ヒイラギの生涯
縁代まと
ヒイラギの生涯
街のどこかに『人の人生を本にして売っている本屋』があるという噂を聞いた。
噂話をしていたのは友達でも同じサークルの人間でも講義が被った生徒でもなく、食堂の後ろの席に座った見ず知らずの人間である。
曰く、その本屋がある正確な場所はわからない。
有名人の自伝ばかりが置いてあるのではなく、ごく普通の一般人について詳細に書かれた本が売っているらしい。
私の本もあったりして、と締め括って笑い合う声を聞きながら、冬治は箸を進めていた。
冬治が好んでよく頼んでいたのはラードがたっぷり使われたコロッケ定食。
肉の甘みとラードの甘みとポテトの甘みの調和が取れており美味いのもあるが、幼い頃に母親が作ってくれたコロッケに似ていたから、というのが一番の理由だ。
そして冬治が覚えている唯一の母の味でもあった。
(……母さんの本もあったりするのか?)
眉唾ものどころではない都市伝説じみた噂話である。信じるのも恥ずかしい年齢だった。
しかし心惹かれてしまうのは人生を本という形で読めるからだろうか。
冬治の母親は六歳の頃に息子を置いて出ていった。その後正式に離婚が成立し、父親が冬治を育てていたが、その父親は昨年病気で亡くなっている。
その半年後のことだった。
出ていったっきり消息のわからなかった母親が、遠く離れた土地で孤独死していたと聞いたのは。
すでに他人ではあったが父母の共通の友人がそれを知り「お節介でごめんね、冬治くんは知っておくべきだと思ったから」と伝えてくれたのだ。母親は他に身寄りもなく、結局骨壺は冬治の手元にやってきた。
骨壺は何も語らない。
なぜ冬治を置いて出ていったのか、その時何を思っていたのか、何一つとして語らない。
――噂の本屋の本なら、それがわかるのかもしれなかった。
「……いやぁ、アホらし」
そんな都市伝説に無意識ながら縋ってしまう自分を鼻で笑い、冬治はコロッケの最後の一欠片を口に放り込んだ。
***
三日という時間は短いようで長い。
父の遺した金銭で入れた大学だ、無駄には出来ないとあちこちの講義を取っていた冬治の頭からはいつしか本屋の記憶が隅に押しやられ薄らいでいた。
そんな時である。普段通らない道の奥から匂いがした。
コロッケの匂いだ。
(こんな場所に肉屋なんてあったっけ?)
しかし大学に入る前は足を向けさえしなかった地域である。知らない場所も未だに多い。
ちょっとした冒険心と好奇心から冬治は薄暗い路地を進んでいった。――やはり食材を扱う店があるような場所には思えない。
それどころか途中から匂いが消えてしまい、冬治は困った顔で周囲を見回した。
裏路地といった様子の細い道で、左右のビルが日の光を遮るのか湿度が高く感じられる。
きっと裏口から人が出てきたら冬治と間近で目が合うことになるだろう。それはちょっと気まずいな、と感じた冬治は道を引き返そうとし――路地の先に古めかしい本屋を見つけて足を止めた。
古民家かと思ってしまいそうな外観をしているが『本』と書かれた鉄製の看板が出入口の脇にぶら下がっている。
薄汚れた引き戸は開かれており、その隣に立て掛けられた木の板には手書きで『いらっしゃいませ。いつでもお気軽にお立ち寄りください』とあった。とても達筆だ。
だというのにそばに貼られた営業時間の張り紙は随分と汚い字である。
「本屋……」
噂話を思い出すことを促されているかのようだった。
冬治は時計を確認する。この後特に予定もなく、あとは帰るだけだ。しばらく悩んだ後、電車移動中に読める本でも探してみよう、と自分に口実を作って本屋へと足を向けた。
「すみません、お邪魔します」
いつの間にか客が居たら驚くかも。
そう心配してしまうほど寂れていたため、冬治は念のためにそう一声かけてから中へと入った。古い紙とインクの匂いに混じって木の匂いがする。
床はコンクリートそのままで、経年劣化しヒビ割れていた。
雨の日に滑りそうだなと冬治は思ったが、奥へ向かうにつれそれ以上の問題が浮上する。
床にまで所狭しと本が積まれていたのである。
(ほ、本屋ってもっと本を大事にするものなんじゃないのか?)
