第12話 奔流

三十、

 津軽海峡から吹き寄せる風は穏やかだった。

七月に入って蝦夷梅雨が終わり、晴れ上がった函館の街をゆったりと走る市電に恭子は乗っていた。車窓から見えるプラタナスの並木は、短い夏を謳歌するように緑色の大きなモミジ状の葉を茂らせている。

 この五日前、恭子は函館にあるDV被害者を支援するNPOのシェルターに逃れた佐々木洋子から電話で連絡を受けた。


「夫とやり直すことになりました。そこに至るいきさつについて、原田さんにも聞いてもらいたいお話があるんです」

 ということで、函館まで来てもらえないかという相談だった。

これはDV被害者のメンタルという点からすると決して手放しで喜べることではない。

洋子の場合、夫の佐々木克典は、加害者にあたる。支援者の恭子が知らないところで本来接触を断っているはずの加害者と連絡をとっている。これは、DV被害者の加害者に依存する心理が働いた、とも見てとれるのだ。

 恭子は、上司の笠井や精神科医と協議して、本当に夫と良好な関係を結べるようになったのか、実際に洋子に会って「診断」してくることになった。


 待ち合せ場所は、五稜郭公園内にある喫茶店だった。

恭子は市電の駅を降りて公園の桜並木の中を歩いた。五月の連休が明けた頃、満開の花を咲かせる五稜郭の桜並木は青葉を茂らせ、中天にある夏の陽射しを和らげてくれた。

 待ち合せの喫茶店は、復元された箱館奉行所の入場口に隣接していた。公園内の史跡巡りをしてきた観光客が足を休める休息所のようだ。団体客はおらず、探すまでもなく佐々木洋子の姿を認めることができた。向き合って座る男性の後姿が見えた。洋子が、恭子に気づいて手を振ったのに合わせて振り向いたのは夫の克典だった。

 克典の表情は、北斗医科大病院に押しかけてきた時と比べるとかなり穏やかだった。

恭子は一瞬警戒したが、その表情を見て「夫とやり直すことになった」という洋子の言葉には信憑性があると思った。

 

「ごめんなさい。函館に来て十日ほどして私から夫に連絡をとったんです。決して佐々木家の者とは接触しないよう言われていたのに約束を違えてしまって…」

 真駒内の自宅から洋子たちを「脱出」させたとき、恭子は、DV被害を繰り返さないために加害者となった家族との接触は厳禁だと繰り返し話をした。だが結局、洋子はその警告を受け付けなかった。恭子は苦笑いしながら口を開いた。


「そうね、確かにアドバイスを聞いてもらえなかったのは残念だったけど、改めて洋子さんと克典さんの夫婦の結びつきの強さがよく分かりました。でもね、夫婦円満なのはいいんだけれど、このまま洋子さんと真帆ちゃんが真駒内の家に戻ってしまったら、二人が抱えた心の病は何もよくならないわね、きっと」


 恭子の言葉に洋子は表情を曇らせたが、俯いていた克典が、顔を上げて恭子を真っすぐに見つめてきた。その目からは、何かの決意を固めたことが感じられた。

「洋子と真帆が、佐々木家に戻ることはありません。私の方が、家を出ることになりましたから」

「え? 」

 今度は恭子が驚く番だった。その驚く表情を見て克典は快心の笑みを浮かべながら話を続けた。

 

「会社の経営は弟に任せることにしたんです。辞表も書いて社長も辞めてきました。

さすがにお袋は慌てていましたが、弟は冷静というか、内心大喜びで受け入れましたよ。ずっと会社の実権を握りたくて仕方なかった男でしたから。

 社内にも弟の息がかかった幹部は多くて、取締役会でもあっさり私の辞任は認められました。結局、自分がいないと会社が回っていかないなんていうのは幻想でしかなかったんですよ。俺は実態のないものに縛られていたんだなとつくづく思いました。

 だったら今の俺にとって確かなものは妻と娘しかない。きのう「ササキ」と取引のある函館の運送会社に採用されて、来週からは三人で、社員寮で暮らすことになりました。周りは十歳以上も若い人ばかりですけどね。新鮮な気持ちで一からやり直しです」


