第10話 簒奪者の足音

二十四、

 福岡空港を出た後、福岡都市高速道に乗った日産・セレナは、右手に玄界灘の真っ青な海を臨みながら快調に走り続けていた。

 雲一つない晴天。初夏の強い陽射しがフロントガラスごしに車内に照り付けている。

「さすがに九州の陽射しは、ちがうなぁ。もう真夏みたいだ」

「五月の連休過ぎたら、もう夏みたいなもんよ。私もこっちに嫁いで十五年になるけど、この時期からお肌の手入れがたいへんになるわぁ」

 ハンドルを握る古賀智子こがともこが、一瞬こちらに顔を向けてファンデーションを塗るジェスチャーをして笑ってみせた。

 原田徹にとって智子は「異父妹」になる。その父・隆作からは終生敵意を向けられたが、この妹との関係はずっと良好だった。おかげで、今はいじめ自殺を図った娘・奈々の避難先になってくれている。奈々の身を引き受けてもらってから、半年余りが過ぎた。


 六月初旬のこの日、徹は、午後一時半過ぎ到着の便で福岡空港に降り立った。奈々と対面するのは、彼女が北海道を離れて以来、初めてだった。

 恭子が新型コロナ集団感染の責任を問われて病院を辞めた後、旭川の家を出たこと。今、自分には結婚を考えている相手がいて、いずれ恭子とは離婚するつもりであること。そして、奈々は両親のこの状況をどう考えるのか。今後、どうしていきたいと思うのか。

 この半年余りで多くの問題が原田一家には積み重なっていた。その一つ一つにどのような答えを出していくのか。徹は、奈々と古賀夫婦と直接話し合うため福岡にやって来た。


「そう言えば、車を買い替えたのか? この前はもっと小さい車だった気がしたけど」

「うん、前に乗っていたマーチはもう十年近くたっていたし、せっかく家族が増えから、大型連休前に買い替えることにしたの。おかげでこの連休は、三人で湯布院や黒川温泉あたりを快適に回ることができたわ」

「すまないなぁ。本来なら、俺が女房や娘にサービスしなきゃいけないところを、お前や武志さんにすっかり面倒かけてしまって」

「そんな面倒だなんて。もう奈々ちゃんと私たち夫婦は家族同然だから。心配御無用よ」

 

 徹が、ふと運転席の智子を見ると、これまでの笑みが消えて堅い表情に変わっていた。

(奈々はもう私たちの娘よ。兄さんたちの勝手にはさせないわ)

 引き締まった口元からはそんな決意が伝わってくるようだった。

 子宝に恵まれなかった古賀夫婦にとって、今や奈々は簡単には手放したくない大切な「娘」になっている。できれば、このまま養女にしたいというのが本音だろう。

 それに引き換え、俺と恭子は、奈々を顧みることなく各々が好き勝手なことをしていると見られても仕方がない。

 すべては、奈々に会って直接考えを聞いてからだが、できる限り奈々と古賀夫婦の思いに沿うように振る舞おうと徹は考えていた。


 博多湾沿いに福岡都市高速道を西に走ったセレナは、愛宕インターチェンジを下りて、湾の西側に面した姪浜めいのはま地区に入った。二十年ほど前から大型商業施設の出店が相次ぎ、新たに造成された住宅地の住民が急増している地域だ。古賀夫婦は五年前にここで3LDKのマンションを購入して暮している。

 夫の古賀武志は、徹の三歳年下で福岡のガス会社に勤務している。

福岡市内の進学校から東京の有名私大に進み、東京の女子大に通っていた智子と知り合った。Uターン就職した後、東京で暮らす智子と七年もの遠距離恋愛の末に結婚した。

  

 智子に連れられて高層マンションの中層階の部屋に着くと、夫の武志と部活の朝練を終えて帰宅した奈々が出迎えてくれた。

 夏の大会まで、バスケットボール部は土曜日も午前中は練習があり、奈々は休まずに参加しているという。再びいじめに遭うようなことになっていない何よりの証なので、徹は安心した。