古い本屋はこんなものなのだろうか。そう疑問を抱きながら進んでいると木製のカウンターが見えてきた。カウンターは通路に対して横向きで、その向こうにも道は続いているようだ。店の正面の印象より奥行きがある。
そんな感想を抱きながらカウンターを見た冬治はぎょっとした。
癖の付いた黒く長い髪の人間がカウンターに突っ伏していたのである。
ぴくりともしないその様子に死体の第一発見者になったような衝撃を受けた冬治はフリーズしたが、心の中で理性と常識を総動員させ口を開いた。
「だっ……大丈夫ですか?」
声がひっくり返った。
しかし恥ずかしいと思うよりも先に黒髪の人間が恐ろしい早さで顔を上げ、冬治は危うく絶叫しかける。それを思い止まれたのは相手が笑みを浮かべていたからだ。
「あぁ、失礼しました! 居眠りしてたみたいです、なんか声が聞こえる気がするなと思ったんですよね」
お客さんでしたか、とにこにこしながら黒髪の人間――八重歯の目立つ和装の男性は冬治を見た。
驚きはしたが会話の出来る人間だ。安堵した冬治は「起こしてすみません」と謝りつつ、しかしこの人との間に沈黙が流れるのは嫌だと感じ、すぐに質問という形で話を続けた。
「その、電車で読むのに向いた本を探してて。何かオススメとかないですかね」
「なるほど、しかしそんなさっくりと読むのに向いた本はここには無いですね。……いや、エンタメとして消費できるタイプなら子供の本とか向いてるでしょうか……」
「あ、いや、子供向けはちょっと」
「子供向けじゃないですよ、子供の本です。大体短いですから……おや?」
男は目を瞬かせて冬治を見ると「ご存知でない?」と首を傾げる。
その質問に対する返事は怪訝な表情だけでよかったらしい。
男はけらけら笑うと立ち上がって手の平を本棚に向けた。
「ここは人間の人生を記した本しか売ってません」
「人生、を……」
「そう。著名人の自伝やエッセイじゃありませんよ。ほら」
男は一冊の本を手に取ると表紙を見せる。
そこには誰かもわからない日本人の名前が記されていた。フォントや装飾が凝っており一目では気づかなかったが、よく見れば四方に溢れている背表紙にあるのはすべて名前だ。
表紙や背表紙に絵や写真が入っているものもあれば無地のものもある。
多種多様ながら人名タイトルで統一された異様な様子に冬治は総毛立ったが――すぐに走って逃げなかったのは、ここが噂の本屋なら母親の本があるかもしれない、と思ったからだ。
そんな思考は馬鹿らしい。
しかし目の前に広がる光景が、その思考を受け入れてくれる。
冬治が静止していると男はまだ信じていないと思ったのか、カウンターの小さな引き出しから何かを取り出した。
「名前も知らない奴にこんな話されても信じられませんよね。ボロだけど名刺いります?」
日に焼けた紙に手書きの文字が連なっている。その筆跡は看板のものにそっくりだった。
店名や電話番号などは見当たらない。
ただ名前だけが書かれた名刺。
名刺を渡してきた『
***
本屋にある本は本当に一般人のものが大半なようで、もし有名人が居てもそれは大勢の中にたまたま含まれていただけでしょうね、と柊哉は言った。
ただ人名タイトルの本を集めただけじゃないのか。
そう冬治は疑ったが、一体それに何の意味があるのだろう。
(それにこんなに人名タイトルの本が出てるとは思えない。だから……)
だから母の本を探そうと思ったのだ。
初めは本当の目的を伏せていた冬治だったが、ものの十五分ほどで音を上げることになった。とにかく並べ方も積み方も乱雑なのだ。普通の本であったとしても探り当てるのに時間を要しただろう。
「えーっと、ここってイニシャル順に並べたりとかは……」
「してませんね」
「作品リストとかは……」
「ありませんね」
どうやって管理してるんですか、と冬治はうんざりした顔をする。
そこで柊哉は「お客様なんですから敬語じゃなくってもいいですよ」と笑いながらカウンター越しに冬治を見た。
「本当は何をお探しなんです?」
「……最初に言ったのが嘘ってわかってたのか」
「や、だって説明した後も探し回ってましたからね。子供の本の反応でそういう目的じゃないってことはわかりました、けど帰らないなら何かお探しなのだろうな、と」
冬治は頬を掻くと観念して素直に話す。
「探してるのは僕の母親の本なんだ」
「ほう」
「離婚したから探すなら旧姓かな。
そういうサービスはしてないんですよね、と柊哉はにべもなく断った。
「そう言わずにさ、名前を見かけた覚えとか……」
「ないです。覚えてもきりがないですから」
本当に店主なのかと冬治は口角を思い切り下げる。その顔が面白かったのか柊哉は「頑張って一冊一冊チェックしてください」と手を振る。完全に他人事だった。
