エピローグ

 読み終えたその後に、幼い少女は大きな碧眼を見開いてそのまま動かなかった。

 やがて、見開いた碧眼が潤みそこからぽろぽろと涙があふれ出る。


「ルイス、かわいそう……」


 目から流れ落ちる雫をぬぐおうともしない少女の、愛らしい唇からそんな言葉が漏れた。

 読み聞かせを終えた娘が慌てて上品なレースが施された白いハンカチを差し出す。

 礼を述べて少女がハンカチを受け取り涙をぬぐうのを眺めながら、男は少女の両親へ詫びる。

「おい、だから子供に向かない本はやめてくれと言っただろう。……申し訳ありません」

「いえ、いいんです……いつもありがとうございます」

 両親は苦情を言うどころか、礼を述べた。

「ですが、その……お子様に聞かせる内容としては……」

「確かに、残酷な面も含むお話でしたが……童話でも、むごいシーンがある物語は多々あるでしょう」

「……それはそうですが」


 グリム童話のシンデレラやヘンゼルとグレーテル、白雪姫やラプンツェル、ペロー童話の眠れる森の美女や青髭。

 創作だがアンデルセンの人魚姫等、登場人物の死やむごいシーンを含んだ童話はさして珍しくない。


「めでたしめでたしで終わる物語もいいものですが、そういう物語もまた必要なのだと思います。現実では、どんな子供もいづれ死や苦しみと、否が応でも向き合わねばならない時が来ますから」

 知的で穏やかな口調で言う父親の隣で、母親はかすかに目を潤ませながら問いかける。

「それにしても、悲しい物語ですわね。作者はどなたですの?」

「ああ、それは――」

 と赤毛の娘が筆者名を教えると、両親は揃って首をかしげる。

「聞いたことのないお名前ですね。新人作家ですか?」

「ええ、まあ……」

 と娘は曖昧に微笑んで頷く。

「名前っていえば、私お姉ちゃんのお名前好きだよ。スカーレットて、名前の通り綺麗な赤毛。ミルクを入れる前の紅茶みたい」

「ありがとうございます。でも私はお嬢さんの髪も素敵だと思いますよ。御伽噺の中に住まう妖精が好みそうな綺麗な金髪で」


 涙を拭き終わった少女の溌溂とした笑顔と言葉に、赤毛の娘――スカーレットは多少気恥ずかしげな笑みを含んで答える。


 やがて数冊の本を借り終えて店を出る親子を見送り、魔女と使い魔はその後も貸本屋の仕事をつづけた。

 時の流れと共に空の色がうつろい、燃えるような茜色に染まった後にうっすらと夕闇の色があたりに漂いだした頃、


「今日もお疲れ様」

「マスターもお疲れ様です」


 店を閉め終えた魔女と使い魔は、夫婦を装う口調を止めて互いの労をねぎらった。

 自分たちの部屋に戻り、まずは一息つこうと娘が紅茶を淹れる。

「俺がやりますよ」

「これくらいやらせておくれ。君は夕食の用意を頼む」

「分かりました。何か食べたいものはありますか?」

「うーん、特にないかな。簡単なものだけでいいよ」

「ダメです。ちゃんとしっかり食べてください」

「はいはい」

 母親じみたことを言う使い魔に肩をすくめて、魔女はアッサム・ティーを淹れ終えてからミルクを注ぐ。澄んでいながら深みのある赤褐色がミルクの純白と混ざり合うのを眺めてから、男に手渡す。