「本当に見違えたよ。北海道にいたころとは大違いだ」

「そう? 私、どんなところが変わった? 」

「運動しているせいかな、筋肉がついて肩幅が広くなったみたいだ。顔の血色もいいし」

「そんな、女の子をつかまえて体がゴツくなったみたいな言い方はないでしょう」

「いやぁ、ごめんごめん。でもほっとしたよ。元気そうで」

 年ごろの娘の機嫌は少々損ねたかもしれないが、今の奈々は、自殺を図る直前に見た生気のない姿とは別人のようだった。

 特に目には力がみなぎっているようだった。何か生きていくうえで大きな目標を見出だしたような輝きが奈々の目に宿ったように徹には感じられた。

 

「武志くん、智子。こんなふうに奈々が元気になったのもきみらのおかげだ。本当にありがとう」

「僕らの方こそ、奈々ちゃんには本当に元気づけられました。子どもが欲しかったんだけど、なかなか授からなかったもんですから。子どものいる家庭ってこんなに楽しいものなんだなぁって奈々ちゃんのおかげで味あわせてもらっています」

 大学の体育会ラグビー部で、フォワードで鳴らしたという古賀武志は、大きな体を折りたたんで恐縮する姿勢を見せた。傍らでは奈々と智子が顔を合わせて笑いあっている。三人の姿は本当の親子のように徹には見えた。


 徹が、北海道土産の「白い恋人」を出して四人でお茶を楽しんだ後、本題についての話し合いが始まった。

 最初に徹が、奈々が北海道の家を出た後の経過を話した。

恭子が家を出たこと。先々離婚を考えていること。徹には今、新しい恋人がいること。

 ある程度察しがついていたのだろう。奈々はあまり表情を変えることなく淡々と話を聞いていた。

 そしてこの先、徹が恭子と離婚して新しい恋人と再婚した時、奈々はどうしたいと思うのか。徹とその新しい家族と暮らすか。恭子の所へ行くか。或いは、このまま古賀夫婦の元で暮らし続けていくか。徹は考えられる選択肢を奈々に示した。


「お父さんは、もうお母さんを愛してはいないの? もう、元の家族に戻ろうとは思わないの? 」

 奈々の問い掛けに、それまで饒舌に話していた徹は沈黙した。

「元の家族に戻る」――何と言うことか。いや、当たり前と言えば当たり前だ。

 奈々は、徹と恭子の子どもとして生まれ育ったのだから、あの三人で暮らすことが本来の家族像のはずだ。それをはなから選択肢に載せないとは??。徹は、元の家族のことなど考えず自らの新しい生活ばかりを考えてきた身勝手さを奈々から指摘されたような気がした。

 

 だが、奈々の口ぶりには徹を咎めだてするような厳しさはなかった。表情には寂しげではあったが、穏やかな笑みが浮かんでいた。

「私、お父さんがお母さんにすごく気を使って我慢してきたことはよく分かっているわ。

お母さんって何かに夢中になると周りが見えなくなる人だから、特に総看護師長になってからはお父さんのことそっちのけだったものね。

 でもね、私が旭川の家を出た後、お母さんからしょっちゅう手紙やメールが来るのよ。

始めの頃は私も、今さら何言ってんのって、放っておいたんだけど。最近目を通してみたら、仕事にのめり込んで私やお父さんのことを二の次にして申し訳なかったって、かなり反省しているようなの。お母さんはまだまだ、お父さんにも未練があって、元の家族に戻りたいみたい。私は、お父さんさえ良ければ、それもありかなと思うようになってきたんだけど…お父さんとしては、もうお母さんとは無理なのかな? 」

 

(距離と時間を置くことで、奈々は恭子を赦す気になったということか…)

 ならば徹は、恭子と奈々を捨てて不倫相手の元へ奔ろうとしている不届きな男でしかなくなる。いや、そもそも、恭子と奈々の仲たがいを口実に、徹は不倫に走ったことを正当化してきたのだ。

 しかも奈々は、徹の身勝手さを承知のうえで、恭子との関係修復が難しいならば、受け入れようともしている。諦めを含んだ穏やかな笑みがその心情を物語っていた。

(何ともはや情けない。娘にそこまで見透かされているなんて…)

 徹は苦り切った顔で押し黙るしかなかった。

 

 助け舟を出すように智子が口を開いた。

「実は、札幌にいる恭子さんから、仕事が落ち着いたら奈々ちゃんを引き取りたいという連絡がきているの。でも、やっと奈々ちゃんも福岡で精神的に落ち着いてきたからすぐというわけにはいかないし、ちゃんと兄さんとこれから家族をどうしていくのかお話してからにしてくださいと断ってきたのよ。で、兄さんは恭子さんとは連絡をとっているの? 」