 克典と洋子が何だか愉快そうに笑いながらこちらを見つめていた。多分、恭子が口をあんぐり開けて呆気にとられたような表情を浮かべていたからだろう。

 克典は、「ササキ」という会社と母・律子に代表される生家への呪縛から逃れられないために妻と娘の元へは奔れない…逆に言えば会社と生家を放り出して妻と娘の元へ奔りさえすれば、この家族は救われると恭子は見ていた。でも、それにはもう暫く時間がかかると思っていた。それが何と鮮やかな身の翻し方をするものだろうか。

 

 今度は、洋子が真帆からの言伝を話し始めた。

「原田さんが娘さんへの罪悪感をありのまま打ち明けてくれたからこそ、真帆も決して言えなかった私への罪悪感を告白できたと言っていました。それで、ぜひ原田さんに伝えてほしいと言われたんですけど。

 胸に抱えた思いをぜひ娘さんに、直接会って伝えてほしい。

自殺未遂まで起こした苦しみに向きあわなかったことを心から後悔していること。二度と娘の悩みから目を逸らさないと心に誓っていること。すべてを打ち明けたら、きっと思いは届くはずだって…」


 そのとき、五稜郭公園の桜並木から一陣の風が休憩所に吹き込んだ。

恭子が、克典と洋子の夫婦ごしに風が吹いた先に目をやると、桜並木の中に学生服を着た高校生の姿をした兄が佇んでいた。

 以前、現われた時のような厳しい表情は浮かべていない。その顔には安らかな笑みが浮かんでいた。


『診断に来たはずなのに、まさか患者さんから自分のこれからの生き方を教わるとは思いもしなかったんじゃないか? 』

 実際に声が聞えてきたわけではない。あたかもテレパシーのように兄は恭子の意識に語りかけてきた。


『兄さん、今度は私に何を伝えにきたの? まだ私のこと怒っているの? 許せないの?』

 恭子も意識の中で兄に問いかけた。兄の顔には柔らかな笑みが浮かんだままだ。

『お前が気づいたか確かめに来たんだ。命を医師や看護師にゆだねる患者は無力かもしれない。だけど、佐々木さんの家族のことで分かったんじゃないかな。時として患者は、医者や看護師が思いもしないような力を発揮するってことが』

『そうね、むしろ教わることが多かったように思うわ』

『医療の専門家も患者も同じ人間だ。ならば、委ねられた命から専門家だって学ぶことがあるんじゃないか。

 たとえ一つの命が救えなくても、お前たちが何か教訓を得て、次に委ねられた命を救えたなら、失われた命はお前たちの中で永遠に生き続ける。いつまでもな…』


 ズボンのポケットに入れていたスマートフォンのバイブレータが作動して、恭子は一瞬の白昼夢から覚めた。表示を見ると、徹からだった。

「すみません。家族から電話がかかってきまして…」

 目の前の佐々木夫婦は、電話に出るよう恭子を促した。


「もしもし」

(恭子か? ご無沙汰してしまって。今、大丈夫ですか? )

 四か月ぶりに話す徹の口ぶりは、馴れ馴れしさと丁寧さが相半ばしていた。恭子との距離感を測りかねていることがうかがえた。

「今、仕事先でお話しているの。後でかけ直すわ」

(うん。きみに会いたいんだ。できるだけ早く。先月、福岡で奈々に会ってきた。そこで話したことをきみに伝えたいんだ。直接きみと会ってね)

 青葉を茂らせた桜並木からは、依然としてさわやかな風が吹き込んでいた。その一方で、徹の話から奈々の名が出てきたところで、恭子は胸の鼓動が高鳴り、顔が次第に火照っていくのを感じていた。



三十一、

 佐々木一家が新しい門出を迎えたことを確かめた二日後、恭子は札幌駅で、旭川からやって来る徹と待ち合せることになった。

 盛夏を迎えた札幌の街は、日中、三十五度近い猛暑が続いた。駅南口ビルの喫茶店から大通公園に向かって伸びる道路を見ると、人々の姿が蜃気楼の中で揺らめいていた。

 幻想的な人の流れを目で追いながら恭子は、五稜郭公園の桜並木に姿を見せた兄が何を伝えたかったのか、ぼんやりと考えていた。

 

 恭子を悩ませた兄や新型コロナ感染症で亡くなった患者たちの幻影や幻聴。それは救えなかった命に対する罪の意識から生まれてきたものだろう。亡霊の影に怯えてきたようなものだ。その代表として兄は恭子に言葉を残していったのかもしれない。

