黒いすずらん 中篇(上)

 

 何処の収容所に送られるかで環境や待遇には天地の差があったが、芙美たちが送られた収容所での菊水隊への処遇はかなり甘かったといえる。それは芙美たちが『戦争の犠牲者』と見做されたからだ。

「こんな子どもを軍隊の中に入れるなんて」

 軍属ということで一絡げにシベリアに送られてはきたものの、聴取にあたったロシア側も日本軍の見境のないやりように憤るだけで芙美たちに対する罪は不問だった。ロシアとて、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)のような地獄の鍋底と化した凄惨な市街地攻防戦においては女性市民兵が狙撃手として活躍し、他の地域でも積極的に入隊して銃を持ち、空挺部隊に入った女はグライダーを操って空爆を敢行するなど母なるロシアの大地に侵攻してくるドイツ軍に猛烈な反撃みせて暴れ回ったのだが、彼女たちは正式な兵士であり、芙美たちとはおおきく異なった。敵兵を殺傷したこともない芙美たち見習い看護婦は厨房に出入りする業者のようなものと識別されて、軍隊の中の病院に雇われただけの民間人として処理された。

 ただしそれは看護婦やタイピストなど、武器をもたない少女たちだけに下された温情だった。



 収容所には菊水隊の少女たちと同じ年齢の少年たちも沢山いた。満蒙開拓青少年義勇軍として中国大陸にやって来た少年たちだ。

 屋外作業中、十代の少年たちが脱走を企てた。追わないで、追わないで。芙美たちは祈った。追いかけて連れ戻さなくとも彼らはこの寒さの中、凍えて朝までに死ぬでしょう。

 夜の森の中に、日の丸を背中に描いた白い狼が走って行く。

 動き回る赤い点は鹿の眼だ。芙美は窓辺で闇に眼を凝らした。そのまま走って。駈け続けて、軍用犬の牙から逃れ、針葉樹林の迷路をぬけて海を渡って日本に帰るのよ。

 満州に渡ってきた農民はみな農家の次男坊三男だ。開拓して耕せば土地をやるという優遇政策に釣られ、貧家から満蒙開拓団に参加した。

 土地は重い価値をもっていた。農民にとっては生きるすべてだった。日本にいれば長男しか継げない田畑が自分のものになると約束されたことで移民の期待はどこまでも広がった。新天地で一旗上げてやる。

 元からそこに住んでいた満人から強制的に取り上げて安価で買い叩いた既耕地だった。開拓民はやって来るまでそんな事情を知らなかった。「そんなことだったのか」と戸惑いながらも、日本から移り住んできた朴訥な農民は一生懸命働いた。親許を離れ十代半ばで青少年義勇軍に参加した少年たちも同じだった。国策として掲げられた満州移民政策の誘い文句のなかに夢をみた。海外に広がる可能性は貧しい家に生まれた若者にとって強烈な誘惑として胸に響いた。

 少女たちは祈ったが、脱走した少年たちは翌日捕まった。野宿の極寒に耐えかねて焚火を熾してしまい、その火影が命取りとなった。

 銃を扱える日本国の少年は小さくとも兵士として見做され、大人と同様の強制労働を課せられていた。重たい丸太を同じように担がされ、転倒すれば鞭うたれ、乏しい食事は大人たちの狡い者が取り上げた。

 射殺された少年たちの遺体は見せしめとして収容所の敷地内に転がされたままになっていた。

 菊水隊の少女たちは少年たちの遺体の前で涙をながした。彼らの死顔よりもその手足のほうに見覚えがあった。屋外の強制労働で傷んだ凍傷の色。医務室に来る少年たちは芙美たちが街の通りや公園で見かけていた溌剌としたあの少年たちではなかった。虐げられた牛馬のような眼つきになっていた。えぐれたようなその両眼には涙がたまっていた。

 少年たちが処刑されたその日以来、芙美の頭には針葉樹の森を駈けていく自分の後ろ姿がよく現れた。最初は少年たちと一緒に逃げていた。遊びのようにして芙美は少年たちと走った。みんな待って。

 銃声が立て続けに鳴ると、やがて暗い森の中を走るのは芙美だけになっていた。

 夢のなかで芙美はたった独りで走りながら笑っていた。そうだ逃げるんだ。馬のたてがみのように髪をなびかせ、ロシア人兵士からもらったリボンを振り落とし、芍薬や女郎花の咲き乱れる花の野原を北国の太陽に向かって駈け抜けていく。



