第13話 あたたかい土地
三十五、
「背中を押しに来てくれた、と思ったか…」
転落防止柵にもたれてショートホープをくゆらしながら、笠井はつぶやいた。一息吹いた紫煙が虚空に散っていく。
恭子は、笠井と一緒に昼食を終えた後、恒例の病院屋上での一服につきあっていた。話題は、五稜郭公園の桜並木に現われた兄の霊が言い残したことについてだった。
「失われた命は、お前たちの中で永遠に生き続ける…。それは、私たちのことを忘れずに覚えていて欲しいけれど、罪の意識を感じ続けることを望んでいるわけじゃない。むしろ、罪悪感から何もできなくなることのほうが、兄や亡くなった患者さんたちにとって罪深いことなんだと思えてきたんです。
亡くなった人たちを理由にして、この世で自分のやるべきことをやらなかったり、幸せを求めたりしなくなるなんて、それこそ亡くなった人たちに失礼だって」
「ふ~ん。それがあんたのたどり着いた一つの悟りなんだねぇ」
笠井は穏やかに目を細めながら恭子を見つめた。
「でも、幸せを求めるって言ったら、こっちの方についてはどうなの? 」
笠井が右手の親指を立てながら尋ねてきた。つまり、男の方はどうなのか? と。
「ええ、それについてはあれで良かったんだと思っています。本当に! 」
恭子は、さわやかに笑みを浮かべながら空を見上げた。
このひと月前、晩夏の福岡・中洲の夜。繁華街から外れた中島公園では、満月の月明かりが恭子と徹を照らしていた。
「――俺の女になってほしい。今夜は俺と一緒にいてほしい――」
あまりに直球すぎる徹の愛の告白だった。恭子は一瞬、めまいを覚え、セックスの時のような陶酔を感じた。憎からず思う男に、女として求められた喜びがこみあげてきたのだ。
恭子は満たされた気持ちで目を閉じた。すると、暗闇の中から全裸で抱き合う男女の姿が浮かんできた。
女の裸体は美しかった。肌は色白く、全身には円熟味のあるふくよかさがあった。それでいて手足は長く、乳房も豊か。恭子は、自分には無い魅力を感じて強い嫉妬を覚えた。
男は味わうように裸体を愛撫し続けている。その背中にすがりつき喜悦の表情を浮かべているのは江上慶子だった。程なく男女の位置が入れ替わった。慶子に愛撫を続ける男は、徹だった。
目を開けると、慶子を愛撫していた同じ顔がこちらを見つめていた。月明かりに照らされた徹の顔は青白く、艶めかしかった。だが、慶子を抱く徹の残像に恭子は強い嫌悪感を持った。私を抱いた時、この人はあんな満たされた顔をしていなかった——
「やっぱり、だめ。あの人を抱いているあなたを私は受け入れられないわ…」
恭子は絞り出すような、か細い声を上げて、徹から顔をそむけた。
その時、二人を照らしていた満月に雲がかかり、お互いの顔が暗闇の中に沈んだ。
「恭子…」
徹の声からは、明らかに動揺している様子がうかがえた。その後、話し続けた恭子の声も哀しみに震えていた。
「あの人を抱いたとき、あなたは私では味わえなかったものを感じていたはず。それに勝る喜びや快感を私は、多分与えてはあげられないわ。私には分かる。あの人はそれだけ魅力的だもの。
女として、知っている他の女よりもあなたを満たしてあげられないなんて、こんな屈辱的なことはないわ。私には耐えられない。だっていくら今、お前が欲しいと言われたって、心の中ではあの人の方がいいと思っているのが分かるんだもの」
徹は沈黙したまま何も言い返してこない。図星ということなのか。ここでもいらつくほど正直な男だと思う。
「仕事と稼ぎのことで頭があがらなくなることに耐えられないってあなたは言っていたわね。私には、あの人に奔ったあなたを赦すことは、やっぱりできないわ。だから、今夜この後、一緒に過ごすことはできません。ごめんなさい…」
恭子は、徹を残して公園を離れ、足早に那珂川通りを南へと歩き出した。徹が後を追ってくる様子はない。
中洲の街には漸く酔客が戻りつつあったが、足早に歩く恭子にただならぬ気配を感じた男たちは慄くように道を開けた。
空には雲間から再び満月が顔を出していた。月を仰いだ恭子には、そこに奈々の顔が重なって見えた。
「ごめんなさい…やっぱりお母さん、ダメだったわ。お父さんのことを赦せなかった。
やっぱり、自分を偽っては生きられないの。分かってちょうだい」