 

『――たとえ一つの命が救えなくても、何か教訓を得てくれたなら、失われた命は、お前たちの中で永遠に生き続ける――』


 罪の意識に陥るあまり、命を救い、支える仕事を続ける自信を失っていた恭子。それを見かねて背中を押しに来たのだろうか。もっと目の前の患者に向き合えと。

 佐々木一家の見せた絆の深さや自ら立ち直る力のように、医師や看護師の想像をこえて患者は変わっていく。立ち止っている暇があったら、患者からもっと学んでこいと――。

 

「恭子…」

 ためらいがちにかけられた声で、恭子は現実に引き戻された。

声をかけられるまで、徹が席に近づいてくることに全く気が付かなかった。それだけ生気を感じさせる気配が伝わってこなかったからだ。

 徹の顔からは四か月前、恭子に別居しようと告げた時のような、どこか開き直った太々しさは消えていた。何かに打ちのめされたような弱々しさが漂っていた。


「奈々は、元気にしていた? 智子さんや武志さんにはとてもよくしてもらっているとは聞いているけれど」

 挨拶もそこそこに対面の席に座った徹に、恭子は開口一番問いかけた。

「北海道に居たころと比べると見違えて生き生きとしていたよ。智子夫婦とも本当の親子のようにうまくやっている。福岡で生き直そうという強い意志を感じだよ」

「生き直す…」

「ああ、智子も言っていたけど、つらい思い出しかない北海道へ戻すことは当面、考えないほうがいいと思ったよ」

「そう、それは仕方ないことでしょうけどね…」

 恭子としては、奈々の近況は気になりながらも、それ以上に徹には問いただしたことがあった。なぜ、自分と話しあわずに福岡へ行ったのか。本来ならば二人で考えをまとめてから、奈々の元を訪ねるべきではなかったのか。


 恭子の問いたげな口調で事を察した徹は、そのあたりの心情を話し始めた。

「本当なら、きみと話してから二人一緒に福岡に行くべきだったとは思う。でも、俺は

向き合うことから逃げた。きみと関わることが苦痛だったからだ。

 まずは奈々に、新しい女性と再婚することを認めてもらおうと思ったんだ。

奈々が認めてくれたら、その事実をきみに突きつけて一気に離婚、再婚へ持ちこもうと考えたんだよ」


 減滅させられる答えに恭子はため息をついた。

それにしても、なぜ、こんな知られたら恥ずかしいことを素直に話すのだろうか。

 徹の独白は続いた。


「奈々は、俺が離婚するのは仕方がないと言ってくれたよ。あの子は、俺がきみに屈辱を感じてきたことをよく知っていたからな。思惑通り、再婚も認めてくれた。

 でもな、奈々は、本当は元の家族に戻ることがいちばんいいんだと打ち明けてくれた。

それを聞かされて、このまま娘の好意に甘えてしまうんじゃ、余りに情けないと思えてきたんだ。

 俺は、きみに対してうだつが上がらないことに耐えられなかった。現実から逃れるために慶子との不倫に走った。きみの傲慢さのせいにしてな。元の家族に戻りたいという娘の思いに目をつぶって…。

 何とも見下げた男だ。このままじゃ俺は奈々の父親を語る資格はないと思えてきたんだ」


(この人も気づかされたのね。どんなに奈々が自分を愛してくれているかということに) 

 恭子も患者の佐々木真帆と接することで気づかされた。親を思う子どもの愛情の深さと、子供にとって生まれ育った家庭がいかに大事なものかということに。

 

(奈々は、元の家族に戻りたいと思っている??。ということは、私を許してくれるということかしら)

 恭子の表情がぱっと明るくなり、それを見て徹は何度もうなずきながら話を続けた。


「奈々は、きみのことを憎んでいるわけじゃない。人の命を救う仕事に懸命に取り組む姿を尊敬してきたし、それに恥じない娘になろうとしてきたと言っていた。福岡に届く手紙やメールを見て、きみが深く反省していることもよく分かってくれていたよ。

 わが子ながら本当によくできた娘だと思う。父親のことも母親のことも達観して、それぞれが思い通りに生きられる道を選んでほしいと言っている。元の家族に戻りたいという自分の思いはよそにしてな。俺は、奈々の強さにとことん打ちのめされたよ。

そこでなんだけど…」

 