「どうぞ」

「ありがとうございます」

 礼を述べてから男が飲むのを眺めて、自分の分のミルクティーも作り口に含む。

 芳醇な香りと、ミルクの甘みを含んだまろやかな味わいを楽しみながらゆっくり味わう。

 特に会話は無いが、穏やかな時間がゆるゆると流れていくのを感じていくと

「できましたよ」

 そう言って男がテーブルに並べる皿に盛られた料理を見て、魔女は目を細める。


「サンドイッチに……アイリッシュ・シチューか。いいね、おいしそうだ、ありがとう」


 そう言って、魔女はまずはサンドイッチを口にする。

 レタスとハムとチーズをはさんだパンを少しずつ、食いちぎって咀嚼する。

 次に、アイリッシュ・シチューをスプーンですくって口に運び込む。

 煮込んだ羊肉とじゃがいもと玉ねぎを味わいながら、かみしめる。


「おいしいよ、優しくてほっとする味だね」

「そうですか。それは何よりです」


 魔女の賛辞に使い魔は淡々と返答しながら、自らもサンドイッチとシチューを食べる。


「休みがとれたら、またアイルランドあたりに行くのもいいね。それと……菫が咲く時期になったらまたルイスの墓参りにいこうか、アンディ」

「その呼び方は止めて下さい」

「じゃあなんて呼べばいいんだい?」

「そのまま、バルトアンデルスと」

「それじゃあ、呼びにくいじゃないか」

 と魔女は唇を尖らせる。

 青年の姿をした使い魔は呆れたようにかすかに苦笑し

「だってそれが名前ですからね。バルトアンデルス……すぐに別のものという意味。変身能力を持つ魔物の名前としてはぴったりですしね」

 そう言ってかざした片手がたちまち獣のような毛並みに覆われ、鋭利な爪が生える。

 変化はすぐに全身にまでいきわたり、細身の青年は熊の姿と化していた。

 それを見る魔女の姿もまた、変貌していた。


 二十歳前後ほどに見えた外見は、十代半ばほどに。

 ミルクを入れる前のアッサム・ティーのような深みのある赤毛は、紅玉を溶かして染め上げたような、混じりけのない紅色と化し、緩やかに波を打って流れている。

 瞳の色もまた、明るい褐色から紅玉をはめたような鮮やかな紅へと変わっていた。

 あたかも、さきほど少女に読み聞かせしていた物語の中に登場する魔女とその使い魔のごとく。


 熊の姿から青年の姿に戻った使い魔――バルトアンデルスは尋ねる。

 濡れ羽色の髪が肩を覆うほど伸びている他は、先ほどと変わらぬ眉目秀麗な若者の姿だ。


「大体あなたの本名だって、少し呼びづらいじゃないですか。『ルビウス』って。男の名前ですし。おかげでスカーレットなんて偽名を使わないといけないし」

「いいじゃないか。ラテン語で赤。私にぴったりの名前だろう?それに男の名前のおかげで、さっきあの本の作者のペンネームとして出しても、私だと気づかれなかっただろう?スカーレットという偽名もそれなりに気に入っているのだけどね」


 などとやり取りをしたのちに、会話が耐えて静寂が満ちる。

 それを破ったのは、バルトアンデルスの問いかけだ。


「……あの本が出来上がってからしばらくたちますが、あまり読まれませんね。だから、あの少女に読み聞かせしたのですか?」

「ああ、全体的に陰惨な印象があるからかな。でもね、誰かに知っておいてほしかったんだ」

 少女の姿をした魔女は静かに答えて、再び紅茶の用意を始める。


「食後のお茶を淹れるけど、君もどうだい?」

「いただきます」


 バルトアンデルスの素直な返答に、魔女は微笑み紅茶を淹れ始める。


「バグベア……いえ、ルイスの記憶や子供達等、あの場所の死者たちの記憶を抽出して本に変える魔法で、あの本を作ったのは知ってほしかったから……ですか?」

「そうだよ」

「何をです?」

「忘れられゆく異類達……妖精や魔物たちのことをだよ」


 そう言って、魔女はブランデーを数滴たらした紅茶を注いだティーカップを、バルトアンデルスへ差し出す。今度はアッサムのミルク・ティーではなく、ダージリンのストレートティーだ。

「どうぞ」

「ありがとうございます」


 礼を述べて受け取り口に含む使い魔の姿を見つめ、魔女は窓の外へ目をやる。

 濃紺のビロードにガラスの粒をまき散らしたように無数の星が輝く夜空の中で、一粒の真珠のような月が悠然と漂っている。

 視線の先を一枚の絵のような夜空から使い魔に戻し魔女は再び口を開く。


「無論、ルイスのやったことはむごいことだし、彼に食われて死んだ子供たちのことも痛ましい。それでも……彼をただの人食いの怪物として葬って忘れなくはないし、人々に架空の話としててもいいから知って、心のどこかにとどめてほしかったんだ……」

