第11話 選択
二十七、
六月に入ると北海道にはオホーツク海から流氷が解けたあとにできる冷たい湿った空気が流れ込んでくる。そのため十日から二週間ほど、シトシトと雨の降る日が続く。これが「
この日の朝、札幌・ススキノに雨がけぶるように降りつづく中、北斗医科大病院の正面玄関にハイヤーで乗りつける三人の人影があった。
紺青のダブルスーツを着こなした壮年の紳士と、ショートボブの銀髪に大きなサングラスをかけ、口紅と爪に塗ったマニキュアの赤さが目をひく初老の女。そして、地味なグレーのスーツを身に着け、太めの黒縁眼鏡をかけた神経質そうな男。
玄関からそのまま真っすぐ総合案内に向かった壮年の紳士は受付嬢に声をかけた。
「事務長さんにつないでください。きのう弁護士を通じてアポを取らして頂いた佐々木です」
それから十分あまり後、窓から霧雨に煙るススキノの街並みを望む病院の廊下を一緒に歩く恭子と笠井の姿があった。事務長からの呼び出しを受けたからだ。
北海道内に五十を超える店舗を展開するスーパーチェーン「ササキ」の社長・佐々木克典と母親の律子。そして顧問弁護士の三人が乗り込んできたという。
この五日前、恭子は笠井と事務長の承認のもと、佐々木克典の妻・洋子と娘・真帆の「家出」を助けて、DV被害者を受け入れるNPOが運営する緊急避難所「シェルター」へ送り込んだ。
この家出――というよりも緊急避難は、佐々木家の親族から受け続けた精神的苦痛を原因とする精神疾患の治療を受けるために行ったこと。一連の行動は、北斗医科大病院の原田恭子看護師の支援を受けたものであること??洋子は家を出る際、以上を記した書置きを残していた。もちろん、恭子の指示を受けてのことだ。
「やっぱり来ちゃいましたね。まあ、誰の助けを受けて家出したか書置きがあったんだから当たり前ですけどね」
「うん? 怖気づいたのかい? 」
「いいえ、こちらには何もやましいことはありませんから。でも、弁護士連れて乗り込んできたってことは、裁判も覚悟しなくちゃいけないってことですよね」
「そこまで争うつもりがあるかどうか。女房と娘に逃げられて病院相手に裁判なんて名のある会社の経営者としちゃあ、みっともいいもんじゃないからね。穏便に話し合うつもりならそれは良し。もしも、何か罪状を論って訴えてくるんなら、こっちは受けて立つ用意はあるからさ」
笠井の横顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
(相変わらずの喧嘩好きだな…)
旭川の旭生病院でも、笠井は介護病棟をめぐって経営陣とさんざんやりあってきた。強硬に打って出て、相手が根負けするまで粘りぬく。そんな笠井の喧嘩の流儀を恭子もすぐ傍らで、半ば呆れながらも感嘆を持って見つめてきた。
「でも、私としては、あの母娘と旦那との間には、これ以上、決定的な亀裂が入らないようにしたほうがいいと思っているんです」
「と言うと? 」
「まだ、あの三人は、やり直せるんじゃないかって感触があるんですよ」
この五日前、母娘の家出に立ち会った時のことを恭子は思い起こしていた。
漆黒の闇の中から青白い世界が浮かび上がってきた。次第に住宅街の背後にある山の稜線も見え始めた。エンジンを切って三十分余りがたち、車内はすっかり冷え込んでしまった。夜明け前の住宅街で、アイドリングを続けて住民から騒音の苦情を食らうわけにはいかない。恭子は体に毛布を巻き付けながら駐車場に洋子と真帆の母娘が現れるの待ち続けていた。
札幌市最南端の真駒内地区にある公民館の駐車場。母娘の住む佐々木家からは歩いて十分足らずだ。掲示板に貼られた「熊注意」のポスターに描かれた禍々しいヒグマのイラストが、明るくなるにつれてくっきりと見えてきた。
(そうか、夜行性のヒグマがうろついてるかもしれないこの時間帯、外に出るのは結構命がけだわ…)
同居する姑・律子に気づかれずに家を出るためとは言え、恭子は改めて母娘に危険を冒させていることに気づかされた。約束の午前四時まであと五分。時間を過ぎたら思い切って家の前まで乗り付けることにしよう。あの姑のババアに気づかれたって構うものか。遅かれ早かれやりあうことになるんだから…。
恭子がそんなことを思っていた矢先、荷物を抱えた二人の人影が駐車場に現れ、恭子の乗る車に向かって駆け込んできた。
(時間どおりだ)
母娘の「家出」を確認した恭子は、北斗医科大病院の社用車であるデミオのエンジンをスタートさせた。