 徹は心持ち俯きながら、バツが悪そうに頭をかいた。

(この人のこんな仕草、あの時以来だわ…)

 それは二十年前に徹が恭子にプロポーズした時に見せたものだった。愛の告白を前に照れる男の姿。束の間、恭子は胸の高鳴りを覚えた。


「きみからすれば身勝手な言い分だとは思うんだけど、俺は何とか奈々の思いに応えたいんだ。だから、その…奈々のために、また夫婦としてやり直せないもんだろうか…」


(奈々のためか…)

 徹の中に、自分を女として求める思いはもう無いということか??。

一抹の寂しさを感じながら恭子は、薄っすらと笑みを浮かべた。

 奈々のためにやり直したいという徹の告白からは、恭子に対する恨みやつらみを乗り越えようという健気さが感じられた。

(この人のことをこんなふうに可憐に感じてしまうなんて、やっぱり、私はまだこの人のことが好きなのかな…)


 恭子が改めて胸中の思いに気づかされたとき、徹のスマートフォンが鳴った。

「もしもし、ああ、智子か。うん…、何?! 奈々が?!」

徹の顔がみるみる蒼ざめていく。奈々の身に何か只ならぬことが起きたようだ。



三十二、

 その軽自動車に後ろに着かれた時から、奈々は嫌な予感がしていた。

五分ほど前から奈々が乗る自転車の後方十メートルほどを、ほぼ同じ速度で追いかけてくる。

 奈々が自転車を走らせているのは左手に博多湾にそそぐ名柄川ながらがわが流れる川沿いの一本道だ。バスケット部の練習が長引いたため日はすでにとっぷりと暮れて、川面には対岸の街灯ランプが反射している。右手には金網のフェンスが続いていて、住宅街に潜り込もうとしても入り口がない。奈々の自転車を追い抜くだけの道路幅は十分にある。にかかわらず、その軽自動車は同じ距離を保って着いてくるのだ。

 不審に思って奈々が振り向いてみると、アップライトになった照明が眩しく、軽自動車のナンバーや運転する者の顔は分からない。意図的に目くらましをしているように思われた。

 

 このひと月ほど、同じ型の黒いセダン車を見かけることがたびたびあった。だが、セダンはいつも百メートルほど離れたところに居て、それ以上近づいてくることはなく危険を感じることもなかった。

(この軽自動車は違う…)

 奈々は車や人通りの多い大きな通りまで早く出ようと立ちこぎで自転車の速度を速めた。

 すると、軽自動車は一気に速度を上げて、奈々の乗る自転車にぶつかってきた。

倒された自転車の前方に放り出された奈々は、ヘルメットを着用していたものの頭を打って意識を失った。

 次に気づいた時には、軽自動車の車内だった。後ろ手に縛られ、猿轡を咥えさせられて、後部座席と前部席の間のスペースに身体を屈める格好で押し込められていた。後部席に座った男に下腹部から腰のあたりを踏み付けられているので息が苦しくなり、それで目が覚めたようだ。


「おい、早くロープをよこせ。ここで絞め殺したら誰にも見られずにすむ。こいつの息の根を止めたら、例のアパートの風呂場で、手はず通りに解体するぞ…」


 奈々を踏み付けにしている男が前方の助手席の男に声をかけた。意識を取り戻してからも暫く現実をとらえ切れていなかったが、男の声を聞いてにわかに恐怖がこみあげてきた。

(何なのこれ? ああ、悪い夢じゃないのかしら。私、殺されちゃうの? 何で? 何で? 死にたくない! これからやりたいことがいっぱいあるのに、死にたくない! )

 

 叫び声をあげたがったが、猿轡のためにうめき声にしかならない。それに気づいた後部座席の男と奈々の目が合った。切れ長の酷薄そうな目をした男だった。慌てているようだが、奈々に憐れみを感じている様子はない。それは捕らえた獣でも見つめるような目で、人間扱いされていない感じが奈々にはした。


「くそ、目を覚ましやがった。とっとと絞めちまおう。さあ、早くロープ! ロープだ!」


 奈々は懸命にうめき声を上げ、身体をばたつかせるが、足腰を踏みつける男はびくともしない。やがて男が奈々の頭を持ち上げてロープを首に巻き付け始めた。

(ああ、殺される、殺される、殺される…)

 あまりの恐ろしさに目を開けていられなくなった奈々は、涙を流しながら目を閉じた。

(神さまって何て残酷なんだろう。せっかく福岡に来て、いじめる人もいなくて、友達もできて。そして…、将来やりたいことも見つかったっていうのに…何で? 何で?)