本は『人の人生を書いている』という点は共通していたが、サイズやページ数がバラバラだ。しかも辞書、文庫本、漫画、絵本、雑誌と様々な形態をしている。この中から探すのは骨が折れそうだと面倒な気持ちになった。
「せめてサイズ別に整理すればいいのに……」
「だって意味ないんですもん」
どういう意味だろう、と冬治は目線をたが、柊哉は答えるつもりはない様子だった。
***
結局その日は見つけることが叶わず、冬治は毎日大学の帰りに足を運ぶようになっていた。
初めはもしかしたら二度と辿り着けないかも、と不安になったが何度足を運んでも本屋はそこにあり、しかし不思議なことに同行者がいると何故か辿り着けなかった。
怪しいが、だからこそ信憑性が増して冬治は通い続けたのかもしれない。
半月ほど経つ頃には店長と客というよりも友人同士のような関係になっていた。
「……なあ、この辺に肉屋とかお惣菜屋さんとかあったりする?」
「はい?」
見終えた棚から次の棚へ移りながら冬治がそう問うと、カウンターで頬杖をついていた柊哉は不思議そうな顔をした。ややあって「聞いた覚えないですね」と返す。
「だよな、ちょっと周囲を探してみたけど見当たらなかったし」
「お腹空いてるんですか」
「そういうんじゃないけど……」
甘納豆ならありますよと言う柊哉の誘いを断り、冬治は初めてこの本屋を見つけた時のことを思い返す。あれ以来コロッケの香りはしない。
民家の食事の匂いが漂ってきただけだろう。
そう結論付け、冬治は母の本を探し続けたが、この日も見つかることはなかった。
二週間後。
雨の日でもやっているのかと傘をさしてなんとか狭い路地を抜けると、本屋はしっかりと開いていた。本が湿気るぞと思いながら冬治は傘を出入り口前に立て掛けて中へと入る。
「おや、降ってましたか」
「天気予報でも雨って言ってたろ」
傘をさしていても濡れてしまった肩をハンカチで拭いていると、珍しく柊哉が立ち上がって湯飲みにお茶を用意し始めた。
それを黙って見守っていた冬治に「はいどうぞ」と差し出す。
「……残念俺のでした~、ってオチかと身構えてたんだけど、僕の?」
「やですねぇ、そこまでサディストじゃありませんよ。寒そうですしそれ飲んで暖まってから探しちゃどうです」
「そうする。イスもらっていい?」
存外面の皮が厚い、と笑いながら柊哉は丸椅子を用意した。
カウンターを挟んで向かい合う形で冬治は茶を啜る。温かいが安心感がないのはびっくりするほど店内が静かだからだろう。外はまだ雨が降っているが、古い日本家屋はこんなものなのだろうか。
そう考えつつも落ち着かず、冬治は「そういえば」と無理やり話題を捻り出した。
「僕と柊哉さんの名前、結構似てるよな」
「そうです?」
「ほら」
冬治はバックパックから取り出したスマホに自分と柊哉の名前を打ってみせた。本屋に居るとなぜか圏外になってしまうが、オフラインの機能くらいは使える。
松木冬治。
三堂柊哉。
ああ、と柊哉は頷いた。
「柊の字ですか。似た者同士なんですかね」
「それはない気が……あ。それ。その絵もヒイラギなんじゃ?」
カウンターの向こう側、木目の目立つ壁に色紙サイズの絵が飾ってあった。そこに描かれているのはヒイラギの葉と花だ。写実的で綺麗な絵だった。
柊哉は目を細めて笑う。
「むかーしね、願掛けの意味を込めて描いたんですよ」
「えっ、柊哉さん絵描きだったのか?」
「画家志望でした。まぁ今じゃ諦めて本屋の店主ですけども」
もったいないなぁと言う冬治を柊哉は無邪気な子供を見るような目で眺め、急須を摘まみ上げる。
「そんなことよりおかわり、いります?」
湯呑の中は空っぽになり、手の平に感じる温かさがじんわりと消えていくところだった。
***
翌日には雨も上がり、前日の天気が嘘のように晴れ渡っていた。
ベランダに傘を干そうとした冬治はぴたりと足を止める。天気予報曰く、今日も午後から雨が降るらしい。
「げっ、洗濯物も部屋干しか……」
時間帯的に降る直前まで干しておくという芸当は難しそうだ。
仕方ないと腹を括り、冬治は大学へ向かう準備をする前に部屋の中に洗濯物を吊り始める。
天気予報は終わり、次のニュース番組が始まった。
水族館のエイが子供を生んだ話、ご当地ゆるキャラが寒中水泳をした話、強盗殺人などの物騒な事件の話、タクシー死亡事故の話、コンビニの中華フェアの話。
それらを聞き流しながら作業を終えた冬治はテレビを消す。
(そういやアイツの店ってテレビどころかラジオすら無いな……)
ふと柊哉の本屋の様子を思い出した冬治はそんなことを考える。
(本に囲まれてるから退屈しないとか?)