「いや、こちらからは何も…」

「じゃあ、恭子さんとお話をしてお互いの考えをすり合わせてから出直してもらえないかしら。奈々ちゃんの考えは、今、お伝えしたとおりだから」


 目を固く閉じた徹は暫し沈黙した後、ひとつため息をついた。

「もう恭子とは一緒にやっていけない。もう彼女と一緒に生きていくことに俺は耐えられないんだ」

 徹の告白に、智子と武志夫婦は目を白黒させていたが、奈々は悲し気に憐れむような視線を徹に向けていた。

「俺は、親父が不動産業で名を成したみたいに、何か新しい事業をモノにしたかった。

莫大な負債を残した親父を見返してやりたかったんだ。でも、新しい事業は何も上手くいかなった。それに引き換え、恭子は看護師の仕事で大成功だ。俺に稼ぎが無くなっても家を支えていけると思うようになったんだろう。仕事が忙しくなるにつれて俺に家事を任せるようになった。

 それでも俺は『働く妻に理解のある夫』であろうとした。それが家庭を平穏に保つには必要だと思ったからだ。親父が生きていた頃みたいに、母さんやお前を含めて、みんながいつも親父に気兼ねするような、ギスギスした家庭にはしたくなかったからだ。

 でもやっぱり無理だった。くだらないこだわりと思われるかもしれないが、俺は仕事や稼ぎのことで妻に頭が上がらないことに我慢がならなくなったんだ」

 

 徹の話が亡父・隆作との関係に及んだところで智子も悲し気な表情を浮かべた。

 家庭では傍若無人な振舞いの絶えなかった父と、いつも敵対していた兄。殺伐として穏やかなことのなかった家を嫌って智子は高校を卒業すると東京の女子大に進学した。福岡出身の武志と七年も遠距離恋愛を続けたのは、できる限り北海道と関わらないところへ行きたかったからでもある。

 智子には、自分の家庭をあんな殺伐としたものにしたくなかったという徹の思いが痛いほど分かったのだ。

 武志もまた、仕事へのこだわりについて徹が語るところで大きくうなずいていた。

 

 徹の独白はさらに続いた。

「でもな、妻と娘を捨てて不倫に奔ったとんでもない男だという自覚は俺にもある。

だから俺なりの誠意を二人には示したいと思っているんだ。

 今、親父が残した負債はすべて清算し終わった。むしろ不動産関係の収入があがってきている。それでだ。原田家の財産のうち奈々の相続分については生前贈与しておきたいと思っているんだ」


 そのとき、遠くで雷の鳴る音が部屋の中に響いてきた。唐突な徹の申し出に、慌てて智子が問いかけてきた。

「何だか話が先に行き過ぎているんじゃないの? まだ恭子さんともお話しているわけじゃないでしょう。奈々ちゃんは元の家族に戻りたいと言ってるのに、財産の生前贈与だなんて。兄さんの話には全然ついていけないわ! それよりも目の前にいる娘の気持ちをもう少し考えたらどうなの? 」


 智子の口ぶりには怒気が含まれていた。この半年余りの暮らしで、智子は奈々に対して母親に近い感情を抱くようになっていた。

 それだけに、奈々が元の家族に戻ることを願っているにもかかわらず、その思いを無視して財産相続を進めてしまおうという言いぐさには我慢がならなかった。

 智子の心中を察して、徹も努めて穏やかな口調で話しを続けた。

「すまない。確かに奈々の気持ちを思えば無神経なことを言っているとは分かっている。

でもな、実は最近、相続の話を早く進めておかないとまずいことが起きたんだ」

 徹は、福岡を訪れる一週間前に起きた「事件」について語り始めた。



二十五、

 それは、徹が原田家で慶子と夕食をともにし、慶子が自宅に引き上げた後に起きた。

恭子が家を出た後も、慶子は「通い」を続けていた。徹と恭子の離婚が成立していない中で、なし崩し的に後妻に納まることを慶子は良しとしなかった。

『新しい家庭を築くなら、誰からも後ろ指をさされないものにしたい』

 二度目の結婚を誤りたくないと願う慶子のこだわりだった。


 夜十時近く、一人の男が訪ねてきた。慶子の長男・悠太だった。

慶子を交えた最初の会食では、『父親面をしてもらいたくない』と言って早々に帰っていった。それだけに、向こうから訪ねてくるとは思いもしなかった。


「遅くにすみません。この前は大変失礼なことを申し上げたので直接お詫びさせて頂こうと思いまして」

 悠太の物腰は柔らかく前回のような敵意は微塵も感じられなかった。

(偏執的な「父性」への反発者というわけでもないということか…)