 後部座席の男は、奈々の首に巻いたロープの両端をつかみ、親指の付け根と手首に巻き付けた。そして、男がするするとロープが引き始めた時だった。

「何だ? こいつ。いきなり幅寄せしてきやがって…」

 軽自動車を運転する男がつぶやいた直後、大きな衝突音とともに車が激しく揺れて横に一回転し、車道右手の金網に叩きつけられた。

 奈々を踏み付けて、絞め殺そうとしていた男は前方に投げ出されて、運転席と助手席の間に、背中からすっぽりはまり込む格好になった。その拍子に後頭部を打ったのか、男は失神して動かなくなった。


 奈々も衝撃を感じたが、後部座席の足元に寝かされていたので、周りの男たちのように投げ出されることはなかった。

 数分後、後部座席のドアが開けられて、黒っぽいスーツを着た男が中をのぞきこみ、奈々と目が合った。歳の頃は三十前後だろうか。先刻まで奈々を踏み付けにしていた男と変わらないが、視線には人間を見る温かみが感じれらた。

「よかった~、生きてる! 主任、保護対象の無事を確認しました! 」



三十三、

 事件の二日後、恭子と徹はそろって福岡天神にある済生会福岡病院で治療を受ける奈々の元を訪れた。

 軽度の脳震盪のうしんとうとむち打ち症で、数日で退院も可能とのことだった。だが、再び襲われる恐れもあるため、一か月は入院してもらうことで警察の保護下に置くことにしたと、恭子と徹は説明を受けた。


「犯人たちは犯罪を依頼する闇サイトを通して、娘さんの殺しを請け負った連中です。皆、犯行の三日前に初めて知り合ったそうで、娘さんとは面識がありません。

 ネットを介した嘱託殺人。最近頻発していますが、金欲しさにアルバイト感覚で人殺しを引き受けるなんて、恐ろしい時代になったもんです」

 奈々を救出した福岡県警生活安全捜査課の主任であるベテラン刑事は説明しながらため息をついた。


 警視庁の委託を受けてネット上で行われる殺人の予告や依頼などを調査している「インターネット・ホットラインセンター」はこの二か月前、福岡市在住の「原田奈々」という女子中学生の殺害を依頼する闇サイト上の書き込みを発見した。

 その後、闇サイト上では実行に向けたやりとりが具体的に進んでいったことから、ホットラインセンターは、警視庁と福岡県警に事態を通報。福岡県警は、奈々の周辺に捜査員を配置して、何者かが接触を図ろうとするか監視を始めた。奈々が見かけていた「黒いセダン」は監視任務に当たっていた福岡県警生活安全捜査課の覆面パトカーだったのだ。


「それじゃあ、警察は奈々を囮にして捜査をしていたということですか? それはあまりに危険すぎはしませんか? 奈々の身の安全を考えれば」

 語気鋭く問い掛ける徹に、刑事は恐縮するばかりだった。

「私どもとしても、本当に何者かが娘さんに危害を加えるのか確証は持てませんでした。前もって事の次第を娘さんやご親戚の方たちにお伝えしようとも思いましたが、いろいろ生活に支障が出ることも憚られましたし…」

「恐怖心を抱けば、警戒もするでしょう。そうすれば、あんなふうに襲われることもなかったんじゃないですか? 幸い、近くにいた覆面パトカーが、犯人の車に体当たりして奈々を救出できたからよかったものの、もし、警察の警戒が緩んだ時間帯に犯行が行われたら、今ごろ娘はどうなっていたか…」

「はっ! ご心中お察しいたします。重ね重ね誠に申し訳ございませんでした」


 徹の剣幕に刑事はひたすら頭を下げ続けた。被害者の家族が警察を批判するような行動に出ないよう宥めるのが末端捜査員である彼の役回りなのだろう。

 保護対象者を危険にさらしたものの殺人未遂の現行犯を逮捕。それも社会的に関心を集めているネットを介した嘱託殺人の実行犯だ。マスコミもお手柄だと報道し、福岡県警では凶悪犯検挙の実績が上がったことを喜ぶ者が多いのが実情だろう。

