院に集められる。八月ソ連軍が侵攻。そこから半月ほどの間に満州にいた日本人の運命は決まったといっていい。最後の看護婦募集の呼びかけに挙手した少女たちの軍隊生活はわずか一か月。シベリア抑留は二年に及んだ。ソ連軍は捕らえてきた日本人を戦争で数を減らした男手の代わりとして終戦から最長十一年、異国の地での労働力にあてた。女子はすぐに帰国できるはずだったが戦勝国の間で日本の取り扱いが定まっておらず、抑留された芙美たちのことはソ連が知らぬ顔を決め込んだまま、後回しになったのだ。
満州で列車や船に乗せられた時には日本に送還されるのだと、誰もが信じていた。
芙美、起きなさい。
ごはんの匂い。
早起きの弟が外から新聞を取って来る。朝露を浴びた庭の草。
家に帰りたい。
檜のお風呂に入って、い草の畳に床をのべて眠りたい。
気が付くと収容所にいる捕虜の中から何人か、ロシア人と不自然なほどに仲良くなる者たちが現れた。
「あれはスパイよ。ソ連に寝返ったの。共産主義を広めて日本を内部からソ連の属国にしようとしているの」
洗脳対象に選ばれた者たちの態度はすぐに増長した。彼らはこの収容所は俺たちが仕切るのだとばかりに、顎をそらして偉そうに歩き回り始めた。選ばれた男たちの多くは傲慢な態度と冷たい眼をしており、不細工で、口許は酷薄だった。芙美たちはロシア側に寝返って同胞を虐待しはじめたそれらの男たちが大嫌いだった。
「見ろ」
洗脳された男が芙美たちの前にやって来て天然色の雑誌を広げた。
「これはアメリカの雑誌だ。よく見ろ。お前たちの中にもここが郷里の者はいるだろう」
載っているのは一面の焼け野原の写真だった。芙美は愕然となった。これは満州に渡る前に芙美たち一家が暮らしていた街ではないのだろうか。鉄筋のねじ曲がった建物や、山なみや、欄干の崩れ落ちた橋。航空写真が写しだした一面の更地は芙美の生まれ故郷だ。見渡す限り、端から端まで黒焦げになって全てが消えている。
芙美は血の気のひく想いで写真をみつめた。
極寒の寒さも不便な生活も仲間がいたことで耐え忍んできたが、それもこれもいつかは日本の故郷に帰れると想ってきたからだ。その故郷が消えている。
「日本をこんな姿にしたのはエリートの高級軍人たちだ」
色白で糸目の小男は唇を捻じ曲げながら苛烈な言葉を吐き続けていた。共産主義思想に染まる者は、純真なまでの理想化肌の者か、または常日頃から鬱屈した劣等感と不満を抱え、富や地位を強奪しようと狙いながらもそれを認めず、人の心を悪い方に焚きつける詭弁だけは達者な卑屈で卑劣な性格の者が多かった。
「お前たちは洗脳されている」
小男は少女たちを陰険な眼つきで眺めまわした。
「軍閥は物資を横領し、日本を戦争に走らせて、自分たちだけが自由主義国と裏取引をして大儲けをしていたのだ。負けたのはすべてブルジョアのエリートが悪いからだ。あいつらを打倒し一掃することでしか日本は新生しない。新しい世界では今まで見下げられていた小作人がいちばん偉いのだ。国民は全員が労働し、その収穫は均一に分配されて全体が富むべきだ。農民を奴隷化した富裕層や、民衆を支配しようとするエリートどもは決して許されない。これからの日本は変わる。お前たちも覚えておけ」
男はそう吐いて去って行った。誰か一人を悪人に据えて集団でリンチをさせるのがアカの人心掌握術だった。家柄がいい、学歴や軍歴がいい、今までの価値観を捨てない等の理由で、毎晩のように誰か一人が吊るし上げに遭い、男たちのうっ憤のはけ口にされた。
殴打を受けている者の惨めな姿を糸目の小男は優越感に煮えたぎりながら眺めた。
「これは粛清だ。一人で生きてきた気になっている傲慢な者どもの眼を開かせてやっているだけだ」
小男はこの先のことを考えていた。日本が共産主義国になればこの俺は上層部の幹部として君臨できるだろう。金持ちや向上心のある奴や頭のいい奴を叩き潰せば、俺がこの世で一番偉くなれるのだ。
小男は隠した野望を讒言にかえて、人間関係のあいだに次々と疑心暗鬼の種を落としていった。赤化した者たちは『シベリア天皇』と揶揄されて忌み嫌われたが、大国の虎の威を借る狐と化した彼らは収容所においてはまさに天皇のように思うが儘に振舞った。食料も煙草も独り占めだった。
シベリアに抑留された男たちの中から、集団リンチの犠牲者が出始めていた。
芙美ちゃん。
何度か呼ばれて、ようやく芙美は返事をした。
「どうしたの芙美ちゃん。この頃ぼんやりして元気がないよ」
「あんなのを信じたら駄目だよ。軍の人も情報戦について云っておられたじゃない。敵国は偽の新聞や雑誌を使ってわが軍を攪乱してくるって」
先日の雑誌の記事のことを云っているのだ。芙美はこくりと頷いた。みんな芙美の出身地を知っている。
「あんなのは士気を折る作戦よ」
「そうよ。もしかしたら日本はまだ敗けてないかも知れないよ。わたしは少しだけそう信じてる。同盟国ドイツの敗北も嘘。たくさんの
芙美の家族は敗戦をさかのぼること半年前に日本に引き揚げていた。
「これは内地の医者にしか手術できない」
弟のうちの一人が難病にかかり、母は芙美以外のきょうだいを連れて日本に帰ることになったのだ。満州の家には、現地の学校に通う長女の芙美と父親が残されることになった。
「芙美は家事が上手じゃけえ。お父さんの世話は頼んだよ」
「任せて、お母さん」
芙美と父親の二人暮らしはすぐに終わってしまった。戦況の悪化により在満居留民の男たちは根こそぎ関東軍に現地召集されていき、まだ三十代だった芙美の父親も兵隊として取られてしまったのだ。
陸軍に入ればお父さんと逢えるかもしれない。
そんな気持ちで、芙美は看護婦募集に応じたのだ。
「芙美ちゃん元気だして。あんな記事に騙されたらいけんよ」
各地のお国訛りで口々に少女たちが励ましてくれる。芙美は頷いた。
熱湯消毒をして干しておいた包帯を巻き取りながら、芙美はそれからも何度か、まわりに誰もいない物陰で頷いた。頭の中では取り上げられた青酸カリをどうにかしてまた入手できないかと、そればかりを考えていた。
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