 徹もウィスキーとおつまみを用意して、悠太の緊張をほぐそうとした。

「きみから訪ねてきてくれるとは思わなかったよ。私こそ父親面したものの言い方をして無神経だったと反省していたところだったんだ」

「こちらこそ、おとな気ない態度をとって申し訳ありませんでした。母からも原田さんは、いい方だとうかがっていましたし、原田さんとお付き合いしてから母は大変明るくなりました。母の幸せを考えるなら、やっぱり親しくさせて頂いた方がいいと思いまして」

「私の方こそ、きみから打ち解けてもらえてこんな嬉しいことはない。少しはいける口かい? じゃあ、男同士じっくり飲もうじゃないか」

 すっかり上機嫌になった徹は、悠太を相手に心地よく酒杯を重ねていった。


 時がたつにつれて、悠太は苦しい経済事情の中でも、母の慶子が決して家事を怠らず、身の回りの世話をしてくれたことを話し始めた。

「…シングルマザーの家庭って、育児放棄した母親が起こす事件がよくテレビでも取り上げられるじゃないですか。ろくに食事も与えずに部屋に閉じ込めて子供を死なせたりとか。でも、僕はひもじかったり、着るものもない惨めな思いはせずにすみました。

 母は夜遅くまで働いていたし、学校の参観日に来てもらったこともなくて寂しかったけど、こうして育ててもらったわけだし本当に頑張ってくれてたんだなと思います。これからはなるべく生活に不安がないようにしてあげたいんです。特に経済的な面では」

 

 酔いが回ったからでもあったが、徹は、悠太の言葉を頼もしく受け止めてやらねば、という気分になった。

「もし、このまま新しい家族になってもらえるなら決して慶子さんにも、きみにも苦労はかけないつもりだよ。一時はウチも負債をかなり抱えていたんだが、もうその心配はなくなったんだ。新しく手掛けた商売も少しずつ芽が出そうな感触があるんだよ。これからの暮らしに不安がないようにはするつもりだ」


「これからの暮らしに不安がないようにですか…」

 徹の言葉をとらまえた悠太の目に一転、どう猛な光が宿った。

「それは、お父さん…いや原田さんに、もしものことがあった場合でも、と考えていいんでしょうか? 」

「ハハハハ…、ずいぶん気が早いことを言うじゃないか。そうだな、家族になるってことはそういう責任も伴うということだよな」

 徹は依然としてほろ酔い気分だったが、悠太の表情は『いよいと本題に入った』とでも言うように緊張に満ちていた。


「これからの暮らしへの責任ということで、ぜひ原田さんにお願いしたいことがあるんですが」

「何かね? 」

「この家の財産の相続について、遺言書を書いていただくことはできないでしょうか? 」

「はあ? 」

 徹が慌てて見つめ直すと、悠太は、獲物にねらいを定めた肉食獣のような眼差しを向けていた。


「唐突に何を言いだすのかね、遺言書だなんて…」

「母と私の将来への備えのためです。お願いしたいのは、前妻の子どもには、基本的に遺産を相続させない。たとえ、前妻の子どもから請求があっても『相続遺留分』に限る、という内容の遺言書です」


 離婚、再婚を経た世帯主の遺産相続の割合は通常、後妻が二分の一。残り二分の一を前妻の子と後妻の子の間で分け合う。徹が恭子とこのまま離婚して、慶子と再婚した場合、前妻の子(奈々)と後妻の子(悠太)の間で四分の一ずつを分け合うことになる。

 たとえ遺言書で相続を認められていなくても、前妻の子には、相続を請求できる取り分がある。それが「相続遺留分」なのだが、取り分は全体の八分の一。前妻の子(奈々)の取り分は大きく減ることになる。

 

(離婚も再婚もこれからの話なのに、もう相続の取り分を増やす算段か…)