 だが、これからの奈々の身の安全を考えたとき、肝心の問題は解決されないままだった。恭子は頭を下げる刑事に問いかけた。


「実行犯が捕まったのは結構ですけど、そもそも殺人の依頼をした犯人の方はどうなんですか? 捜査は進んでいるんですか? 」

 しわの多いベテラン刑事の顔が苦し気に歪んで、一層しわが増えたように見えた。

「それが…なかなか難航しておりまして。ダークウェブというのをご存知でしょうか? 殺しを依頼した犯人は、発信元を特定されないようにするソフトウェアを使って、闇の掲示板に書き込みをしておったんです。この発信元を特定するのは今の警察の力を持ってしてもなかなか難しいというのが実情でして…」


 インターネット通信の発信元・IPアドレスを特定されないように秘匿するソフトウェアを使って情報がやりとりされる「ダークウェブ」。その代表的なソフトに「Tor」(トア・The onion router)がある。

 これには一九九〇年代にアメリカの情報機関の通信を秘匿するためNRLアメリカ海軍調査研究所が開発した「オニオンルーティング」という技術が活用されている。通信をタマネギの皮のようにいくつもの層を重ねることで通信元の情報を秘匿する技術だ。

 タマネギの皮に当たるのが世界中に幾重にも用意されたコンピューターサーバーであり、転送を繰り返すことで発信元を分からなくしてしまう。また、サーバー間を転送される通信内容は暗号化されており、解読は極めて難しいとされる。

 二〇一〇年に警視庁公安部のテロ関連内部資料が、ファイル共有ソフト「Winny」のネットワークを通じて流出する事件が発生したが、このとき「Winny」ネットワークへの通信に「Tor」が使われたことが判明している。警視庁はいくつかの捜索先から情報を入手しようと試みたが、犯人につながる情報は得られず事件は時効を迎えた。

 その一方で、現在、ネット上には「Tor」が組み込まれたブラウザーが無料で提供されており、誰もが手軽にダークウェブにアクセスできるという現実がある。


「大本の殺人を依頼した犯人が野放しのままでは、娘はまた狙われるかもしれないじゃないですか! 市民を危険にさらしたままで警察は何もできないのか!」

 いら立ちを爆発させた徹に刑事も眉をひそめた。やがて右手の親指と人差し指を顎に添えて、恭子と徹に思案顔を向けてきた。

「まあ、ホシは大層な技術を使ってはおりますけども、要は娘さんが狙われるということは、娘さん当人か、或いは親御さんに強い恨みを抱く者がおるんじゃないですかね?

 怨恨の線で調べを進めた方が案外、ホンボシにたどり着くのは早いような気もするんですよ。いかがでしょうか? 」


 古強者らしく、刑事は下手に出ながらも巧妙に会話を尋問に切り替えようとしていた。

「恨みを抱く者って…」

 そう言いかけて、徹は口をつぐんでいた。それまで紅潮していた顔が心なしか蒼ざめている。恭子から見ても何か心当たりがあるのではないかと思わせる素振りだ。

「どうされました? 先ほどまではあれほど滑らかにお話されていたのに」

「いえ、急に誰かに恨まれていないかと言われても…とんと見当がつかなくて」

 そう言いながら、顔には動揺ぶりがありありと浮かんでいる。嘘をつこうと思ってもすぐに顔に出るのは相変わらずか、と恭子はため息をつきたくなった。


 一方、刑事の表情には、責め立てられていた時よりも落ち着きが戻り、目には獲物にねらいを定めた猛禽類のような鋭い光があった。

「妹さんから伺いましたが、お二人は近々離婚するおつもりだとか。ご主人にはすでに再婚をお考えの方がいて、先月、そのお話をしに福岡に見えられたそうですな。

 その際、再婚をお考えの方の息子さんと、遺産の相続をめぐって口論になったという話しもうかがいました」

「個人のプライバシーを詮索するのはやめていただきたい」

「これは失礼。ただ、近々北海道にもうかがって、その方、家政婦をされているそうですな。いろいろお話を聞かせていただこうと思っております」

「夫婦や家族の関係を邪推するより、科学的な捜査で真相の解明を進めていただきたいですね。それに、私と家内が離婚するなんていうのも勝手な憶測だ。少なくとも、今、私にはそんなつもりはありません! これからまた夫婦としてやり直そうという話しをするところなんだ! 」