新型コロナ感染がきっかけでひきこもりになり、リストカットも繰り返すようになった女子中学生・佐々木真帆。それまでは、バスケットボール部の主将を務める名選手であり、学年でもトップクラスの成績を誇る優等生だった。
だが、それは貧しい家庭から北海道内でスーパーマーケットチェーンを展開する佐々木家に嫁いだ母・洋子を、姑・律子の「いびり」から守るためだった。文句のつけられない優秀な子どもを生んだ嫁という立場にすることで。
ところが、コロナ感染がきっかけで悪質なLINEいじめを受けてひきこもりになった真帆は、優等生の座が滑り落ちてしまった。
『こんな私じゃ、もうお母さんを守ってあげられない』
洋子に対して強い罪悪感を抱くようになった真帆は、リストカットを繰り返すようになってしまった。
恭子は、真帆が「心の病」となった要因に、優等生であることを強いられる今の家庭環境があると見た。そこで上司の笠井冴子に相談し、洋子と真帆を、DV支援を行うNPOに保護してもらうため、佐々木家から家出させることにしたのだ。
この日恭子は、洋子と真帆をNPOが函館市で運営するシェルターに送り届けるために、病院の社用車で自宅のある真駒内まで駆けつけていた。
「すみません、こんなところまでお越しいただいてありがとうございます」
母親の洋子は、車に乗り込みながら荒い息で恭子に声をかけてきた。後で話を聞いたところ自宅を出てから駆け通してきたらしい。
「とにかく急いで。あまり人目につかないうちに、お家の近くから離れましょう。真帆ちゃんもいいわね? 」
あいさつもそこそこに問いかける恭子に、娘の真帆は黙ってこくりとうなずいた。
恭子の運転するデミオは、真駒内の住宅街を走り抜けて札幌駅めざして北上していく。
シェルターのある函館行き・特急北斗の始発は午前六時だから、まだ余裕はある。ただ、駅に着くまで洋子と真帆を極力人目につかないようにしないといけない。朝食は途中、コンビニで私が買えばいいか…などと思いをめぐらしながら恭子は、豊平川沿いに車を走らせた。
後部座席に乗り込んだ母娘はずっと黙り込んでいたが、まず口を開いたのは真帆だった
「もうパパには会えないかもしれないんだよね…」
真帆の問いかけに、洋子は車窓から見える豊平川の河川敷に目を向けたまま答えない。
恭子もバックミラーで、洋子の横顔に目をやるが表情は読み取れない。
「私のために、お母さんがお父さんと別れなきゃならなくなるの、やっぱりつらいし、嫌だよ。だってお母さん、お父さんのことをまだ…」
「あなたがいつもそう言って私の踏ん切りがつかなかったから、今の状況が続いているんでしょう! 」
洋子が語気を強めて答えた。語尾には感情的な震えがあった。窓から朝の陽ざしが差し込み、洋子の横顔を白く照らしあげ始めたので、恭子には相変わらず表情が分からない。車内の気まずい空気を察した洋子が言葉を続けた。
「ごめんなさい、感情的になって。でも、今、いちばん大事にしなければいけないのは、あなたの健康だということで、やっと私も家を出る決心がついたのよ。あなたが私とお父さんのことを気遣ってくれることは有難いけど」
「でも、『あの人』がいないところではお父さん、いつも優しくしてくれていたじゃない。決してお母さんへの愛情を無くしたわけじゃないと思う。私からすると、決心しなきゃいけないのはお父さんよ。私たちをとるのか、『ササキ』をとるのか」
洋子が真帆に顔を向けるのがバックミラーを通して恭子には見えた。朝の陽ざしを浴びた神々しさの漂う白い顔には寂しげな笑みが浮かんでいた。
「真帆、いい? 人生って、何でも望むものが手に入るわけじゃないの。何か大切なものをつかみ取るには、何かを犠牲にしなきゃいけないこともあるのよ。何を捨てなきゃいけないのか、私はやっと心を決められたのよ。原田さんたちのおかげでね」
洋子は、笑みを浮かべながらバックミラーを通して恭子へ視線を向けてきた。恭子は、ミラーに写った洋子に小さくうなずいた。
精神医療に携わる者として、洋子と真帆を「家出」させたことは決して間違ってはいないと思う。少なくとも娘・真帆の健康を取り戻すという点では。
だが、この母娘の幸福という観点からすれば、やはり大きなものを犠牲にしてしまったようだ。母娘と父親との間に確かに存在していた「円満な家庭」というものを。