本ジャンキーを拗らせてあんな本屋の店主をしているのかもしれない。そう笑いかけて冬治は口を引き結ぶ。
あそこが普通の本屋などとは思ったことはないが、通い詰めるうちに冬治はどこか非日常を日常のように受け入れていた。柊哉が店主をしているのも真っ当な理由ではない可能性がある。
あまり深入りしない方がいい。
そうわかってはいたが、家を出て鍵を閉めても冬治は同じことをぐるぐると考えていた。
午後になり、予報の通り雨が降り始める。
しかも前日よりも雨粒が大きく激しい。傘をさしていても足元がずぶ濡れになり、歩くたび跳ね返った雨水でズボンが太腿まで濡れるほどだ。
今日はやめておくか?
そう思ったが今朝考えていたことが引っかかり、冬治は本屋へ向かうことにした。
だがもし引っかかりを覚えなくても足はそちらを向いていただろう。あそこで母の本を探すことと柊哉と話すことが習慣化しているのだから。
びしょ濡れになって本屋に辿り着くと、いつものようにカウンターに座っていた柊哉が「熱心ですね~」とのんきな声を出した。そのまま姿が見えないと思ったところでバスタオルを持って現れる。
「あ、ごめん、本が濡れ……」
「それより風邪引いたらマズいでしょう、しばらく探しに来れなくなりますよ」
僕の心配をしてくれるのか、と少し心温まったところで冬治は眉根を寄せた。
「……このバスタオル、すっげぇ埃くさいんだけど」
「長いことしまってありましたからね」
「なんか全身痒くなりそう」
ひとまず頭は手元のハンカチで拭い、服やズボンをバスタオルで拭いていく。
そうしているうちに自然と昨日のように向かい合ってお茶を飲んでいた。
冬治はなんとなく壁に掛かった絵に目をやる。昨日と同じ絵がそこにはあった。
「――柊哉さんって画家志望だったって言ってたけど、なんで諦めちゃったんだ? あ、その、話したくなければ無理に答えなくてもいいんだけど」
「なんで夢を諦めたか、ですか。そりゃある日気づいちゃったんですよ」
「何に?」
「俺は画集を出すのが夢でした。ただね、それに付随するもう一つの夢もあった」
柊哉は頬杖をつく。
黒い前髪の向こうにある目も髪のように真っ黒で、初めて来た日なら何を考えているかわからず恐ろしかっただろう。しかしある程度付き合いのある今ならわかる。
柊哉はきっと、聞いてほしがっている。
確信めいたものを感じながら冬治は耳を傾けた。
「画集を大切にしてほしかったんです。時々手に取って、愛でてほしかった。そんな画集は俺の分身で、俺は――画集を依り代に、誰かに大切にしてほしかった」
それに気づいちゃったんですよと柊哉は言う。
気づいてしまったら描けなくなった。そんな想いを塗り込めていたのかと、今まで積み重ねてきた一塗り一塗りが恥ずかしく、羞恥心で筆も握れなくなった。
そう彼は仄赤い顔をして続ける。
未だに恥ずかしいのだと言いながら。
なんとなくその場に居づらくなった冬治はすっくと立ち上がると本棚に目をやった。
しかし訊いておいて無視をするのは頂けない。何歩か進んで目線を合わせないようにつつも冬治は言う。
「どんな気持ちで描いててもいいんじゃないかな」
「……」
「絵に気持ちを籠めるのって絵描きの特権だろ」
「冬治さん――そこ、滑りますよ」
へ? と言うなり冬治はずるっと滑って通路にひっくり返った。
初めて見た時も滑りやすそうな床だと思ったではないか。
しかも雨に濡れた靴裏はそのままだった。予想できたはずなのに、と羞恥心と痛みに襲われながら「イテテ」と床に手をつく。
「……え?」
手の平に鼓動を感じた。
目を瞬かせた冬治は手の平を見る。しばらくしてもう一度床に触れてみたが、もう何も感じられなかった。自分の鼓動を錯覚したならここで感じられないのはおかしい。
そこで傍らまで来た柊哉が訊ねる。
「血でも出ました?」
「……いや……」
冬治は「大丈夫」と返すのがやっとだった。
***
本屋に通い始めて二ヶ月になる。
大学内で本屋の噂を聞くこともなくなった。
今では都内に現れた令和の人面犬の噂が蔓延っている。なんでもボルゾイの人面犬らしい。アホらし、と冬治は呟いたが令和の人面犬に遭遇することはなかった。
――本屋の中で鼓動を感じたあの日以来、冬治は店内を注意深く観察した。
本を探すことに注がれていた視線を半分をそちらに割いていたように思う。
そうしている間に鼓動は本棚であったり、柱であったり、壁であったりと様々な場所で感じるようになっていた。しかし再確認してもすぐに消えてしまうのだ。
ただ、なんとなく恐ろしく感じていることがある。
(……あの鼓動、俺の心臓の鼓動と同じじゃね?)