奈々の願いに答えられない悲しさで恭子の頬を涙が伝い始めていた。月明かりは恭子の思いを受け止めるように、涙に濡れた顔を優しく照らし続けた。
一服を終えた笠井と恭子は、屋上から「新型コロナ後遺症外来」のカンファレンスルームへ戻った。
「で、結局その後、旦那に離婚届に判を押させたんだ。でも、家族がいちばんの心の支えと言っていたあんたが、随分思い切ったもんだね」
「手続き上のけじめはつけましたけど、元の夫とも完全に縁を切るわけじゃありません。娘にとっては父親ですから、時々は三人で過ごしてもいいかなとは思っています。
お互いが、精神的に負担にならない適度な距離をとって必要な時には集まる。そんな関係でいいんじゃないかと思っているんです。まぁ、世間から見れば、一家離散もいいところなんでしょうけどね」
恭子はコーヒーを口にしながら自嘲気味に笑みをこぼした。笠井は、恭子の言葉に何度もうなずいていた。
「一つ屋根の下に父親が居て、母親が居て、子どもが居て。それが家族だという形にこだわるのが問題なのかもしれないね。DVも不倫も、引きこもりも、根っこにはそれがある。
今風に言えば、ディスタンスってやつは家族にも必要なのかもね。あんたの家族は、それを実践したってことなのかな」
そんな大層な…と苦笑しながら恭子はテレビのスイッチを入れた。NHKの北海道ローカルのニュースが流れ、旭川市郊外の住宅街の映像が写った。
「…昨夜、旭川市豊岡の雑木林で発見された遺体は、近くのアパートに住む大学生、江上悠太さんと確認されました。警察は、悠太さんを殺害したとして同居する母親の江上慶子容疑者、四十五歳を殺人の疑いで逮捕しました」
三十六、
恭子が、徹と会うことができたのは事件が発生して二週間後のことだった。
徹は関係者として警察の事情聴取を受け、慶子とともに現場検証にも立ち会ったという。
慶子は逮捕直後に悠太の殺害を認め、この時すでに検察から裁判所への起訴が行われ、身柄は札幌拘置支所に送られていた。十一月には刑事裁判が始まる予定だ。
明治時代の屯田兵司令官・永山武四郎を祀った永山神社に隣り合う原田家。恭子が訪れたのは十月半ば。家を出てから半年余りがたっていた。恭子が家に着いたとき、徹は庭に落ちた神社の銀杏の枯葉を箒で片づけていた。
「慶子は、俺を守ろうとしたんだよ。あの悠太からね。ダークウェブとやらを使って奈々を手にかけようとしたのもあいつだ。
奈々を殺せなかった悠太は、今度は同じ手で殺し屋を雇って俺に保険金をかけて殺すことを慶子に持ちかけたそうだ。だから、婚姻届けを出した後、俺に生命保険を契約するよう勧めてくれ、と言ってきたらしい」
恭子にお茶を出した後、徹は痛々しい表情で話し始めた。それは慶子の心情を思ってのことだろう。福岡で別れてからふた月もたっていないが心労が募ったためか、徹の頭髪には白髪が目立つようになっていた。
「今度こそ幸せになれると思った矢先に、自分に対する異常な執着で狂った息子が全てを台無しにしようとしている。そんなことを突きつけられた慶子の絶望はどうだったか…。慶子にできることは、親として、こんなふうになってしまった息子を自分の手で始末することしかなかったんだ…」
徹は湯呑みに置いた手を震わせ、そのまま慟哭の声を上げた。
(――なぜ、そんな悲しそうな顔をするんだろう? )
悠太は、母の顔にこれまで見たことのない悲痛な表情が浮かんだことに驚いていた。
僕たち二人にとってはとても素敵なプランだと思うのに。
あの男、原田徹が今月中に母との婚姻届けを役場に出すと言ってきた。それまで煮え切らない態度を取り続けていたのは、前の奥さんへの未練が断ち切れなかったようだけど、八月の終りに決定的に振られてしまったらしい。
母さんという人がいるにもかかわらず、実は二股かけていたわけだ。それだけでも万死に値すると僕は思う。でも、どうせ死んでもらうなら僕たちを少しでも潤わせてもらいたい。だから、保険金をかけようと思ったんだ。
あいつの娘の殺しを実行犯がしくじったのをきっかけに、警察が僕に目をつけ始めたようだけど、大丈夫。まさか、自分のパソコンに
お前が恐ろしい? 怖くて仕方ない? 前にもそんなふうに言われたね。あの時は落ち込んだけど、もう僕は平気だ。むしろ、それだけ頼もしく思われているんだと考えることにしたよ。
どうして泣いちゃうのかな? もう赦してほしい? 私を解放してほしい?