 こちらの懐に飛び込んできて心を開こうとしているのかと思いきや、財産ねらいの露骨な要求をつきつけてくる。この悠太という慶子の長男、油断のならない男だと気づかされて、徹の酔いは急速に醒めていった。


「私に遺言書を書かせることについては、お母さんとは相談しているのか? 」

「いえ…それについてはまだ」

「じゃあ、お母さんの考えも聞かずに、なぜそんなことを言い出すんだ」

「原田さんの誠意を確かめておきたかったんです」

「誠意だって? 」

「母と結婚して築く新しい家庭をどれくらい大事にしようと考えてくれているのか、その証になるものをいただきたいと思ったんです。誠意を示す確かなもの。それはお金、財産です。意地汚いと思われるかもしれませんが、いつも経済上の不安を抱えてきた私としては、少しでも取り分を多くして頂くことが何よりも安心できることなんです」


 経済的に厳しかった生い立ちについて聞かされたばかりなので、悠太の言い分にもうなずけるところはある。

 だが、悠太の目には闘争心に満ちた光があった。本音が透けて見えるところが若さなのだろう。酔いの醒めた徹の口ぶりは油断のないものになった。

「しかし、まだ私と今の家内との離婚が成立したわけじゃない。当然、慶子さんとも正式に再婚したわけでもない。言っては何だか、きみはまだ赤の他人なんだよ。

 いや、突き放したように聞こえたら申し訳ないが…。 だから、そういう立場のきみが、

この家の遺産相続を口にするのはちょっと筋が違っているんじゃないのか」


 『赤の他人』という言葉が出たとき、悠太の眉が吊り上がった。だが、すぐに言葉は発しない。言いたいことはひと通り聞いてやろうというつもりのようだ。ならばと、徹も言葉を続けた。

「それとお母さん…慶子さんとも話しているが、今後の新しい家庭をどうしていくかは、

私が今の妻と正式に離婚してから考えることにしようと。すべてはそれからだと。

 あと、私としては娘の奈々にも、きみにも平等に接していきたいと思っているんだ。

妻との関係に問題はあっても、私は娘には肉親としての愛情は感じているんだよ。

 だから、きみの求めるような遺言書を書いてもらえるかと問われれば、答えはノーだ。

遺産相続については、法律どおり娘ときみの取り分に差をつけるつもりはない」


 悠太は口元を真一文字に引き結び、目つきは一層険しくなった。

『答えはノーだ』――相談ごとを全面拒否されたのだから怒りを覚えるのも無理はない。

かと言って、相続の取り分を増やせなどという遺言書を唯々諾々と書けるわけがない。

 徹は、氷が解けて薄くなったウイスキーを飲み干しながら険悪な空気をどうすればいいか考える間合いをとった。

(こんなことで険悪になるのは本意じゃない。少し宥めるとするか…)

 飲み干したグラスをテーブルに置いて、徹は再び口を開いた。


「慶子は…いやお母さんは、今度こそ本当に穏やかな家庭を築きたいとしきりに言ってる。私も、お母さんとならできると思っているんだ。

 そこへいきなり遺産相続の話を持ち出したら波乱含みになるのは当然じゃないか。

確かに相続の問題はきちんと方針を決めておいた方が先々もめないために必要かもしれない。だけど、お母さんの気持ちを考えるなら、きみもあまり先走ったことはしない方がいいんじゃないか…」

「うまいですね! お話しの持って行き方が! さも自分が母のことを第一に考えていて、

僕が母を困らせているというようなことを言って! 」

 悠太は徹の言葉をさえぎって怒声を上げ、テーブルに両手をついて立ち上がった。


「じゃあ今の奥さんとは、いつ正式に離婚するおつもりなんですか? 期限も設けないで、ただ待ってくれと母に言い続けるのが誠実な態度と言えるんですか? いつまでに離婚するかははっきりさせてほしいですね! 」

 

 徹の手元のグラスの中で、解けた氷がカラリと鳴って崩れた。

なかなか痛いところを突いてくる。慶子の好意に甘えて、徹が恭子と離婚について話し合うのをためらっていることを、ズバリと指摘された。

 すると一転、今度は悠太が穏やかな口調で徹に語りかけてきた。

「確かにこの家の相続についてモノを言うのは、立場をわきまえないものだったかもしれません。ただ、母がいつになったら再婚できるのか、幸せになれるのか、曖昧なままで置かれているのが僕としてはとてもつらいんです。そこのところ、どうかお察しいただきたいのですが…」