最初に錯覚だと思ったのもそれが原因なのかもしれない。ただ自分自身のものというより、鼓動をぴったり合わせてくる第三者のような薄気味悪さがあった。
それに気づいた日は電気をつけたまま眠ったが、部屋まで何かが訪れるということはなく、電気代がもったいないという気持ちが勝って今までのように暗い部屋で寝ている。
ただ、この日は電気をつけておいた方が良いと後から後悔した。
夢の中に柊哉と本屋が現れ、出入口の向こうから冬治を見ていたのだ。
柊哉は出入口を塞ぐようにイスに座っていた。あの日冬治に貸し、今や指定席になっている丸椅子である。
柊哉は腰掛けた椅子と同化しており、肉色の管で床や壁と繋がれていた。だというのに何ともないという顔で言うのだ。
「冬治さん、いらっしゃい」
「なんでそんなことになってるんだよ」
「本屋ですから」
なるほど、となぜか納得してしまった。
肉色の管には血管が通っている。透けて見えるそれは色の差で動脈と静脈に分かれていることがわかった。
生きているんだなぁ、と冬治はそれを眺める。
「僕と柊哉さんって似た者同士なのかな」
「おや、前は否定したのに何故そんなことを?」
「なんとなく」
「なるほど」
柊哉は先ほどの冬治のようにするりと納得すると、いつも通り頬杖をついた。その肘も腕もカウンターと同化していく。
「似ているなら、君も本屋になれるかもしれませんね」
「それ本心? 柊哉さんが本屋をしてるのも望んでのことなのか?」
「さぁどうでしょう」
はぐらかされた。
そう感じた冬治は柊哉の真ん前まで進んでいく。
すでにこの周辺の床も柔らかく歩きにくい。それでも足を進めた冬治は思ったままの言葉を口にした。
「望んでのことじゃないなら辞めてもいいんだよ」
「……俺にそんなこと言ってくれたのは君が初めてだ」
柊哉は嬉しそうに笑って、そして何かを言った。
口の動きは見えたが聞き取れない。
そうしている間に視界が真っ暗になり、目を開けると見慣れた暗い天井が見えた。
時計を確認すると深夜の二時半。悪夢と呼ぶべきか迷う夢だったが、夢の中ではするすると受け入れていた事柄すべてに拒絶反応が唐突に湧き、どっと冷や汗をかいた冬治は震えながら布団の中で丸まる。
ただ、最後に言った言葉だけは今でも口にできる本心だった。
***
今日も本屋に向かう。
恐ろしく感じることは数多くあったが、母の本をまだ見つけていない。
ここで諦めてしまえばその瞬間からあの本屋には行けなくなる予感が冬治にはあった。
柊哉はいつも通りだ。まさか「僕の夢に出てきた?」などと聞くわけにはいかないため、冬治はあの日の夢のことを意識的に忘れようと努力している。だがそういった努力は実らないものだ。
「なんか寝不足みたいですね?」
柊哉からそう訊ねられる。
そんなに顔に出ていたかと頬に触れながら冬治は苦笑いした。
「夢見が悪くてさ」
「なかなか本が見つからなくてストレスでも溜まってるんでしょうかね」
「かもな」
短くそう返しながら冬治は本棚の裏へ回る。なんとなく顔を見ながら話したくなかった。
「白いポピーの花言葉は『眠り』だそうですよ。ポピーの描かれた古い栞があるんであげましょうか?」
「花言葉? 柊哉さん花言葉とか好きなタイプなのか」
「あはは、人は見かけによらないってやつです」
柊哉の笑い声が本棚の向こうから聞こえる。
見えないその姿が夢の中で見たようなものに変じていそうで、頭を振った冬治は慌てて背表紙の文字を追う。その無言の間に柊哉が口を開いた。
「――悩み事があるなら聞いてあげてもいいですよ」
「うわ、突然優しい」
「数少ない常連さんですから」
悩み事など山ほどある。
母親のこと、学業のこと、生活資金のこと、これからのこと、夢のこと。
その中でも真っ先に浮かんできたのは――この本屋が、じつは生きているんじゃないかという疑問に関わる悩みだった。
都市伝説のように扱われていた場所だ。どれだけ馴染みの場所になろうとも、日常とかけ離れたおかしなことが起こってもおかしくはない。なにせ一般人の人生が綴られた本が酷く沢山集まっている本屋なのだ。
本屋そのものが生きている。
そんなことも本当かもしれない。
(もしそうなら本の噂は疑似餌か? 柊哉さんも?)
しかし二ヶ月経っても食われる気配はなかった。ただただここに居るだけだ。
この本屋が生きていて、何か目的があるのならそんなにも長く放置しているだろうか。それとも。
(何かを待っている?)
