烏の魔法

律華 須美寿

烏の魔法

「あ、牛乳がない」

 そんな母の一言が原因で、私は外出することとなった。いや、決して『牛乳を飲みまくった罪』とかで家から追い出された訳ではない。そうではなく、ただ単純に牛乳の買い出しを依頼されたから、私は夜道に駆り出されたのだ。

「あ~あ……牛乳なんて明日の朝でいいじゃん……」

 思わず言葉が漏れ出す。そうだ。別に今である必要性はないはずだ。夕飯の調理に必要とかそういう話でもないのだから尚更だ。風呂上がりの一杯を冷たい牛乳から麦茶にでも変えて、就寝前のホットミルクを我慢し、朝食のコーヒーに牛乳を入れなければいいだけの話である。

「あれ……意外と使うな……」

 歩みを止めずに振り返る。ウチ、結構牛乳に助けられてるんだな。

 心の中で感謝の言葉を述べながら視線を戻す。時刻は既に夜の八時を回っている。当然空は真っ暗だし、日の出ていない分、空気はひんやり冷えている。

「…………」

 引っ掛けてきたジャケットのポケットに手を突っ込む。今が冬でなくてよかった。もしそうなら、こんなことでは済まなかっただろう。

「さっさと買って帰ろ……!」

 アスファルトを蹴る足を速める。こんな時間帯でも近所のスーパーは開いている。しかしいささか距離がある。うら若き少女の一人歩きには不安が残る程度には遠い。

なのでこのまま大通りを真っ直ぐ進む。駅前の通り沿いのコンビニに向かうのだ。そこにも牛乳は置かれているし、何よりとても近い。まさに便利。コンビニエンス。

適当なことを考えながら交差点を渡り、反対車線側を数メートル進む。すると程なくして夜の闇の中に浮かび上がる色とりどりの照明が見えてくる。びりびりと蛍光灯の唸る音が聞こえる。そこに何度も飛び込んでは弾かれる羽虫の悲鳴と共に聞き流し、店の入り口目指して足を進めた、瞬間。

「…………えっ?」

 目の前を黒い影が横切った。

 かなりの大きさだ。人の頭ぐらいはあった。夜の闇の中にあっても『黒い』と感じることが出きる程度には黒い。そして、目の前を通過していく移動能力を持っている。

「……カラス……?」

 こんな夜中に?思わないでもないが、そうとしか考えられない。飛んでいったと思しき方向に顔を向け、目を凝らす。

「…………あっ」

 いた。やはりカラスだ。コンビニのすぐ隣の電柱に止まっている。眠っている訳でもなさそうだ。しきりにくちばしを動かして、毛繕いに没頭している。

「…………いや……それより…………」

 気にするべき所はそこではない。自分の目にしたものが信じられない。思わずカラスの方に歩み寄ってしまいながら、もう一度目を細め、己の見たものを確認する。

「…………首輪?」

 煌びやかな金の首輪を嵌めているようにしか見えない。首輪の正面には、これまた鮮やかな輝きを見せる真っ赤な宝石を付けられているようにしか見えない。犬猫にならわかる。鳥……にもアクセサリーをつける意味はよく分からないが、ペットのインコとかに目印をつけたくなる気持ちなら慮れるものではある。

 しかし。

「カラスは……ペットじゃないでしょ……? まさか」

 野鳥の代表格でしょ、普通。家で飼えるものなの?

 混乱が混乱を生む。最早、目の前のこの光景が真実なのかすら怪しくなってきた。とにかく夢中で、謎のカラスの観察を続けるしかない。

 ――ガツッ

「あ!」

 足元に衝撃。見るまでもない。車止めにぶつかった。

「――」

 ピタリとカラスの動きが止まる。ぐるりと首を回し、こちらを睨む。

「…………」

「――――」

 数秒の沈黙。思わず息をひそめる。

 ――バサッ!