 『ドキリ』と、心臓が激しく波打つのを恭子は感じた。

(全く、どこまで正直なんだか。刑事にプライベートをみんなさらけ出すなんて…)

 刑事は、恭子と徹の顔を交互に眺めながら怪訝な表情を浮かべた。

「ご夫婦の間もいろいろ込み入った事情がおありのようですな。まあ、いずれにせよ今後もぜひ捜査へのご協力をお願いいたします」

 恭子と徹は、午前中に病院で奈々を見舞い、昼食後に福岡県警本部で事情説明を受け始めた。二人が県警本部を出たころには、夕暮れ時にさしかかっていた。



三十四、

 恭子は、中洲に宿をとっていた。智子夫婦とは気心が知れているとは言え、徹の親族の家に泊まるのは、徹との今後の関係が不透明な中、憚られる気がしたからだ。

 二人は、市営地下鉄箱崎はこざき線で馬出九大病院前まいだしきゅうだいびょうんまえ駅から中洲川端なかすかわばた駅まで移動し、那珂川なかがわ沿いの道を北に向かって歩いた。漸く、屋台が店を出し始め、コロナ禍前の賑わいが九州最大の歓楽街にも戻りつつあった。夏の盛りを過ぎ、日が暮れると川を渡る風は心持ち涼しく感じられた。


 徹は、恭子の左手前を歩いている。恭子が泊っているホテルとは反対の方向だが、かと言って目指すところが決まっているほど確かな足どりでもない。

(何か迷っているときの典型的なパターンだわ…)

 恭子は、苦笑しながら後ろを歩いていたが、若い頃が思い出されて心には浮き立つものがあった。結婚のプロポーズの時は、さっぽろテレビ塔から大通公園を延々歩かされて、ようやく徹の告白が始まったのは、3キロ以上離れた円山公園の手前だった。

(中洲は、大通公園ほど広くはないから、まあ、黙って着いていってやるか)

 恭子の思ったとおり、那珂川通りの長さはプロポーズの時ほどの時間を徹に与えてはくれなかった。歩き始めて十五分足らずで、二人は中洲の北端・中島公園までたどり着いてしまった。


 それまで俯き加減で歩いていた徹は、遊歩道が途切れたところで慌てて立ち止り、意を決したように恭子を振り返った。顔には、切羽詰まったような、恥し気な表情が浮かんでいる。

「この前の返事を聞かせてほしいと思っているんだ。俺とまた夫婦としてやり直してもらえないかということに。だけど、その前にきみに打ち明けておきたいことがあるんだ」

 徹は鼻の頭を何度もこすり、そわそわしながら眩し気に恭子を見つめている。

(どうしちゃったのかしら? いい歳の男が、妙に初心な感じになってしまって…)

 先日の告白では、徹の仕草に可憐さを感じた恭子だったが、きょうの落ち着きの無さには首をかしげたくなった。


「この前、話した『やり直したい』ということの意味というか、質が変わったというか…。

この前は、奈々の父親と母親としてやり直したいという意味で話したんだ。でも、その時、きみは悲し気に笑っていたよね。何か落ち込んでしまったような感じがしたんだ」

(私も、思ったことが顔に出やすいのね。この人のことは言えないわ…)

今度は、恭子が赤面して俯く番だった。


「でも、その悲し気で憂いを帯びたきみの表情を見ていて、俺は…、たまらなく愛おしく思えてきたんだ。きみのことが。こんないい女だったのかと改めて気づいたんだよ」

(女らしい顔か…この人には見せてこなかったなぁ、長いこと)

 この十年近く、恭子は家庭でも「看護師長」の顔ばかり見せてきた。

徹に対して、自立した女だと認めてもらうために必要だと思ってきたからだ。そして、いつからか、「女の顔」を見せることが煩わしくなっていった。

(確かに私にも落ち度はあった。でもなぁ…)

 恭子の思考が堂々巡りを続ける中、一旦、話を切った徹は、熱を帯びた目で恭子を見つめ直した。


「だから、今は、奈々の母親としてというよりも、俺の女になってほしいと心から願っている。できたら今夜は、俺と一緒に過ごしてほしい」

 徹の言葉に、恭子は大きく目を瞠った。この夜、東の空に上り始めていた満月の光に、恭子の顔は、青白く美しく照らされていた。


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