深夜の海岸にて
初音
深夜の海岸にて
午前二時。私は、てくてくと宛てもなく海岸を歩いている。
夏の海。夜でも薄着で身軽に歩くことができる。それが、なんだか心地いい。この解放感は、旅の特権だろう。
海風が頬を撫でる。波の音が、気持ちいい。
しばらく歩いて、私は適当なところに腰を下ろした。そして、髪の毛に砂がつくのも気にせず、仰向けに寝転がる。この辺りの砂はさらさらしているから、はたけばすぐに落ちるだろう。
空が、きれいだ。これも、この地ならでは。普段見ることは決してできない景色。
遠くからは、こんな時間だというのに誰かがパーティをしているのだろう、楽しそうな笑い声が聞こえる。今日は、特別な日だもんね。この町のあちこちで、パーティが開かれているんだろう。
でも私は、ひとりぼっち。誰も私を知らないこの町で、普段の煩わしい人間関係も、面倒くさい仕事のことも、別れたばかりの彼氏のことも、ぜーんぶ忘れて、頭を空っぽにしたくて、ここまで来た。貯金がほとんどなくなったけど、いつか結婚式をやるならと思って貯めてたお金だったから、未練はない。あの男、思い出してもムカつく。なんなの、あの浮気相手のキャピキャピした女……
だめだめ、忘れるためにこんな遠くまで来たんだから。せっかく、一度は絶対来てみたかった場所にいるのだから。楽しまなくちゃ。
「お嬢ちゃん、ひとりかい」
突然声をかけられ、私はびっくりして飛び起きた。私の顔を、白髪交じりのおじさんがじろじろと見ていた。小ざっぱりした服装で、手にはレトロなランタンを持っている。ランタンはぼんやりとやわらかい光を放っていて、気持ちまで暖かくなるようだった。
「はい、そうです」
私は短く答えた。
「若い女の子がこんなところで寝そべってるなんて。いくら今日はお祭りで浮かれてもいいからって、羽目を外し過ぎると酔っ払いに絡まれたりして危ないぞ」
「ありがとう、心配してくれるなんて。気をつけます」
私は髪や体についた砂を簡単に払うと、おじさんに軽くお辞儀した。あ、「お辞儀」ってわかってもらえるかな。正直、リスニングの自信はいまいちだが、一応会話は成立しているようだった。
「いったい何があったんだい。ひとりでこんなところまで」
「いろいろです。いろいろ。日本での日常に疲れちゃって」
詳しく説明する気にはなれなかった。けれど、他愛もない話題だったら、実は誰かとこうして話したかったのかもしれない、と思った。お互いにお互いを知らない、今出会ったばかりという距離感は、ちょうどいい。私は少し調子に乗って、会話を続けることにした。
「そのランタン、おしゃれですね」
無理矢理話題を変えたように思われたかもしれないが、おじさんは笑顔を崩さなかった。
「うん、これはお祭り用の魔よけのランタンさ」
「かわいい。お祭り、楽しいですか?」
「そりゃそうさ。ただ、ごちそうで胸やけしてしまってねえ。ここを散歩してたのもちょっとした腹ごなしのためさ。前はお腹いっぱい食べて、それでも朝まで仲間と騒いだりしたもんだが。年は取りたくないね」
「何時からが、朝なの?」
「あっはっは、いい質問だ。4時でも5時でも構わんが、朝だと思った時が朝だよ」
「ふふ、そっか」
私は再び空を見上げた。青く、澄んだ空。すーっと流れるような雲。真夜中なのに、星なんてひとつも見えない。それが、面白い。遠くの空は、夕焼けと朝焼けを足して二で割ったような、きれいなオレンジ色をしている。
「さて、おれはパーティに戻るかな。お嬢ちゃんもよかったらどうだい。旅行者歓迎。老若男女、いろんな国の人が来てるからさ。この町の名物料理、食べていきなよ」
そう言って、おじさんは小さいカードに自分の名前と住所を書いて渡してくれた。
「じゃ、待ってるよ。夜は長いというか、無いというか。まだまだパーティは続くから」
おじさんは立ち去ってしまった。
これも、楽しい旅先での一期一会かもしれない。普段なら知らないおじさんの誘いに乗るなんてあり得ないが、旅行先であるというテンション、暖かな日の光が私の背中を押した。
三十メートルくらい先を歩くおじさんの背中を視界の端にいれつつ、私は再び海岸を歩き出した。
六月二十五日午前二時三十分。美しい海、明るい空。ここはフィンランド北部、夏至祭で賑わう海辺の町。太陽は、一日中沈まない。
ひとりなりたくてここまで来たけど、なんだかいい出会いがありそうだ。これも、旅の醍醐味だよね。
私の頭の中はもう、どんな料理が食べられるのかな、ということでいっぱいだった。
深夜の海岸にて 初音 @hatsune
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