「…………あ~!」

 カラスが飛んだ。大きく羽を広げ、夜の闇に消え去っていく。

「うわ……っ!」

 幸いと言うべきか、月の光を反射する装具の輝きでその姿を見失うことはなかった。しかしそれは、私があの奇妙なカラスへの興味を捨て去るタイミングを完全に逃したことを意味した。

「ま……待ってよォ~ッ!」

 私にはもう、夢中で走り出すしか選択肢は残されていなかった。


 道路沿いの道を走って走って。家々の隙間をすり抜けすり抜け。公園や広場を通り過ぎ通り過ぎ。どれほどの時間が経った頃だろうか。

「はぁ……はぁ……はぁ…………」

 気が付いたときには、私は小学校の前に来ていた。自分が通っていた学校だ。この町のどこにある施設なのかは把握している。自分の家からどの程度離れた場所にあるのかも、当然。

「随分、近場……。 ……さんざん飛び回ったくせに……」

 息も切れ切れにこんな文句を言えるぐらいには、私の判断力も残っているようだ。

「…………」

 しかし困ったことになった。これではカラスの追跡が出来ない。今までは一応、公共の場所や一般的な通路に沿った飛行ルートを選択してくれていたのでついてくることが出来たが、ここは勝手に入って良い場所ではない。そればかりか私は部外者だ。在学生名簿に『言永ことながひかり』の名が記されていたのはもう遥か昔の薄れ始めた記憶の中の事実でしかない。この門を昇ろうものなら、次の瞬間には警察に手によって私はもっと高い塀の中に送られてしまうかもしれない。警察官にどうやって言い訳しよう?裁判官には?変なカラスを追いかけていたんです、なんて言おうものならそれこそアウトだ。小学生までだ。そんな言い訳が通じるのは。

「……帰る、かぁ……」

 こんなに頑張っておいて悔しいが、そうするよりなさそうだ。幸いここから家までは十数分と非常に近い。帰りがけにスーパーに寄って牛乳を買っていけばいい。カラスのことは、変わり者の家で飼育されていたやつでも逃げ出してしまったのだろうと納得しておけばいい。それでひとまず、良しといておいて……

「なぁんだ、もう終わり?」

「わっ!?」

 学校に背を向けた丁度そのタイミングで声が降ってきた。反射的に首をすぼめ、辺りを見回す。声なんてどこから?随分若い声だったぞ。どこにそんな子供なんて。

「あははっ、お姉さんビビりすぎぃ! コッチ、こっちだよ」

「…………?」

 無邪気に色を付けたような朗らかな声。まるで小学生だ。小学生のような声が、背後から。背後の小学校から。

「…………」

 恐る恐る、振り向く。

「ばぁ!!」

「きゃわッ!!?」

 門の上、丁度真正面からの驚かしに屈する高校生。情けないったらありゃしないが仕方なかろう。完全に想定外だ。だって、さっきまで誰もいなかったのだから。

「だ……誰ッ!?」

「『誰』? ……誰って、そりゃあ……」

 ころころと心の底から楽しそうな笑い声をあげる目の前の人物。ぱたぱたと踊る足は色白で細く、黒いスカートが余計にその滑らかさを際立てているようだ。上半身に纏うのも黒い服。黒いシャツに黒いカーディガン。そしてそんな黒ずくめの中、ひときわ目を引くのが、首から下げたネックレスだ。あの色、あの形。あれには見覚えがある。あり過ぎる。

「……『カラス』だよ? お姉さんがさっきまで追いかけてた」

「は……はぁ……?」

 金の鎖につながれた、真っ赤な宝石。推定小学生が持つには明らかに大人びたそのアイテムが放つ異様な雰囲気がもはやシュールだ。怖がるべきか笑うべきかも良くわからないまま、口を開く。

「カラスって、それ……ホントに言ってる? ……在り得ないでしょそんなの……。 人じゃん、あなた」

「えぇ~?」

 あどけなさと幼さしか感じない少女。自分の発言の可笑しさにすら気付いていなさそうなその瞳にはこちらを笑う色しか見えない。からかわれている。確実に。

「でも実際、私、言い当てたじゃん。 お姉さんがカラス追いかけてるって……。 普通の人はそんなことしないよぉ? 私が普通の女のコなら、そんなことも言い出さない。 違う?」

「そ……それはそうかもだけど……!」

 駄目だ。埒が明かない。完全におちょくられている。そう思ったら段々と腹が立て来た。大人げないと思わないでもないが、そもそも怒りの原因はこいつだ。糾弾されるいわれもない。

「でも、だからってあなたがカラスだなんてそんな話、信じろって方が無理でしょうよ。 ……あなたが私をからかって、この町を飛び回った張本人だってことになっちゃうじゃん。 ……無理でしょそんなの。 なに、魔女にでもなったつもりなの?」