ふ~ん、そんなに僕と一緒にいることが嫌なんだ。怖いんだ。でも、僕はもうお母さんと離れるつもりはない。もう誰の手にも触れさせはしない。汚い手で触れようとする奴には死んでもらう!
どうしても僕と一緒にいるのが嫌なら…、これ覚えている? お母さんが買ってくれた登山ナイフ。これで雪の旭岳の谷底から這い上がってきたんだ。
これで僕のことを刺せばいいよ。そんなにお母さんに嫌われたんじゃ、僕も生きていても仕方ないからね。
「――悠太さんは、鋭利な刃物で背中と腹、数か所を刺されていて、出血多量で死亡したものと見られています。凶器として使われたのは登山用のナイフで、悠太さんが子どものころ、慶子容疑者から買い与えられたものだということです。
慶子容疑者は凶器について、『これで僕のことを刺してほしいと言われた。本当はこの子を守るはずのものだったのに、申し訳ないことをした』などと話しているそうです――」
何だか寒いな。目の前が急に暗くなってきた…
雪が降ってきた。吹雪になりそうだな。何だかこのままだと雪に埋もれちゃいそうだよ。
お母さん、ここから出してくれない? 寒くて仕方ないよ。
やっとお父さんとのスキー大回転の勝負が終わったんだ。もうしばらくはお父さんからは解放されるから、お母さんに甘えさせて欲しいな。
なんで、そんな悲しそうな顔しているの? どうして近くに来てくれないの?
お母さん! どこへ行くの? もう暗くて何も見えないよ! お母さん! お母さん!
三十七、
二〇二一年大晦日のお昼過ぎ、恭子は福岡市西部の市営地下鉄
この後、夕方の飛行機で旭川にいる徹も福岡に入ることになっている。娘の奈々と一緒に親子三人、この正月は福岡で迎えることになっていた。
恭子が向かっていたのは西新駅を出てすぐの商店街入り口に面したショッピングセンターの催事場だ。奈々が居候先の古賀智子に誘われて参加したNPOの催しが開かれていて、奈々はこの先、なぜ福岡で暮らし続けたいか、そこで話がしたいという。
暴漢に誘拐されそうになり負傷した奈々は十月末には退院して、古賀夫婦との生活に戻っていた。江上慶子の供述から奈々の殺害を依頼したのは、息子の悠太と判明。彼が死亡したことで警察は、奈々の安全は確保されたと考え、退院を許可したのだった。
ショッピングセンター二階の催事場で開かれていたのは、バザーだった。
子ども連れの若い主婦や中高年の女性客に、中央アジアで暮らす遊牧民の衣装を着た若い男性スタッフが、民族衣装やエスニック柄の入った小物、絨毯などの説明をしている。
その傍らでは現地の料理だろうか。インドのナンに似た小麦粉の生地を引いた平べったいパンが焼かれ、香辛料の効いた羊肉の焼き物、茄子や瓜とヨーグルトを絡めた料理などが振る舞われていた。
そうした出店の並ぶ先に、「砂漠を緑の大地に」「アフガニスタンに平和を」などのスローガンが入った幟を立てて募金を呼びかけている若者たちがいた。その中心でひときわ大きな声を上げているのが奈々だった。
バザーを主催しているNPOの名を「ナンガルハール開拓支援会」と言った。
アフガニスタン東部のナンガルハール州を中心に干ばつと飢餓で苦しむ住民を支援するため水路・灌漑施設の整備や農業指導を二十年以上に渡って行っている。
会を立ち上げたのは、ショッピングセンターに程近いミッション系大学の宗教学部で教員を務める教会の宣教師たちだ。この大学には、宣教師たちが世界各地の紛争地で人道支援を行う伝統があった。そのうちアフガニスタンに派遣されていたグループが、二〇〇〇~〇一年にかけて発生した大干ばつと、同時多発テロに対するアメリカ軍の報復攻撃によって飢餓に瀕した人々を救おうと、砂漠での農地開墾に乗り出した。それが「ナンガルハール開拓支援会」の始まりである。
広大な砂漠と洪水を繰り返す暴れ川と格闘しながら「支援会」は十年近くをかけて、長さ二十五キロにわたる灌漑用水路を建設。砂漠に約三千ヘクタールの農地を開くことに成功した。また「支援会」では、土木工事や農場の働き手としてイスラム原理主義勢力・タリバンや、対立する軍閥に身を投じていた若者たちをも受け入れ、その活動はアフガニスタンの幅広い人々から支持を得ることになった。