 仮にも『息子』になるかもしれない相手だ。自分の態度が悠太を苦しめ、突飛な行動をとらせているのならば、離婚に向けての話を曖昧なままにしておくわけにはいかないと徹は思った。

 徹は年内には正式に離婚すること。そのための話し合いを妻子と早急に始めること。

まずは来週、福岡に住む娘に会ってこちらの状況を伝えて、気持ちを確かめてくることを約束した。

 また、悠太の見せた動きは、今後も遺産相続をめぐって争いが起きる恐れがあると思わせるものだった。そこで、あらかじめ奈々の取り分を確定して生前贈与しておくことを考えるようになったというのである。

 

 

二十六、

 夕方近く、博多湾の西側、糸島いとしま半島の方角に入道雲が大きく沸き上がった。かすかに雷鳴が聞こえて始めてから三十分余りで、姪浜周辺には激しい雨が降り始めた。時折走る稲光に続いて雷鳴が大きく轟いた。

 空模様に合わせて、徹と智子のやりとりも大荒れになってきた。

 

「その相続の話を始めた息子。バックにはきっと母親がいるに違いないわ。結局、財産ねらいなのよ。そんな女に熱を上げるなんて。兄さんは間違っているわ。やっぱり、恭子さんとやり直すべきよ! あの人、確かに性格はきついけど、とてもしっかりした人よ。奈々ちゃんだってそれを望んでいるんだから」

「それは無理だと言ってるだろう。今さら慶子さんを裏切るようなことはできんよ」

「兄さん、目を覚ましなさい! 義理立てするような相手じゃないわよ! そんな女」

「何も知らないくせに勝手な想像で物を言うなよ! 」


(あらあら、しょうがないわね。二人とも久しぶりの再会なのに…)

 それにしても武志叔父さんに気の毒だとは思わないのだろうか。せっかくの休日、家でのんびり過ごしたいところなのに、目の前で派手な兄妹喧嘩を始められてしまって。

 

 奈々は、どちらかと言えば徹には同情的だった。

奈々から見て、母の恭子は、家事を徹任せにし過ぎていた。そこには、自分が看護師として成果を上げていく一方で、新しい事業がうまくいかない徹への侮りがあったことは言葉の端々から感じられた。

 そんな恭子の振る舞いにも、徹は家庭内の和を大事にしようと懸命に耐えていた。

小学生の時、授業参観に来るのはいつも徹だった。中学に入学してからのお弁当づくりを引き受けたのも徹だ。

 本当は満たされない思いを抱えていたであろうに、決して嫌な顔を見せずに優しくしてくれたことを奈々は深く感謝していた。


 徹が、ようやくプライドを傷つけられることなく穏やかに暮らせるパートナーが見つかったというのなら、それもいいのではないか。

(いい加減、お父さんも好きにさせてあげたらいいんじゃないかな)

 奈々自身もまた、もう徹に頼らなくてはならないほど子供ではないという思いがあった。


 そして何よりも、福岡に来てからの新たな生活、新たな出会いが奈々に生きる力を与えてくれていた。

 まずは、智子と武志の古賀夫婦の存在だ。

ここ数年、恭子が多忙続きだったため、旭川では家族三人がそろって食卓を囲む機会はほとんどなかった。

 一方の古賀夫婦は、夫の武志が平日でもなるべく早く帰宅して、智子とともに三人一緒に夕食をとるようにしてれた。いじめで心に傷を負った奈々の精神状態が気がかりだったからではあるが、古賀夫婦のおかげで奈々は、忘れかけていた家庭のぬくもりを思い出していた。


 徹が奈々の目に『人生の目標を見出したような』光が宿ったかに見えたと言っていたが、確かにそれだけの力を与えてくれた人たちとの出会いがあった。

 奈々は、毎週日曜日にその人たちのもとへ通っている。

(あすは、『あの人たちのところ』へお父さんを連れて行こう。そうすれば安心もしてくれるだろうし…)

 つかみ合いを始めかねないところを、武志に宥められている徹と智子。その姿を見つめながら奈々は考えていた。


 そのころ、激しい雷雨の中、古賀夫婦が暮らすマンションを黒いセダン車の中から見上げている数人の男たちがいた。

「目標は、あの部屋にいる…」

 男たちは静かにささやきあっていた。

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