それを取り戻すことが、母娘の真意だということが車内の会話で分かった。だから、このまま母娘と父親を引き離しておけばいいというわけにはいかなくなった。
では、どのような落としどころがあるのか。新たな宿題ができたと恭子は思った。
その一方で、恭子は思うのだった。自身の夫と娘との関係に向き合えていない今の自分に他人様の家庭の行く末に思いを巡らす資格などあるのだろうか。その前にやるべきことがあるのではないかと。
日がすっかり昇りきった時刻になった。車のフロントガラスから差し込む陽ざしのまぶしさが、恭子の目には妙に沁みるように感じられた。
二十八、
「私も商売やってていろんなものを盗まれましたけどね、まさか嫁と孫を盗まれるとは思いませんでしたよ。長生きするといろんなことを経験させてもらえますわね」
佐々木律子は、鼻にかかったような声で目の前に並んで座る恭子と笠井、北斗医科大病院事務長の吉村に悪態をついた。その上でサングラスを外し、三人を舐めるように睨みつけた。一代で亡き夫とともに会社を立ち上げた強烈な自負が思わず頭をもたげたようだ。
蝦夷梅雨の中、北斗医科大病院に押しかけたスーパー「ササキ」の佐々木克典社長と母親の律子、顧問弁護士の三人を迎えた会議室。
話し合いは、家を出た洋子と真帆の所在を知りたいという克典社長の意向を弁護士が病院側に伝えたところから始まった。
「佐々木家の親族による虐待からの保護を求められた以上、母娘の所在については答えられません」
と吉村事務長が答えた後、どんな条件飲めば教えてもらえるのか、克典社長が直接、吉村と問答を始めた。
「私としては、妻と娘の希望に沿うできるかぎりのことをしたいと思っています」
「いやその、洋子さんと真帆さんが問題にしているのは、ご主人の姿勢というだけではありませんでして…」
細面の顔に困惑の表情を浮かべた吉村は、バーコード状に薄くなった白髪頭をかきながら言葉を濁した。言外に、律子の日ごろからの言動に問題があったことを匂わせたのだが、そこへ律子が逆切れするように悪態をついたのだ。
気まずい空気を察して「ササキ」の顧問弁護士が慌てて律子を宥めにまわった。
「奥さま、きょうは示談のための話し合いの場です。穏やかに冷静にお願いします」
律子の吊り上がった目が弁護士に向けられた。
「盗人を盗人と言って、どこが悪いんだい? だいたいこういう困った時のためにあんたに金を払ってきたんじゃないか。肝心の時に何の役にも立ちやしない」
律子の対面に座る吉村事務長は大きくため息をついた後、口を開いた。
「盗人呼ばわりされたんじゃ元も子もありませんなぁ。私どもはご本人たちの意志に反してどこかへ連れ出したわけじゃない。御覧の通り保護を求める委任状を頂いたうえで手助けをしたまでです。略取、誘拐には当たりません。それを人さらいとおっしゃるのなら、私どもに対する名誉棄損にあたる」
吉村は、律子に委任状を示して見せた。律子が、弁護士に顔を向けて目で問いかけると、弁護士は無言で何度もうなずいた。
「あと、洋子さんと真帆さんの症状について担当看護師からご説明いたします」
吉村に促されて恭子は説明を始めた。
洋子については、律子から絶えず精神的な苦痛を受けることに起因する「うつ病」の診断が出ていること。真帆がひきこもりを脱することができず、リストカットをくりかえしている病状は、現在の家庭環境に対する「適応障害」と診断されていることを説明した。
「真帆さんは、洋子さんを『いびり』から守るため、律子さんに文句のつけられない孫でいなくてはならないと考えるようになりました。それがひきもりになったことでかなわなくなった。そんな自分が申し訳なくて仕方がない。だからリストカットを繰り返すようになったんです。
実の孫をそんな状況に追い詰めてしまったことを律子さんには重く受け止めていただきたいと私は思っています」
恭子は、怒りを滲ませて律子を見つめたが、律子は再びサングラスをかけ直してそっぽを向いてしまった。恭子の問いかけに応える気はなさそうだった。
応えてきたのは、息子の克典だった。
「そうですか。洋子には、我慢してもらうことが多々あったとは思っていたんですが、真帆が洋子のことを思ってそこまで追い詰められていたとは気づきませんでした。無自覚だったことを深く反省したいと思います。でもね、看護師さん…」
克典は、こみあげてくる感情を押さえながら縋るような視線を恭子に向けてきた。
