黒いすずらん

朝吹

黒いすずらん 前篇


 心に落ちてくる抑留の想い出はいつもひえた色をしている。零下。それが記憶の中の平均気温だ。

 遠い戦争のなかで忘れ去られた女たち。なかでも芙美ふみたち少女のことは歴史の中にほとんど書き残されていない。

 町で出た病人に薬を渡す簡単な遣いを命じられて届けた帰り、芙美は寂れた通りを横切っていた。春が間近だというのに外気にさらされている皮膚が剥げ落ちそうなほどに寒くて痛い。雪を踏む足音がすると、身体の大きな女たちが芙美を追いかけてきて取り囲んだ。町に暮らすロシア人のお母さんたちだ。


 大変だろうけれど、かならず家に帰れるから、がんばってね。


 女たちは同情深い眼をして口々にそんなことを云った。ロシア婦人たちの眼には小柄な日本人の少女がまだ子供にみえるのだ。

 女たちは芙美を隠すように人垣の輪を作ると、芙美の上着のポケットというポケットにパンやお菓子をぎゅうぎゅうと押し込んで、蜘蛛の子を散らすように立ち去った。中国人とは違い、ロシアの民間人は日本人に対して何の恨みもなかった。彼女たちのなかにはドイツ軍に故郷を焼き払われて東に逃げてきた難民が混じっている。だからソビエトの地に抑留されている日本人にも同情的なのだ。

 芙美の口もとに笑みが掠めた。上着から甘い匂いがする。口の中に唾液がわいた。収容所に帰ったらみんなと分けて食べよう。



 アメリカと戦争していたはずなのに、なぜソ連が襲ってくるの。

 それが満州に暮らしていた芙美たちの最初の愕きだった。敗戦が確定となった日本に対して勝ち馬に乗るべく、日ソ中立条約を破って八月九日ソ連軍がハバロフスクから満州に侵攻を開始したのだ。これにより満州に取り残された日本人は現地の中国人とソ連軍の双方から逃げ回らなくてはならなくなった。頼みの関東軍はソ連軍と対峙することを途中で諦め、在留民間人を見棄てて大急ぎで防衛ラインを南下させて撤退してしまった。

「お菓子があるの。パンも。みんなを集めて」

 収容所に戻って来た芙美がそう告げると、少女たちの顔が明るくなった。

 シベリア抑留。敗戦後、投降した日本軍の将兵たちはソ連軍によってシベリア強制労働収容所に連行され、何年ものあいだ祖国の地を踏めなかった。その将兵に混じり十代の少女たちが男たちと共にシベリアに連行されていた。

 芙美たちが兵士たちと同じように抑留された理由は、肩書が軍属だったからだ。

 秘書、タイピスト、看護婦、電話交換手。

 女たちは髪を切り、下級兵士の軍服をまとって男装したが、すぐに女だとばれた。

「そいつと、そいつとそいつ」

 ソ連軍の兵士は敗残兵を見廻しただけで、すぐに女を選び出して別にした。

 髪の毛まで切ったのに。

 男装がばれた女たちはがっくりと項垂れた。

 今から想えばまったく無駄な変装だった。ようやく見苦しくないほどに伸びてきた髪の毛の先を手でいじりながら、芙美はあの日のことを想い出していた。女が男に化けるのは無理だ。ほんのわずかな仕草や、肉付き、顔の造作ですぐにばれてしまう。或る者など襟元のゆがみを直そうとしただけで女と看破されて列から投げ出されてきた。大切な髪まで切って、全員の頭がおかしくなっていたとしか想えない。誰もが必死だったのだ。

 極寒の地に連行されてしまった軍属の若い女たち。そして護衛の軍隊なしで敵地となった満州を脱出しなければならなかった二十数万人の民間人。どちらが不運でどちらが幸運だったかは分からない。生きて日本に戻ることが出来た者が幸運だったと単純に云えるほど、その者たちが背負った死者たちへの負い目は軽くない。



 小さく切り分けたケーキとパンを芙美たちが味わっていると、ロシア人看護婦が「あらあら」と声をあげて、お茶を持ってきてくれた。スパシーバ(ありがとう)。芙美たちが大きな声で礼を云うと、子どもの合唱を聴いたかのようにロシア人看護婦は笑顔を浮かべた。

 菊水隊。

 凛とした中にもどこか悲壮感漂うこの名が、満州で現地調達された陸軍看護婦部隊の名称だった。

「すずらん隊のほうが良かったな」

「そうかしら。菊がついてる方が皇軍らしいわよ」

 黒龍江のほとり。芙美たちが暮らしていた街の野原にはすずらんが咲いた。あんずの花や菖蒲にまじって、野生のすずらんが濃い緑の中に可憐な花を散らして一面に揺れる。花は音を鳴らさない。しかし芙美の想い出の中では朝露の中、すずらんがリンリンと小さな可愛い音を立てている。遠眼には雪と間違えるほどに、すずらんは春の訪れを告げてぎっしりと咲いていた。