 或る時、収容所の看護婦たちの上に大問題が起こった。芙美たちは兵舎のペチカの前で肌着を縫っていた。ソ連軍に追われて街を撤退する時に病院から持って出たさらしが役に立った。針を休めた芙美たちは銃で追い立てられて一部屋に集められた。これはなんだ。全員の衣類があらためられて、隠してあった青酸カリが次々と発見された。

「この薬を使ってロシア兵を毒殺しようというのか」

「護身薬です」

 看護婦たちはしっかりした口調で抗弁した。

「これはわたしたちが自決するためのものであって、誰かを殺すためのものではありません」

 水がなくても嚥下のたすけとなるように寒天で蓋をしておいた青酸カリ。この小瓶を女たちは「御身薬」と呼んでいた。

 自決するための薬に護身と名付けるなんて皮肉だと服の隙間に小瓶を隠しながら少女の一人が笑った。

 車座になって正座し、「蓋を開け」の合図で青酸カリをあおる死に方の作法を見せた。生きて辱めを受けずという大和撫子の精神をいくら説明しても収容所所長には理解してもらえなかった。陸軍看護婦長が全体の責任を負って一昼夜、営倉に入れられることになった。芙美たちは顔色をかえて心配した。営倉は半地下にあり、上部にある採光窓は密閉されていないのだ。朝になったら凍死しているかもしれない。



 その日の午後は非番だった。所内の廊下を歩いていると、若いロシア兵が外から口笛を吹いて芙美を釣りに誘ってくれた。

「フミ。ニコライ」

 若い兵士は芙美と自分を交互に指しながら名乗った。

「おいしい魚が釣れるし、たくさんお花が咲いている」

 ということだった。

「おやつのお菓子もあげる」

 うんうん。

「フミたちのお姉さんに元気になってもらおう」

 お姉さんというのは営倉に入れられていた婦長のことだ。半分凍ったようになって生きて出てきたが、肺炎にかかり、寝付いていた。

 屋外の強制重労働に駆り出されている男たちと違い、マスコット扱いの芙美たちは医務室での仕事を終えると自由だった。収容所の営門を出ていく時もなんの制止も調べも受けなかった。夕刻までには戻ってくるようにと云われるだけだった。人質は収容所の中にたくさん居たし、たとえ逃げ出したとしても最果ての地からは逃げ切れるものではなかったのでいつもそうだった。ところがその日はそれに愛想のよい笑顔までついて監視兵に送り出された。理由は後から分かった。若い兵士のニコライの長姉が、軍高官の妻なのだという。

 清流に釣り糸を垂れるとすぐに魚がかかった。

 ソ連というのはどんな政治体制の国なのかも芙美は知らなかった。芙美たちが受けてきた教育とは、日本は神の国であり、天皇は神であり、国民はその子どもであり、この戦争は欧米列強の植民地化政策からアジアを護り、奴隷化から解放する聖戦なのだということだった。

 じんむすいぜいあんねいいとくこうしょう

 当時は誰でも唱えることができた歴代天皇の名を芙美が口にすると、ニコライは「変なの」と笑った。釣り上げた魚がびくの中で暴れていた。芙美は土の上に小枝を使って天皇の名を漢字で並べてみせた。

「白河、堀河、鳥羽、崇徳、近衛、後白河、二条」

「日本人が頭がいいわけだ。こんな小さな女の子までとても難しい呪文を暗記しているのだから」

 義務教育制度のある日本と違い、農民あがりのロシアの下級兵士の多くは文盲で、かけ算すら知らない者が多かった。ニコライは芙美に釣りを教えてくれた。ぼくには姉だけでなく妹も沢山いて、芙美はその妹と変わらないと云い、ニコライは芙美に親切だった。

「もしぼくの妹が遠い外国でこんなことになっていると想うと可哀そうでたまらないよ。はやく日本に帰れるといいね」

 大漁だった。ニコライからもらった魚は菊水隊の少女総出でさばいて塩をふり、干物にして病院に入院中の兵士たちの食事に添えた。

 両腕に抱えるほど摘んで戻った野花を婦長の病室に飾ると、やつれ果てた婦長は「ひな祭りのようです」病床から喜んでくれた。



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