ところが、二〇一九年に悲劇が起きた。現地で農業指導をしていた「支援会」の代表である宣教師が正体不明のテロリストに襲撃されて命を落としたのだ。代表の妻と智子が親しかったことから、奈々は智子に誘われて「支援会」の宣教師たちが毎週日曜日に行う礼拝に参加し、会の活動も手伝うようになったという。
(何から話せばいいのかしら…)
募金を呼びかける奈々と恭子は目が合った。別れた時の記憶がよみがえり緊張が走る。
『あなたにとって私は邪魔者でしかない…』
そう言っていた娘が自分を母親として受けれてくれるのだろうか??。恭子は大きな不安を抱えていた。
奈々は、仲間のスタッフに断ってグループを離れて恭子の方へ歩いてきた。マスクをつけた表情はうかがいにくいが、動作にはぎこちなさが感じられた。
別れから一年が過ぎていた。北海道にいた頃よりも奈々の体型は丸みを帯び、年頃の娘らしさを増していた。心身の健康ぶりが分かり、安堵した恭子は奈々の緊張を解こうと声をかけた。
「きょうは、招待してくれてありがとう。あなたがこんな素晴らしいことに携わっていることが分かって、お母さん、とてもうれしくて誇らしいわ」
マスクの上の奈々の目つきが穏やかになり、気持ちが落ち着いたことがうかがえた。
「こちらこそ、お仕事忙しいのに北海道から来てくれて。私、ずっと怖かったかの。
お母さんのメールや手紙は読んでたよ。でも、どう答えていいか、私分からなくて、何もお返事できなくて。だからお母さん、私のこと怒っているんじゃないかなと思って…」
(そうか…あの手紙を出したことも奈々にはプレッシャーになってたんだ!)
申し訳なさを感じると同時に、奈々が自分への気遣いを続けてきたことがたまらなくいじらしく思えてきた。恭子は、奈々の両肩に手を乗せて語りかけた。
「そう、あの手紙でそんな気遣いをさせちゃって。あぁ~あ、私はつくづくダメな母親だ。娘が死のうと思うまで悩んでいるのに目をつぶって放っておいたうえに、別れてからも自分の気持ちを押し付けて、あなたを悩ませてしまって。本当、情けない…」
恭子は、奈々の肩に手を置いたまま俯いてポロポロと涙をこぼし始めた。奈々は恭子の手を宥めるように優しく握りしめた。
「おやおや、早速、涙の母娘対面? もう恭子さん、どうしちゃったのよ」
奈々と恭子の様子に気づいた智子が駆け寄ってきて、語らいの輪に加わった。
「本当に熱心なのよ、奈々ちゃん。私もびっくりするくらい。日曜日の礼拝に誘ったのは、気分転換のつもりだったんだけどね」
奈々は胸の思いを整理するためか、遠くを見つめるような表情を浮かべた後、静かに語り始めた。
「アフガニスタンなんてよく知らない遠い外国だった。でも、叔母さんにいろいろ教えてもらったり、自分でも調べてみると本当にひどい目に遭ってきたことが分かったの。
昔、ソ連に侵略されて、次はアメリカにも攻撃されたうえに干ばつで食べるものもない。だけど、これといった資源もないから世界中どの国も救いの手を差し伸べようとしなかった。そんな世界中から見捨てられた国を決して見捨てなかった日本人がいたことにすごく感動したの。
人間って捨てたもんじゃない。こんな立派で優しい人たちだっている。
北海道でのいじめのことがあったから、私、誰も信じられなくなっていた。
でも、『ナンガルハール』の人たちに会って、信じていい人もいるんだなって思えてきたんだ。
福岡に来て、良い友達もできたし楽しいことも増えた。でも何より『ナンガルハール』の活動に参加したことで、人の命を救うことに携わることができてすごくうれしかった。そういう仕事をしているお母さんを尊敬していたから。私もお母さんと同じ「命を救う」ことに携わっていきたい。
一度は死のうと思ったから、余計にそう思うんだ。誰かの命を救いたいって」
もともとすっきりと高い鼻梁と切れ長な目元が涼し気な奈々の顔。そこに、凛とした落ち着きとたくましさが加わったように恭子には思われた。何よりも目に力がみなぎっているように見えた。
(そうか、これが徹さんの言っていた『生きる目標を見つけたような』ってことなのね…)