「集合は病院前に夕方六時」

 芙美が所属していた菊水隊はソ連軍の侵攻直後、慌ただしい中で一旦自宅への帰宅を赦された。部隊長は云った。家族とともに避難するもよいがお前たちは挺身隊なのだから、傷病兵の介護員として最後のひとりまで軍に残ることを望む。

 その訓示に応えて約半数の少女たちが家族と別れを告げた後、定められた集合時間に病院に復帰してきた。芙美は最初からそうしようと決めていた。誰もがそれが当たり前だと想う時代だった。お国のお役に立つならば。

「わたしは家族と一緒に逃げるわ。徴兵されたお父さんとお兄さんは行方不明だし、弟妹がいるの。妊娠中のお母さんを助けなければ」

「気をつけてね。日本でまた逢おうね。きっとね」

 病院に戻らず、家族とともに満州からの脱出を試みた看護婦見習いの少女たちの行方はほとんどが分からない。



 零下四十度にもなろうとするシベリアの収容所に送られた芙美たちは、雑役を命じられる他、ロシア人と日本人の医師のもと収容所内の病院で看護婦として働くことになった。

「君たちはすぐに日本に帰れるだろう」

 ロシア人の医師も看護婦も、芙美たちにやさしかった。

「ニシオカフミ。十六歳」

「違うよね、ほんとうはフミは六歳だよね」

 六歳は大袈裟でも、やさしいのはロシア人の兵士も同じだった。

「小さくてかわいい。フミはお人形のようにかわいい。こっちにおいで」

 両手をもって踊りの真似ごとをしたり、肩の上に担ぎ上げられたこともあった。最初は怖かったが、犬か猫のように芙美の頭を撫でて兵士たちがにこにこしているので次第に平気になった。

「この髪の色はロシア人の女の子とはまったく違う」

 黒髪を褒めてくれた兵士は次に逢うと髪に飾るリボンまでくれた。フミ、下働きの君たちには罪はない。兵隊さんと違って君たちはすぐに日本に帰れるからね。

「冗談かと想ったけど、わたしたち本当に子ども扱いよね」

「赤ちゃんみたいに肌がすべすべって云われたわ。小学生に見えるんだろうね」

「速水さんは」

「今日も取り調べだって」

 収容所に連れて来られたといっても、菊水隊の少女たちへの扱いはほとんどマスコットだった。しかし陸軍看護婦部隊の婦長や二十代の日赤看護婦たちへの扱いは完全に違っていた。彼女たちは戦争責任を問われ、連日厳しい取り調べを受けていた。

 七三一部隊ってなに。

 一度だけ芙美も尋問で訊かれたが、石井四郎という名を訊いて、ああと想いあたり、知っていることをそのまま応えた。伝染病の防止や給水の衛生を担当していた検疫部隊です。防疫給水部が開発した汚水を水にかえる濾過器は便利でした。

 通訳がそれを伝えた。灰色の取調室に落ちたその時の冷たい空気がいつまでも気になった。



「見て、速水さんと山口さんが」

 取り調べに向かう日赤看護婦の速水妙子と山口真智子が両脇をロシア兵に囲まれて廊下を歩いていくところだった。速水と山口はまっすぐ前を向いており、背筋をのばしていた。まるで護衛兵を引き連れている女王のようにみえた。芙美たちは感嘆の声をもらした。ちっとも気が折れてない。すごい。

「学歴を鼻にかけてお高くとまってる」

 血肉にまで糊をかけたように常にビシッとしている日赤の看護婦のことが芙美たちは苦手だった。

「あの人たち、プライドの塊で嫌な感じ」

 陸軍看護婦教育隊。それが菊水隊が所属していた補助看護婦部隊の母体の名称だ。

 大陸にいる軍属の看護婦には民間から人員を募って構成した陸軍看護婦と、男と同じように赤紙で徴兵されて海を渡ってくる日本赤十字社の看護婦がいた。

 応募資格を高等女学校卒業者に限定した上で倍率百倍にもなろうとする試験を突破した者にしかなれなかった日赤看護婦は気位が高く、つんとしており、女看守かと想うほどにふてぶてしく、厳しかった。

 日赤の看護婦と、看護婦不足の呼びかけに応じて陸軍に集まってきた芙美たちとの関係は、現代におきかえるならば難関大卒一流企業から派遣されてきた女子社員と地元の中卒が一緒の現場にいるようなものだった。

「患者の前では笑わない。規律が乱れます」

 あとから振り返れば仕事に厳しいだけで理不尽なことを云われていたわけではなかったのだが、ふつうの家庭で育った少女たちが眼にする日赤看護婦の立ち働きのさまは愕きの連続だった。豚か馬のように泣き声を上げている兵士を荒っぽい軍医が荒っぽく治療しているそのあいだ、顔色ひとつ変えずに補助している日赤の看護婦の能面ぶりは壁に映るその影までもが赤い血の通った人間のそれには見えないほどだった。

