忠実なる執事の献身と偏向

ヨシコ

どちらかといえば柔らかい方が好ましい

 骨格に沿って纏った筋肉は、しなやかで重量を感じさせない実用的なものである。

 大切なものを守ることが出来るように、一歩前に立つ主にとってあらゆる意味で有益であることができるように。

 何の捻りもないお仕着せの下に隠しているのは鋼の筋肉と揺るぎない忠誠心。ついでにほんの少しの下心。


「かっこいいですね……」


 玉座に座す女王の如く、自らの執事をひん剥き、「筋肉の具合が見たい」などとうそぶき散々視線で嬲り倒したお皇女様の麗しの唇から、溢れるようにそんな言葉が漏れ出た。

 皇女様のためならたとえ火の中水の中、いかなる無理難題も涼しい顔で叶えて見せるという固い誓いとともに生きる皇女様至上主義の執事は、その主に請われるがまま混乱と羞恥と混乱と混乱の中で(せめて上半身だけで許してもらった)脱いで見せた結果、何か大切なものを失ったような感覚に浸りつつ、何の面白みのない白いシャツの釦を留めていた指先をぴたりと止めた。


「いいですね、筋肉」


 続く言葉に、一度は止めた手を再び動かす。

 ひっそりと深呼吸をしてなるだけ心を無にした。


 褒められたのは筋肉。かっこいいのはあくまで筋肉。自分であって自分ではない。

 いや別に、何かを期待したわけでは断じてないが。

 なんかこう、なんというか、そう。個人的で異性的なそういう気持ちが皇女様の中に少しでもあるんじゃないかと錯覚しそうになったとかならなかったとか……いや、好意は感じているのだ。錯覚じゃない。間違いなく好かれてはいる。

 ただ、執事が皇女様に寄せる好意と、皇女様が執事に寄せる好意は、おそらくだが種類が違う。好意のその果てにある行為の上限がたぶん全然違うのだ。


 あ、なんか急にちょっと泣きそうかも。何故か釦がうまくとまらないし。


 ただ、ただ、万が一、臆が一、そう、命じられたとかそういうことがあれば、主人の期待に応えることはもちろんやぶさかではない。

 主人と執事という間柄ではあるが、なんかまあ色々とやぶさかではないので、さあどうぞという気持ちは常に何処かには隠し持っている。

 いや、落ち着け自分。さあどうぞってなんだよ。あり得ない。あり得ないから。


 ただ一応やぶさかではないので……なんかこう……あれだ……うん、ちょっともう色々だめな感じなのでいっそ誰か今すぐに自分を殺そうとしてくれ。そうすれば頭が冷える気がする。

 そもそも何で自分のシャツはこんなにもはだけているのか。なんの準備だろう……いや、違うし。これから着るところだし。


「私も欲しいけど、うーん……」


 本来であれば少しの色気も感じないはずの皇女様のその声すらもがなんとなく悩ましく聴こえてしまうのは、執事の頭が腐って爛れているからだろうか。

 ドレスの袖から覗く、たおやかなばかりの眩く白い二の腕を自らむにむにと揉んだ皇女様は、自身のその肉と、執事がシャツの下に隠した肉とを比べているらしい。

 どうでもいいことではあるが、二の腕と女性の身体のとある部位の柔らかさは同一らしい。だからどうということでは断じてないが。


「……姫様には、少々難しいかと」


 カフスをつけながら低い声でぼそりとそう言った。いつも通り、鉄面皮。万が一にも読まれることなどないように、面の皮の奥深くに思考は仕舞い込んで。

 皇女様がそれを聞いて柳眉を歪ませた。


「なぜですか?」


「個人の体質にもよりますが、女性の身体は元来筋肉が付きにくいので」


 まるで己の努力を無駄だと言われたような気がして不快感を露わにしかけた皇女様は、しかし続く言葉にもたげかけた不快感を霧散させた。

 男女の身体の造りについての違いなら致し方ない。皇女様は基本的に我儘でちょっと気分屋ではあるが、そういう割り切り方ができる主人である。

 唇を尖らせる皇女様の、実年齢に本来ならそぐわない幼く見える仕草を横目で捉え、執事は真っ黒なウエストコートに袖を通した。


「……そうですか、残念です」


 ほんの僅かな無念さを滲ませて、それでも皇女様はそこで自身に付ける筋肉については諦めてくれたらしい。

 たいへん助かる。主人の筋トレメニューを考えるのはあまり有益ではないような気がしていたので。

 あと若干の、あくまで若干、添える程度の僅かなものだが、執事自身の好みもある。硬いより柔らかい方がいい。


「なぜ急にそんなことを?」


 襟元にタイを通しながら聞くと、皇女様は大きな瞳で執事を見上げ、素直に口を開いた。


「助言をいただいたのです」


 誰から、と言いかけて分かり切ったことだと思った。皇女様が素直に話を聞く相手は限られる。

 たぶん相手は皇太后。だとすると、話の詳細が急に物凄く気になる。いや、気にかかる。


「……何について?」


「私は、体力をつける必要があると」


「……まあ、無いよりはあった方がいいでしょうけど」


「そうですよね。ちょっと意味が分からなかったんですけど、後はあなたに聞けばいいからって、詳しくは教えてもらえませんでした」


「……参考までに一応聞きますが、何を言われたんです?」


「あなたの相手をするなら体力が必要だから、もう少し筋肉をつけるべきだと。相手、ってなんでしょうか」


 ウエストコートのホールに通したところだった懐中時計の鎖がぶちっと音を立てて切れた。

 執事はそれには気付かなかったことにして、涼しい顔で上着を羽織り、内側のポケットから出した白い手袋を両手につけた。


「一旦忘れましょう」


「でも」


「一旦忘れてください! お願いだから!」


「え、なんで泣いてるの」


「泣いてないし!」


 その後煩悩を捨て去るがの如く、必死の形相(傍目には無表情)の執事が無心で筋トレに励んだ結果、完全に「仕上がっている」状態になった執事を見た件の皇太后が呼吸困難に陥るほど腹を抱えて笑い倒したのは、わりとどうでもいい話である。

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