【KAC20235】筋肉幽霊

武江成緒

筋肉幽霊

「この明治の御代みよに、幽霊とはね」


 揶揄やゆするような細井の言葉はしかしながら、曲がりくねり、うねって上り、道というよりは深い山林にかすかに残ったあとのようなこの山道の課す試練に、青息吐息の有様だった。


「しかもまた、その名称たるや、筋肉幽霊ときたものだ。

 迷信よりは流言蜚語ひごのたぐいと呼ぶべきものだろうが、それにしても笑えない」


 ずいぶんと長い物言いのあとに、ただぜいぜいと息をつく苦しげな音だけが続くので、足を止めてふり返れば、案の定、せて小柄な細井の身体は、大きなくすの樹の根元にしがみついてうずくまっていた。




 U県南東、牛置うしおき村の山奥にある志柴ししという名の集落に幽霊が出るとの風聞が、六年前に創刊された『U県日報』に届いたのは三日前のことだそうだ。

 おなじ年に制定された町村制にて定められた村域内でも、志柴はひときわ奥まった里で、瀬戸内の海に面してそれなりに開けた村の中心からは、この細い山道ひとつでつながっている。

 そんな辺陬へんすうの幽霊たんが、県庁のあるU市にまでも聞こえるようになったのかと、文明開化の普及ぶりに舌を巻いたが、それと同時に、そんな怪しげな話を確かめにわざわざ記者をよこしてきた『U県日報』の主筆の正気を疑いもした。


 たまたま村の学校に教師として赴任していた竹馬の友たる私を頼ってきた記者、つまり私の昔なじみのこの細井という男は、最後に会った時よりもせた風情になっていて、この取材がやはりさほどに名誉のある仕事でないのは容易に察することができた。

 これも旧友への義理だと、休日を費やし、問題の集落にむけて山道を案内しながらも、腐ったとしか言いようのない彼の態度と、それ以上に足どりを遅らす相変わらずの虚弱さに、私もいささか閉口していた。




 この山道が、志柴ししへと通じる道の筋、すなわちシシすじと呼ばれていて、漢字にては『肉筋ししすじ』という字をてるのだと知り、細井はさらに腐っていた。


「何のことはない。肉筋ししすじなぞという、奇妙なこの山道の名が原因だよ」


 三時間ほどもかけ山道をのぼり、ようやくついた志柴の集落。達成感などかけらも見せず、この寒村をののしるごとくに彼は大声をはり上げていた。


「“肉筋ししすじの先に出る幽霊の噂”。そもそもはそんな詰まらない迷信なんだ。

 それが近年の県の開発で、こんな山奥まで往来するようになった町の者が、何かのはずみで“肉筋の幽霊”をひっくり返して“筋肉幽霊”などという名を編み出したんだ。

 こんな僻地へきち、加えて幽霊なぞという陰気な古くさい迷信。それに対して“筋肉”という近代的かつ健康的な言葉。

 この取り合わせの突飛とっぴさが卑俗な面白さを生んで人の口にのぼるようになり、U市にまでも噂にのぼって、この僕がこんな辺鄙へんぴな土地にまで足を運ばされたのだと。そういう訳さ。ああ馬鹿馬鹿しい」


 一気にまくし立てた細井はしかし、これまでの山歩きで土埃つちぼこりでも吸いこんだのか、肺病患者のような咳を放ってその場にまたもうずくまった。




 幼いころから体の弱い男であった。

 私と細井のふるさとはU県の中央にあたるこれまたひなびた山村だった。村の子らは十歳になればくわをふるって親の仕事を手伝うのが習わしで、その腕たるや丸太ん棒を思わせるほどに太くたくましく育っていた。