ふわりと浮上したその結論が薄ら寒く、冬治は柊哉に相談せず「また今度な」とはぐらかした。最近は冬治の方がはぐらかすことが増えている。
しかし柊哉は気にしていない様子で「そうですか、いつでもどうぞ」と言うと黙った。
静寂が二人の間に割り込み、そのまま周囲に溶け込んでいく。
その静寂の合間に鼓動のひとつでも聞こえてきそうで、冬治は本棚の奥へ奥へと歩く足を早めた。普段は手前から順に一冊ずつ確認していたが、たまには気分転換もいいだろう。
奥はあまり確認していない。
膨大と思しき本の量を把握してしまったら探す意欲が削れてしまいそうで、敢えて目を逸らしていたのだ。しかしそのインパクトが今は気分転換に一役買ってくれる、そんな気がした。
(ああ……初めて知ってる名前を目にしたな。これ死んだ野球選手の名前か。やっぱり探せば有名人も混ざってるんだな)
冬治は一冊のハードカバーの本を手に取る。
同姓同名かとも思ったが、本の記述を見る限り本人のようだ。かなり詳細に書かれており、週刊誌にさえスクープされていない隠し子についても綴られていた。なんだか大変なものを見てしまった気分になった冬治は本を閉じて棚に戻す。
しばらくして再び見知った名前を見つけた。
新書サイズの小説で、背表紙にあったのは中学時代の恩師の名前だった。珍しい苗字なので間違うはずがない。
この恩師は冬治が高校二年生の頃に死んでいる。
「……」
冬治はここで初めて母の名前以外を頭に思い浮かべながら探した。
意識して見れば手前の本棚は古臭い名前が多かったが、奥に行くほど最近の名前に近づいている。いわゆるキラキラネームも散見された。
数百冊の背表紙に目を通したところで小学校の同級生らしき名前を見つけ、冬治は震える手で抜き取る。別のクラスだったため記憶はぼんやりしているが、クラブ活動で何度か一緒になったことがあった。
――そのエピソードが書いてある。
意思に関係なくぞわりと肌が粟立った。
この同級生は自転車事故で死んでいる。ここにあるのは人生が綴られた本ばかり。死人の本ばかりだ。表紙から死臭がしている。いやそんなことはない、と本を棚に押し込むようにして戻したところで、冬治は間近で響いた音に跳び上がった。
床に積まれていた本の上に何かが落ちてきたのだ。それは真新しい本だった。
(棚……はぴったり埋まってる。じゃあ棚の上?)
視線を上げたものの棚の上には何もなかった。代わりに天井から何かがぶら下っている。
それは今まさに産まれ落ちようとしている本だった。
天井が身を震わせ出産しているのだ。
生命が生まれることは喜ばしい。
では本はどうか。死を纏め上げた本はどうなのか。
産声ではなく死臭を放つ本ならばどうなのか。
冬治の中に答えは無く、答えの代わりに嘔吐感がせり上がってくる。
天井は赤い表紙の本を産み落とした。積まれた本の上にばさりと落ち、冬治は思わずタイトルである名前を目で追う。
見覚えがある。
友人ではない。
知人でもない。
自分でもない。
柊哉でもない。
「あ……」
ニュースで流れていたタクシー死亡事故の死亡した運転手だ。
あまりにも凄まじい死に様だったため、あれから何度か話題に上がっていたのだ。
その運転手は事故を起こし、なぜかエアバッグとの間に挟まった植物図鑑が頭蓋骨にめり込んだ状態で死んでいた。
普通なら死因はここまでつまびらかに明かされないだろうが、目撃者が写真をSNSに上げたことで拡散し、今もタクシーの怪死として動画サイトで様々な考察が飛び交っている。
図鑑から運転手の指紋は発見されなかった、直前まで車内にはなかった、ブレーキに漫画が挟まっていたなどの尾ひれが付いていたが、今の冬治はそれを否定する気になれない。
死んだ人間の本しかないのはなぜ?
本にするために殺してるのではないか?