「確かに私は、洋子のことをまだ好いているし、真帆はかけがいのない娘だ。それと同時に、親父とお袋が築いたこの会社も、そこで働く従業員も大事なんだ。私の命と言っていい。皆さんからすれば、とんでもない鬼婆に思えるかもしれないが、お袋の言うことなすことは全て私や会社への深い愛情に根ざしたもんだんです。だから私としてはその思いも決して蔑ろにするわけにはいかないんですよ」
克典の横でそっぽを向いていた律子がうつむいて鼻をすすっていた。サングラスの下の表情はうかがえないが、息子からの言葉が心に何がしか波紋をもたらしたようだ。
「ですからね、妻と娘が大事か。会社と母親が大事か。どっちか選べと言われても、私にとってはどちらも大事なものなんだ。選ぶにも選びようがないんですよ…」
克典は困り果てた表情で天井を仰いだ。
病院の外では霧雨が降り続いていた。車のタイヤが水たまりを跳ね上げるかすかな音だけが暫し会議室に響いた。やがて恭子は立ち上がって、克典に言葉をかけた。
「でもね、社長さん。洋子さんは選びましたよ。あなたか、真帆ちゃんか、どちらを大切にしなくちゃいけないのか。身を切る思いでね。今度はあなたが選ばなくてはならない番じゃありませんか? 」
恭子は、そのままロの字型に並んだテーブルの反対側に回り込み、克典の傍まで歩み寄って、さらに語り掛けた。
「洋子さんが選んだのは真帆ちゃんの健康でした。でもね二人とも、あなたとは、またやり直したいというのが本当の思いです。そのために、何をする必要があるのか。すべてはあなた次第ですよ」
克典は、目を閉じて何かを決意したようにゆっくりと二回うなずいた。その横顔を見て恭子は静かに笑みを浮かべた。
二十九、
あの日から江上悠太は同じ夢ばかり見るようになった。
冬晴れの中、大雪山系最高峰の旭岳山頂に向かう尾根道に立っていた。そこから南側に目を向けると、真ん中に尖ったトムラウシ山が、その左側には少し低い忠別岳が見える。いずれも真っ白な雪をかぶり、雲海の中に青く霞むように浮かんでいる。
「カムイミンタラ…」
悠太は独り言た。それが大雪の山々の異称であり、アイヌの言葉で「神々の遊ぶ庭」という意味だと教えてくれたのは、傍らに立つ男??父だった。
何度も見ている夢だからこの後起こることもすでに分かっていた。谷底に落とされたのは、尾根道の際に誘い出されたところ不意打ちに背中を押されたからだ。今度はそうはさせまいと悠太は油断なく父の方に顔を向けた。
ところが、強烈な陽射しが目に差し込んで父の顔は見えない。光に目がくらんで平衡感覚が怪しくなった。
そこへ光の中にいる男が悠太の胸に向かって強烈な突き出しを食らわしてきた。体が後ろ向きに尾根道から飛び出し、悠太は頭の上から斜面を滑り落ち始めた。
「お父さん!!」
悲鳴を上げた悠太が視線の先に見たものは父ではなく、笑みを浮かべた原田徹の顔だった。
悠太の夢はいつもその場面で終っていた。
そして毎朝、寝汗をかいた不快感と悔しさ、怒りの感情がまとわりついた最悪の気分で目が覚めた。
母の慶子が引き上げた頃合いを見計って原田家を訪ね、徹に遺産相続の取り分を増やす遺言書を書くよう求めた日から同じことが続いている。結果として相続についての要求は拒否されたが、年内で今の妻とは離婚するという言質はとった。
ところがその後、徹は慶子に、悠太が訪ねてきたことや離婚の時期について話したことを何も告げなかったようだ。慶子が何事もなく淡々と原田家に通い、家政婦業を続けていることがその証だった。体よくあしらわれたと分かってきてから夢の中で、谷底に落ちる悠太を見つめる徹の顔には狡猾そうな笑みが浮かぶようになった。
「騙された。あいつ本当にずるい奴だ…」
ベッドから半身を起こしながら悠太は悔しさの滲む口調で呟いた。と同時にこの朝は、やるせない悲しさが胸中にあった。
(あんな不実な男をなぜ母さんは愛してしまったのだろうか? 僕がこんなに悔しい思いをしているのに…)
この前日、徹の方便にしてやられた悔しさを悠太は慶子に打ち明けていた。それは悠太の思いをよそに、徹の元へ通い続ける慶子へのいら立ちが募っていたからでもあった。
仕事から帰り、鏡台に座って化粧を落としている慶子に悠太は、徹を訪ねた一件を打ち明けた。一瞬、手が止まったが、慶子は黙ったまま化粧を落とし続けた。ヘアクリップを外して結わえた髪を解いたところで大きなため息をついた。