「……そうですか」

 魔女の語る声は静かで、応じる使い魔の声も抑揚がない。


「それより、君。私の魔法で作ったあの本の最後……墓を作るシーンを書き足したのは君だろう」

「何か問題でも?」

「あの物語の主役はアリスとルイスだ。私たちはただの脇役だ」

「それでもあのシーンがあるとないとでは大違いでしょう。少なくとも、読む人にとっては多少救いがある結末に感じられます」

「……そうかな」

 そう言って魔女は黙り込むが、再び口を開く。


「これから、人の技術はもっと進歩して生活も向上していくだろうね」

「そうでしょうね、そしてそれに伴って人と関わってきた異類達の存在も忘れ去られていく」

「完全には忘れ去られないさ、だからこそ本がある」


 そう言って、魔女は傍らに置いていた一冊の本を手に取る。

 よく見ればそれは今朝嬉しそうに紹介していたグレイ・ジェイムズの『緑の柳と日本昔話』だ。遠い異国の御伽噺を収めた本を細い指でいとおしそうに撫でながら、紅毛の魔女は言葉を続ける。


「これまでも、そしてこれからも。人と人でない者達の交流が織りなす御伽噺は、形を変えて紡がれ続けるさ」

「……」

 猫のように目尻が吊り上がったアーモンド形の目の中で、最高級の紅玉のような瞳が光を宿していた。

 どこか寂し気な翳りを含みながらも、柔らかく優し気な光を。

 バルトアンデルスは、その眼差しを無言でしばらく見つめていた。


「……どうかしたのかい?」

「え?」

 訝しそうな魔女の声に気づいてバルトアンデルスは顔を上げる。

 紅玉のような澄んだ葡萄酒色の瞳が、青玉のような深みのある湖水色の瞳を覗き込む。

「どこか、具合でも悪いのかい?」

「いえ。何でもありません」

 バルトアンデルスは慌てて首を振る。

「ねえバルト」

「……今度はその呼び名ですか」

「嫌かい?」

「嫌です」

「わがままだなあ、君は」

「……もう名前のことはどうでもいいから、なんですか?」

「五十年ぐらいか……、もしくは百年ほど経ったらこの日本という国に行ってみようかと思うんだ」

「……」

 いささか長すぎる沈黙の後。

「本気……いや、正気ですか?マスター」

「今更ながら、失礼な物言いをする奴だな君は。勿論本気だとも」


 頬を膨らませながらも、断言する魔女の姿を見てバルトアンデルスは呆れたように嘆息し、しばらく沈黙していたが。


「……『狐の姫、玉藻の前』でしたか?今朝は全部とおっしゃいましたが、一番気に入っているのはどんな部分なんです?」


 唐突ともいえるバルトアンデルスの質問に、訝しく思う様子も見せずに魔女――ルビウスは答える。


「そうだね。彼女は最後に一人の僧侶に魂を救われるんだ。そして神として祀られる」

「神として……ですか?」

「そうだよ。勿論一神教の神ではなく、多神教の神としてだけれどね」


 やや訝しそうなバルトアンデルスの質問に、嬉し気な声で説明を続けながらルビウスはくすりと笑う。


「ただ悪役を倒してそれでおしまいのお話ではないんだよ、この物語は。死者に鞭打ち、足蹴にして嘲って勝ち誇るでもなく、丁重に弔い花を手向けて祀る。そこが優しくて好きなんだ」

(それは貴方もやっていることでしょう)

 とバルトアンデルスは思いながらも、皮肉を含んだ口調で言う。


「……なるほど、それは珍しいですね。人間の英雄譚と言う奴は、化け物を共通の敵とすることで、一致団結し自分たち人間の悪行やいさかいを、一緒に戦った連帯感だの武勲だのでうやむやにしてごまかすためにあるのかと思っていましたので」

「もう、君はひねくれてるなあ……」

 魔女は苦笑交じりの声でたしなめる。


「ルイスの墓参りも勿論ですが……もし日本に行く時はお供しますよ、貴方一人だと何かと危なっかしい」

「ありがとう。何度も言うけど、やはり君は私のよき友だね」

「何度も言わせないでください。俺はただの使い魔です」


 何度も繰り返したやり取りをする魔女と使い魔の姿を、窓から覗く白い月が、冴え冴えと照らし出していた。








 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔女の貸本屋~人食いフェアリー・テイル~ 緑月文人 @engetu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