 臨時看護婦の少女の一人がある日、術台から臓腑が垂れ落ちてくるような術室の光景に堪えられず帳面を取り落して失神した。すると日赤の看護婦がつかつかとやって来て床に伸びているその少女の腹を蹴った。この人を廊下に出しておいて。邪魔。


 

 しかし芙美たちがほぼ無罪放免で収容所内での自由行動が許されているのは、ひとえに日赤の看護婦たちが芙美たちを庇い、すべての責任を引き受けてくれているからなのだ。

 長時間にわたる厳しい聴取を受けているあいだも、年長の看護婦は誰ひとりとして芙美たちに責任をなすりつけたりはしなかった。

「あの子たちは陸軍の呼びかけに応えて病院に手伝いに来ていただけです。正規の看護婦が知る以上のことを補助看護婦が知ることはありません」

 陸軍看護婦長や、日赤の速水妙子や山口真智子は、戦犯になってしまうのだろうか。芙美たちは囁き合った。その時にはわたしたちからもロシア人のお医者さまや収容所の所長に頼んで、罪状を軽減してもらえるように頼んでみよう。わたしたちは軍の命令に従っただけなのだから。



 収容所の敷地内を流れている小川で洗濯をしていると、速水がやって来た。芙美たちは取り調べの終わった速水に駈け寄った。

「連日お疲れではありませんか。大丈夫ですか」

「平気よ」

 鼻をしかめたが、速水は芙美たちに笑みを向けた。素顔は骨ばりの目立つ顔だったが、口紅をひいて化粧をした時の速水はドイツ映画に出てくる女優のような粋な美人になる。

「毎日毎日、ナナサンイチのことばかり。知らないのだから知らないと云うわよ。赤十字の戦時救護班だといくら説明しても、悪魔に仕えた魔女のように想われてるわ。お蔭で女日照りのこんな場所でも、口説かれることはないわ」

 速水の冗談に芙美たちは笑った。お腹から笑いが出てきて、仲間の笑顔に釣られるようにして百年ぶりくらいに大笑いした。

「俺の嫁になればたくさん食べさせてやるよ」

 病院を閉鎖後、軍の後ろについて満州を彷徨しているあいだ、中国人の男たちが歩みの遅れがちな看護婦の袖を引いた。売り飛ばす算段を隠さずに小狡い眼をして嗤っている者もいたが、真剣に口説いてくる者もいた。

「あんたたちこれからどうするつもりだ。帰国してもアメリカ兵に強姦されるだけだ。日本人の男にはもうあんたたちを護ることは出来ないぞ。敗けた国で苦労するよりはこっちに残れ。同じアジア人だ。あんたのような女を家に連れて帰れば俺の母親はよろこんで娘のように大切にするだろう」

「列を離れないで!」

 婦長が後ろから大きな声を出した。日赤の看護婦がここでも芙美たちを庇ってくれた。

「わたしたちはジュネーブの協定に護られている。赤十字の看護婦と知りながら手を出せば万国赤十字法の問題になるのよ。むしろ危ないのはあなたたちよ」

 彼女たちは敵地であってもそれがあれば横断できる赤十字旗を広げてその蔭に芙美たちを隠した。看護婦たちは一本の綱をみんなで持ち、互いに庇い合って中国人を無視して歩いた。

 軍属のまま軍と行動を共にすることを選んだ芙美たちはソ連軍の捕虜収容所に辿りつくことが出来た。そこは日本ではなかったが日本人を憎悪する中国人から暴虐の限りを尽くされていた避難民に比べれば、秩序の中にあった。



 これだけは取らないで。

 懇願する母親から、赤子の襁褓まで中国人は奪い去って行った。勝手にやってきて彼らの土地を追い出して入植してきた満州開拓団に対する満人の恨みはそれほどに深かった。

 徒歩で逃げる民間人は非武装のまま暴行をふるわれ、食べる物もなかった。やがて集団から遅れ始めた女たちに中国人が寄って来た。

 「ソ連兵から護ってやるよ。敗けた国に帰るよりもこちらに居るほうが安全だ」

 独り身の女や戦争未亡人たちが説得されて現地の中国人に連れ去られた。逃げ惑っていた女たちは日本に帰ることを諦めてそうした。

 数千人におよぶ残留婦人となった彼女たちの行方は分かっていない。

 南満州鉄道が経営していたヤマトホテルの前には戦後何十年と経ってからも、寂しげな顔をしてホテルの外観を仰ぐ女たちが亡霊のように入れ替わり立ち代わり現れた。みんな貧しい身なりだった。

 警備員に追い払われているそれらの女たちのことを不審がって訊ねる者がいたら、ホテルの警備員は応えた。

 日本人の女だよ。ここに来れば知り合いに逢える気がするのか、列車を乗り継いでよく来るんだ。

 在留を選んだ女たちの過半数は広大な大陸の何処かに煙のように消えてしまったままだ。



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