「どうして私とあの人の間に水を差すようなことをするのよ。あの人の気持ちはもう今の奥さんからは離れているの。そっとしておいてあげれば、あの人は頃合いを見てちゃんと離婚の手続きは進めるつもりなのよ。それを、あなたがそんな警戒されるようなことをしたらスムーズに進むのも進まなくなってしまうじゃない」
慶子はとげのある口調で悠太を咎めたてた。鏡に映った慶子の顔には、怒りと困惑がないまぜになった表情が浮かんでいた。。
(お母さんを思ってやったことなのに、なぜ責められなきゃならないんだ…)
理不尽さを感じた悠太は反発した。
「いずれ頃合いを見てって…今の奥さんといつ離婚するかはっきりさせずに、結婚したいなんて言っている男を信用できるの? もし裏切られたら傷つくのは母さんなんだよ。本当に新しい家庭を築くつもりがあるのか、その誠意をちゃんと示してほしいと思ったから僕はあの人と話をしに行ったんだ」
「でも、遺産の相続分を増やしてくれなんて言うことはないでしょう。誰だって財産を狙っているのかと警戒するに、決まっているじゃない」
「鎌をかけてやったんだよ。離婚の時期をはっきり言わせるためにね。だったら渋々ながら年内にはと言ってきた。でもあれから十日もたっているのに毎日顔を合わせているお母さんに何も言わないなんて、やっぱりあの男は信用できないよ! 」
悠太の激しい口調に慶子は押し黙った。煮え切らない態度を取り続ける徹をこのまま信用していいのだろうか??。悠太の言葉は、慶子が抱えた不安を突くものだった。そして、この言葉で、悠太は慶子の心を自分の側に手繰り寄せられたと思った。
悠太は慶子に近づき、その肩に両手を乗せて鏡台に映った慶子に向かって語りかけた。
「お母さんのことを本当に守ってあげられるのは僕だけなんだよ。これまでだってそうだったじゃないか。だからもう他の男には目を向けないで欲しいんだ。僕だけを見ていて欲しいんだ。僕だけを愛していて欲しい…」
悠太は慶子の後ろ髪に顔を近づけ、目を閉じて香りを嗅いだ。気持ちが落ち着いて、どこか欲情を催される香りだ。充足感が広がっていく中で、慶子の両肩に置いた手に震えが伝わってきた。目を開けると恐怖で青ざめた慶子が、鏡の中からこちらを見つめていた。
「ごめんなさい。最近、本当によく似てきたから…あなた、お父さんに。
僕だけを見ていてほしい。愛してほしい。そんな風にあなたに言われるとお父さんのことを思い出しちゃうのよ。だから恐ろしくて…お願い、私から離れてちょうだい。お願い…」
慶子は目を閉じ、震えながら半泣きになって悠太に懇願していた。
(そんな…確かに母さんの心をこちらに手繰り寄せたはずなのに。僕が、父さんに似ている? あの卑劣なDV男に? そんな…こんな形で拒まれてしまうなんて…)
悠太は、よろめきながら鏡台に座る慶子から離れ、廊下に出た。
「ごめんなさい。でも、怖いのよ、あなたが。許してちょうだい。お願い…」
悠太の背中を、すすき泣き交じりの慶子の声が追いかけてきた。
それから一夜が明けた。ベッドから起き上った後、悠太は机の前のデスクトップパソコンに向きあったまま頭を抱えていた。慶子からの強い拒絶。その大本には、次第に父親と似てきた自分への恐怖があるという現実に打ちのめされていた。
(お母さんを他の誰よりも大切に思っているのは僕なんだ。なのに、『お前が怖くて仕方がない』なんて…)
深い絶望感を味わう中で、混乱していた悠太の思考は終着点を見出だそうとしていた。
慶子は、かつて受けたDV被害の加害者である夫の面影を悠太に見ている。その恐怖から逃れるために慶子が採りうる選択肢は二つではないか。
一つは、悠太の手の届かないところへ逃れること。もう一つは、悠太を自らの手で葬り去ること。
(手の届かないところへ逃げてしまわれるよりは、いっそ殺してもらったほうがいいかもな…)
抱え込んでいた頭を上げた悠太の顔には、悟りを得たような微笑みが浮かんでいた。
(だけど、母さんの心があの原田徹に向いていることはやっぱり許せない。あの男の大事なものを奪い取ってやるんだ! 俺の大切なものを奪うことがどれだけ高くつくことなのか、あの男に思い知らせてやる! )
微笑みが消え、凶暴な光を湛えた悠太の視線の先にはデスクトップパソコンの画面があった。そこには、徹の娘・奈々の画像が写っていた。
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