(もしそうなら、僕の母さんは――)
一歩、二歩と後退した冬治は通路を引き返す。目指すのは出入口ではなく、柊哉のいるカウンターだった。
柊哉は姿を消すことなく普段通り座っている。
冬治はカウンターの中へ押し入るとの胸倉を掴んで無理やり立たせた。
「答えろ! この本屋は何なんだ!? なんで死んだ奴の本ばっかりある!?」
「人生を綴った本を扱う本屋ですよ、生きてちゃ最後まで書けないでしょう」
「なあ、なあ柊哉さん、きちんと答えてくれ。頼む」
冬治は問い詰めながら縋りつくような声で問い掛ける。
「ここにあるのは死んだ人間の本だ。でもそれだけじゃない。この本屋が殺した人間の本なんじゃないのか。……母さんを殺したのか?」
「……」
「この本屋は」
言ってはならない。
そんな本能にも似た感覚が喉を縛ったが、しかし冬治はそれを無視して掠れ声で訊ねた。
「生きてるんじゃないのか?」
柊哉が満面の笑みを浮かべる。
今までも何度か笑うことがあったが、ここまで喜色に染まった笑みは初めてだった。
まるで唐突に目の前で別人になってしまったような違和感が走る。しかしこれは柊哉に違いない。決して本屋の疑似餌などではない。
冬治は柊哉の体を揺さぶる。
「柊哉さん! 答えろ!」
「俺からは言えなかったんです。当ててくれてありがとう」
「何――」
「この本屋が何なのか俺にもわかりません。ただ俺はちょっと共感してるんですよ、本屋も誰かの特別になって、大切にされたかったんだろうなって。多分俺なんかよりずっと長く長くそう感じてたんでしょうね」
柊哉は己の胸倉を掴む冬治の手をぽんぽんと叩きながら続けた。
「本屋はね、人間の人生そのものに憧れてる。恋焦がれてる。でも普通は人間に認識されない。ごくたまに冬治さんのような人間が現れるけれど、真に望むことをしてくれる人はなかなかいなかった」
「どういう意味だ……?」
「本屋は人間の人生の一部になりたいんですよ。それが紛い物で、ひとときの慰めであったとしても」
しかし意図的に一部になるのは好まない。
そして組み込まれるなら本当の姿でなくてはならない。
そう言いながら柊哉は微笑んだ。
「この本屋が生きていて、人を殺して人生をコレクションしていること。それを自ら言い当てた人間の人生に組み込まれるのは、本屋の真実の姿でしょう?」
「ぼ……僕も殺すのか」
「いいえ。ただ本屋はしつこいですよ。自分の組み込まれた人生を本にするなんてもったいない、だから延々と生かそうとする」
ここから逃さずに、と柊哉は本屋の中を見回した。
本屋は喋らない。何のアクションもしない。だが人生に組み込まれたいという欲だけはぶつけてくる。
冬治は冷や汗を流し、力の入らなくなった手を離した。
柊哉や本屋の外にいるところを一度も見たことがない。この薄暗い店内にずっといた。移動は精々カウンターの周辺だけだ。
「……柊哉さんも捕らわれていたのか?」
「俺にとっては救いでしたけどね。絵をやめるこの上ない口実ができましたし」
でも、と柊哉は八重歯を覗かせる。
「あんまりにも次の店主が現れないから、ちょっと疲れてました」
「次の店主……」
「君ですよ、冬治さん。そして俺は本になります」
ぎょっとした冬治は一度は離した柊哉に再び手を伸ばした。ただし今度は両肩を握る。
本になる、という言葉が上手く頭の中に入ってこなかった。
延々と生かそうとするんじゃないのか。
そう疑問を口にすると柊哉は肩を竦めてみせる。
「一度に一人が限界みたいですよ。俺の先代もそうでしたから」
「そんな」
「けど自分の組み込まれた人生を持つ人間をそのまま死なせちゃもったいない。だから本にして手元に置いておく、ただそれだけです」
「ふ……ッざけんなよ! 柊哉さんの人生は柊哉さんのものだろ! 僕だってそうだ、こんな得体の知れない奴のコレクションになってたまるかよ!」
冬治は柊哉を出入り口まで引っ張っていった。逃げるなら二人で逃げるべきだ。
長く生きているならもしかすると柊哉は外へ出た瞬間に死ぬかもしれない。
しかしそれは本になり本屋の中で捕らわれ続けるよりは大分良いことのように冬治には感じられた。
自然と流れてくる涙を拭いもせず直進する冬治を見て柊哉は感じ入ったような声を漏らし、そして「出れませんよ」と先に手を伸ばし中と外の境目に触れる。
何もない空間である。
しかしそこに透明な壁があるかのように、ぺたり、と音がした。
「……」
黙りこくっていた冬治も同じ場所に触れる。
やはり壁に触れたような手触りがした。
一分ほどそうしたところで、実感が湧いた冬治はぼろぼろと涙を零して俯く。
「こんなのあんまりだろ……」
「本になることも幸せかもしれませんよ」
「そんなこと」
「ずっと一緒に居られるじゃないですか。それにね、俺は言い当てたのが君で良かったと心から思ってるんです」