 最大限に配慮した不機嫌の奔流。受け止めた少女も流石に冷静ではいられなかったようで。今までの余裕のポーズは何処へやら、目を丸くして小さく口を開いている。

「お姉さん……すごいね……!」

「……はぁ?」

「ホントだよ……! 私、魔女なの……! もっと焦らして教えるつもりだったのに、ざ~んねん!」

 流石に言い過ぎたか。後悔の念が生まれそうだったがそれもすぐに消え失せた。何を言い出すんだ、この女。まだ私を馬鹿にする気か。

「あなたホントにねぇ……! 小学生って言ったって流石に怒るよ……?」

「待って待って! 今証拠を見せるから、ね?」

 とうとう完全に吊り上がった眉毛を見て動揺したか、少女が慌てて門から降りてきた。そうして首に指を這わせて咳ばらいをすると、姿勢を正し、これから一曲歌うかのように真っ直ぐ正面を言つめる。

「なにしてんの」

「魔法だよ。 これから……見せるよ……!」

 自信満々。首元の宝石と同じくらいはっきりと輝く両目は嘘を言っているようには見えない。まさか本当に、何かやるつもりなのか。

「いくよぉ……!」

 少女の喉から飛び出した声が、確かな『力』を纏って空間を支配する。

 歌だ。どこの国のものとも知れない言葉で綴られた歌。それが空気を震わせ、家々にこだまし私の耳を満たしている。

「すごい……凄い、綺麗……!」

 これが目の前の少女から発されている歌だとはにわかに信じがたかった。熟練の歌手のそれとしか感じられなかった。まさしく奇跡。魔法のような歌声だ。

「あ……っ……!」

 それだけではない。目の和えで今、もう一つの『奇跡』が起ころうとしている。

「あなた……その……その姿……っ!」

 少女の姿が変化していた。

 大きな両目はつぶらな黒目に変わり、黒いカーディガンは艶やかな羽へと変じ。白く細長い足は立派なかぎづめに形を変え、次第に背丈が小さくなってく。

「内緒だよ……? お姉さんだけに、特別。 だから……!」

 その言葉が終幕の合図だった。

「!」

 歌は途切れ、心を揺さぶる感動の渦は止み、少女は姿を消し。

「行っちゃった…………ホントに……」

 金の首輪を嵌めたカラスが、真っ赤な奇跡を空に描きながら、再び大空へ飛び上がっていったのだった。


「アンタどこ行ってたのよ。 牛乳飼うだけで随分かかったじゃない」

 帰宅した私を待ち受けていたのは、予想通りの母親の説教だった。それもそうだ。急いでいけば十五分とかからずに帰ってこれたはずの所を、三十分以上も帰ってこなかったのだから。

「いや、コンビニに在庫なくて。 ……遠回りしたの」

「はぁ……?」

 そんなことある?訝しげだったがそれ以上母の追及は来なかった。正直有難かった。母の小言は小さくないから。いつだって、多すぎるくらいだ。

「…………」

 思いをはせるのはあの小学校の前での出来事。自分を『魔女』だと語った少女は本当にカラスに姿を変え、遠くの空に飛び去ってしまった。

 あれは幻覚だったのか。やっぱり私は担がれていたのか。

 そう思うのは簡単だ。でも私は、思うのだ。

「お母さん、カラスの好物って何だろうね」

「え? ……何だろ。 知らない……。 それがどうしたの?」

 この町、いや、この世には多分本当に『魔女』が居るのだ。人間たちと共に生活していきながら、ちょっとだけ普通じゃない人生を歩んでいる。そんな特別な人たちが、見えないところで確かに生きているのだ。

「ん。 気にしないで……。 ちょっと、気になっただけだから」

「そう……。 ……あ、お風呂早く入っちゃいなさい」

「は~い」

 でなければ、今日私の見た者の説明がつかない。彼女の歌声が実在のものだと言うことが出来ない。

「…………」

 そして、何より。

「……こぉんな置き土産されたら、お礼の一つもしたくなるでしょ……」

 廊下の只中で足を止め、窓を開く。顔だけ出して夜風を感じつつ、目を閉じ耳を澄ます。

 そうするだけで聞こえてくる、この声を否定することになてしまうのだから。

「…………案外、そこらにいるのかもね……。 あなたのお友達は」

 あの旋律と似た、綺麗で心地よい鳥や猫たちの歌う声が。

「いつまで保つのかな……この魔法……」

 きっと長くは保たないだろう。明日の朝にはもう、この歌声は聞こえなくなっているのかもしれない。

 だから願いたい。あの子が好きそうなものを用意して、そっと語り掛けたい。

「また……あなたの歌を聞かせてね……!」

 どこか遠くの方で、カラスの鳴き声が聞こえた気がした。

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