恭子は、奈々の顔を見つめながら何度も頷いた。
三十八、
遅れて福岡に着いた徹が、恭子と奈々に合流したのはバザーが終った時刻だった。家族三人がそろうのは、奈々が旭川の家を出て以来、ほぼ一年ぶりだ。智子の計らいで、奈々は会場の片づけ作業から外れ、ショッピングセンター
「あなたが言っていた『奈々は変わった』という意味がよく分かったわ。智子さんたちには申し訳ないけど、奈々のこれからのことを考えると、私も暫くは福岡でお世話になった方がいいように思う」
「それと、智子たちも納得しているんだろう? 親権者は俺、ということで」
「ええ、それが奈々の意志ならばということでね」
恭子と徹の離婚に伴う奈々の親権問題は、結局、徹が親権者ということになった。
「私は、原田奈々という名前が気に入っているし、原田徹と恭子の娘でいたい」
という奈々の意思表示があったこと。そして、原田家の唯一の遺産相続者として奈々を明確に位置付けるということで、徹、恭子、古賀夫婦が合意したからだった。
奈々への相続を明確にしておこうと恭子と古賀夫婦が考えた背景には、徹の行動が影を落としていた。
「それで、あの人に面会することはできたの? 」
恭子の問いかけに、徹はため息をつき、苦笑いを浮かべた。
「いいや、相変らず面会は断られている。もう私に関わって欲しくないと、かなり頑ななようなんだ」
「でも、あなたとしては……」
「ああ、慶子は俺を守るために我が子に手をかけたんだ。それほどまでに俺を大事に思ってくれた女の人生、何としてでも引き受けなければと改めて思ったよ」
息子・悠太を殺害した犯人として逮捕され、刑事裁判を受けている江上慶子。
徹は慶子が刑期を終えた後、妻として迎えるつもりだと恭子たちに告げていた。ただし、入籍はせず、あくまで「事実婚」の妻として。悠太による奈々への殺人未遂の原因になった遺産相続問題を再燃させないため、あくまで相続人は奈々のみとするための配慮だった。
徹は、アフガニスタンで用水路の建設工事を指導する「ナンガルハール開拓支援会」の亡くなった代表の写真が掲載されたチラシに目を落としていた。民族衣装に身を包んだ白髪の初老の男性が、にこやかに現地の住民たちと語らっている。
「奈々は、この活動を何としても続けていきたいと思ってるんだな」
「うん」
「そうか。奈々はもう、その歳で天から与えられた使命を見つけたんだな。
人として生れてきた以上、誰にもこの世でなすべきことがある。恭子は看護師として人の命を守ることだね。
それに引き換え、俺は五十近くになるまで何をするために生きているのか、正直分からずにいた。情けないかぎりだよ。でも遅ればせながら、天命を見出だしたような気がしているんだ。
一つは、慶子の人生を引き受けることだ。あの悠太という息子が道を踏み外した一因は俺にもある。だから、俺にはこれからの慶子の人生を平穏にしてあげる責任があると思っているんだ。それと、これは報告なんだけど…」
徹はベンチから立ち上がり、心持ち胸を張りながら恭子と奈々に向き合った。
「札幌に本社がある『ライジング』ってホームセンターがあるだろう。
今月初めに、あそこが扱う日曜大工に使う工具や工作機械の製造をウチで一手に請け負う契約がまとまったんだ。
来年、『ライジング』は首都圏で新規の出店を進めるそうだから、年明け早々からその現場を駆け回ることになりそうだ」
「へえ、すごい! お父さん、念願の新規事業立ち上げだね」
奈々は、立ち上がって徹に駆け寄り、その手を握りしめた。
「ああ、俺もようやくご先祖様の財産で食いつなぐだけじゃない。地に足をつけた商売が始められそうだ」
江上親子の事件があって以来、すっかり老け込んだようにも見えた徹だったが、この時、恭子はその目に未来に希望を抱く若者のような光が宿ったように思えた。
「ナンガルハール開拓支援会」のバザーが解散した後、恭子と徹と奈々、そして智子の四人は、智子の夫・武志が予約した西新商店街にある馴染みの中華料理店に向かった。古賀家の年越しそばは、その店の支那そばというのが恒例だそうだ。