 鍬を持ちあげることも叶わぬ小柄な細井は、悪童どもの格好のいじめの犠牲者で、毎日のように体に傷を、その心には虚弱なことへの劣等感を刻まれた。

 徴兵検査で入営できぬ恥辱を重ねながらも、聡明といえた頭脳によって大阪の大学へ進学したが、大成せぬまま戻ってきて、やっとのことで創刊直後の田舎新聞に拾われた。

 都会で成功しえなかったのは虚弱さに加え、それがゆえにゆがんだ性根のためであろうというのは彼の振舞ふるまいをただ見るだけで察せられる。


 そんな惨めな友の姿は、不快さや軽蔑の念を通りこして、ただひたすらにあわれみのみを呼び起こされるほどであったが、そんな無責任な感想のみでは済まぬ事態になっていった。

 こんな莫迦ばかげた真相では記事などとても書けはせぬ。この志柴の地で一夜を明かし、せめて紙面を埋めるに足る話題を採集せん。

 憤懣ふんまんをこじらせた細井はそう言い出したのである。




 ただでさえ疲労困憊ひろうこんぱいていで、この粗末な山ぶかい集落で一夜を過ごすなど、およそ賢明とは言えない。筋肉幽霊だとかいうふざけた物が実際に出るとは私も信じていなかったが、それでも明日、彼が無事な姿をふもとの地に見せてくれるかは危ういとしか思えなかった。

 せめて私も共に泊まってやれれば良いのだが、今日のうちに下山して明日は出勤せねばならぬ身であればそれも困難。

 どうか自身の身を案じて再考してくれと、そう頼んだのが悪かった。

 おのれの身体の貧弱さをあなどられていると、そう解釈した細井はいたく激昂げっこうし、ほとんど私を集落から叩き出さん勢いで別れの言葉を叩きつけてきたのだった。


 帰りぎわ、集落の者を一人つかまえて五十銭銀貨をわたし、友の身の安全ををどうか図ってやってくれと頼んだが、そのせた男は首を振って、きものがどうとか、幽霊に魅入られると恐ろしいことになるとか、迷信じみた要領を得ぬことをつぶやくばかりだった。

 そう言えばこの志柴の集落の者たちは、誰もかれもが細井とそう変わらぬほどに痩せて小柄で、始終なにかにおびえているかのような態度。よもや噂の筋肉幽霊とやらをおそれているのだろうかと、そう考えるのもいとわしい気分になり、傾きかけた日を追うように山道をくだって帰路についた。






 真の恐怖を味わったのは、その深夜の丑の刻、あるいはおよそ午前二時を回ったくらいのことであった。


 どん、どん、どん、と、私が下宿している村長の家のひのきの門扉を叩く音。お寺の鐘突き棒かなにかで叩いているのかと飛び起きれば、家の者たちの悲鳴がひびき。

 どどどどどどどと廊下を雄牛が突き進んでくるかのごときあしおとが、私の寝起きしている部屋に迫り来て。

 なんとか燭台に明かりをともしたその瞬間、ばぁん、とふすまがはね飛ばされ、天井板を頭で突き破らんばかりの威容がそこに屹立きつりつしていた。


 大胸筋、腹筋、上腕筋、大腿筋。そのほか医学書に記載されているのであろう、ありとあらゆる部位の筋肉をはち切れんほどにふくらませつつも、その体躯の形状はかろうじて人型であると言ってよかった。

 何よりも、ひときわ巨大に盛りあがった僧帽筋に包まれた首の上にっているのは、見まごうはずなく、細井の顔に他ならなかった。


 その筋肉を余すところなく駆使して、おそらくは一時間とかけることなくあの山道を踏破してきたその余熱と。

 長年の劣等感を綺麗さっぱりはじきとばしたよろこびと。

 膨大な筋肉そのものの発する精気と言おうか妖気と呼ぼうか、得体の知れぬ気迫とでもって、汗に濡れながらまさに輝く笑顔に満ちた細井の顔。


“筋肉幽霊”なるその怪異にとりかれた細井は虚弱だったその肉体を、希臘ギリシヤ彫刻を上まわる筋肉の権化と変えて帰還したのだった。




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