店への道すがら、徹と奈々が寄り添うように前を歩き、その後を恭子と智子が並んで着いて行った。
「お父さん、カッコよかったよ。僕があの人の人生を引き受けるなんて、大見得切って」
「茶化すなよ。俺は男しての責任をとらなきゃならんと思っただけだ」
「世の中、責任とりたがらない男ばっかりだからさ。やっぱりいいなって思うよ」
目の前を小突きあいながら歩く奈々と徹を見ていると二人の仲の良さがうかがえる。
まるで恋人同士のようだ。
奈々にとって徹は、男の
(何だか妬けるなぁ)
恭子は、この夏のことを思い出していた。
(徹の二回目のプロポーズを断ったのは私だ。だから私から徹が遠ざかるのは仕方ない。
でも、徹は慶子の心はつかんでいた。彼には相思相愛のパートナーが残ったわけだ。
(それに引き換え、私は……)
浮かない顔の恭子に智子が声をかける。
「どうしたの? 何だかふさぎ込んじゃったみたいだけど」
「何だか、寂しい……」
「え? 」
「あの人には、慶子さんがいる。智子さんにも古賀さんがいるでしょ。奈々は、当分福岡にいるわけだから、私は結局ひとりになっちゃった……」
うーんと考え込む智子だったが、やがて、恭子を見てニンマリとほほ笑んだ
「恭子さん、お見合いしてみない? 実は、結構いるのよね。旦那の知り合いで独身の
四十代、五十代の男の人。恭子さんならきっとすぐに相手が見つかると思うわよ」
恭子の目がきらりと輝いた。
********************************
「……当機は、あと三〇分で福岡空港に着陸します」
着陸態勢に入ったことを知らせる機内アナウンスで恭子は目を覚ました。
窓から外を見ると、眼下に福岡の市街地が広がり始めていた。
二〇二二年に入って始まった月に一度は福岡に通う生活。
二月に早速、智子の紹介で、男性と顔を合わせた。五十歳。地元銀行の本店で法人営業部長をしている。医師だった妻が四年前に急死したという。
キャリア女性の生活にも理解があり、恭子が医療に携わっていることにも共感してくれている。いい恋が始まりそうな予感がした。
三月は年度末の忙しさで会いに行けなかったが、四月に行く際には二人で会う約束をした。あす、奈々と古賀夫婦とプロ野球を観戦した後、三人とは別れて、彼と中洲で夕食をともにしながら初デートだ。心も体も忘れかけているけれど、仕事だけでは得られない充実感がやはり恋にはあるはずだ。
先のことは分からない。一見、理解があるように見えて実は、相手に対してストレスをため込んでいる男はいる。私はそれに二十年近くも気づいてこなかった「鈍い女」だ。
今度の相手には自分の都合をあまり押し付けてはいけないとは思っている。離婚という代償を払った教訓として。
私も、奈々も、徹も、離れ離れになり、それぞれが新しい人生に踏み出し始めている。
かと言って、絆が断ち切られたわけではない。むしろ離れているからこそ、互いの身を案じ、労わる気持ちが以前よりも深まっているようだ。互いの思いがすれ違いながら、一つ屋根の下で暮らしていた頃よりは。
着陸の衝撃が機体を揺さぶり、再び機内に灯りが点った。恭子はぱっと目を見開いた。
(「ディスタンス」をとりながらの家族か……)
笠井は、何か新しい家族のスタイルのような言い方をしていたが、「壊れた家族」は、結局元には戻らず、壊れながらも、何とか家族の体をなしたというのが実像だ。
ではあるけれど――
コロナ禍という人と人とが否応なく距離をおかなくてはならない時代に、そんな家族があってもいいのかもしれない。少なくとも私と娘、元旦那は、そこに光明を見出だそうとしているのだから。
去年、娘の誘拐未遂事件以来、もう何度ここに降り立ったことだろう。
来るたびに北の大地で冷えた身体をこの土地はあたたかく包み込んでくれるような気がする。福岡空港の到着ロビーを出て恭子は大きく伸びをして天を仰いだ。
四月、春真っ盛りの九州の空は雲一つなく、どこまでも蒼かった。
了
ディスタンス・ファミリー 幸田七之助 @Aoyama-Moon
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