ぱたん、ぱたん、と音がした。
俯いていた冬治は怯えながら顔を上げる。
柊哉が末端から折り畳まれていた。血も何も出ない。ただただ本のように折り畳まれている。
それが首元に達する前に、柊哉は笑みを浮かべたまま冬治に言った。
「冬治さん、君なら俺を大切にしてくれそうだ」
ああ、と納得した。
夢の中で笑っていた柊哉の口の動きを思い返す。
――きっと、同じことを言っていたのだろう。
***
柊哉は一冊の画集になった。
説明と言える文字はなかったが、描かれたモデルと絵のタイトルだけでも柊哉の人生を描いていると伝わってくる。これはまさしく柊哉の人生の本だ。
最後にあとがきのページがあり、遺書でもあるのかと冬治は虚ろな目で凝視したが、あったのは『うら』という謎の二文字だけだった。
どれだけそうしていたかはわからないが、冬治は柊哉の本を抱えたままカウンターで何度も寝起きした。
腹は減らないが嗜好品のつもりなのか茶やいくらかの菓子は常備されており、カウンターの奥にはちょっとした仮眠室があった。
しかし本来ならもはや睡眠も不要なのだろう。
何度か泣いては眠り、そうして日付がわからなくなった頃、ようやく立ち上がった冬治はずらりと並ぶ本棚を睨みつけた。
母親の本を探そう。
心ゆくまで暴れ回るのもいいが、本懐を遂げてからでも遅くはない。
そう冬治は考えたが、それが蜘蛛の糸のように細い心の支柱であることも理解していた。
数日かけてじっくりと本棚を確認し、床に積まれた本も見ていく。
その過程で柊哉が「きりがない」「意味がない」と言っていた理由がなんとなくわかった。本が勝手に増えるため片付けたところでいつの間にか積み重なっているのだ。
増えた分奥行きも深まり、本棚も増えるので整理整頓をエンターテインメントにできる人種ならある程度は楽しめるのだろうが、正体や仕組みを知っている冬治には楽しめそうにもなかった。
本棚を一つ見終わる。
次に二つ見終わる。
三つ見終わる。
そして四つ目に取り掛かったところで、気力が尽きた冬治は再びカウンターに座って虚空を見つめた。少し休むだけだ。朝から晩までずっと本を漁っていると狂いそうだった。
だが、既に狂っているのかもしれない。
上手く思考が回らず、やる気と無気力を交互に行き来している気がする。
様々なものを見落としているのに気づいていない――そう思うのは希望を抱きたいからかもしれなかった。
「柊哉さんはこんな場所でどれだけの間、どうやって過ごしてたんだ……?」
問い掛けても画集は答えてくれない。
だが孤独ではあっただろうなと予想はできた。閉じ込められてから一人も客は来ず、本屋に通っていた間も他の客と出くわしたことがなかったのだから。
「……」
意識が朦朧としてきたが眠ることはできなかった。
簡単に時間を飛ばせるため重宝していたのだが、最近は上手く眠れないでいる。目を開けたままぼうっとしていた冬治はいつの間にか壁を見つめていた。
壁には相変わらず柊哉の描いた絵が掛かっていた。
(これを残してたってことは、柊哉さんは絵を描けなくなっても絵自体は好きだったんじゃないのかな……)
恐らく捨てられずに飾っておくくらいには。
そうヒイラギの絵を見つめていた冬治はほんの少し思考が動くようになってきた。柊哉のことを考えていたからだろうか、同時に画集のあとがきにあった謎の言葉も思い出す。
「うら……裏?」
軽い気持ちで色紙に手を伸ばし、くるりと回転させると裏面に鉛筆で描かれた花が出てきた。
画材がこれしかなかったのだろう。
しかし写実的なその絵はたしかに柊哉のものだった。
「……ポピーだ」
眠りの花言葉を持つ花。
ああ、きっとこれは白いのだろう。そして自分のために描かれた絵なのだ。線の一本一本に籠められた想いなどわかりきっている。
そう感じた冬治は鼻を啜ると色紙を壁から取り外し、画集と一緒に抱え込んだ。
そして再び本棚へと向かう。
ここで諦めるのは、少し癪だった。
***
日数は数えていない。
出入り口から太陽の動きは見えるため、それなりの時間が経ったことだけはわかる。
その日は空気が乾燥しており、本屋の中でも目が乾くのが少し早く感じた。
白川加寿実、とタイトルの付いた文庫本を見つけたのはそんな日だ。
「……やっと見つけた」
通路に両膝をつき、本を手に取った冬治は安堵とも恐怖とも諦念とも取れる溜息と共に呟く。
母の本は表紙に赤ん坊が写っていた。
これは自分だと直感した冬治はホッとする。同姓同名の本ではなかったわけだ。
母の本をカウンターへ運んだ冬治は呼吸を整え表紙を捲った。これを読み終われば目標がなくなるかもしれない。
しかし母のことは知りたい。
そんな一心でページを捲っていく。
前半は生まれてから成人するまでのことが書かれており、恋人と何度も別れていることがわかった。どうやら母親は一つのものに異常なほど執着する気質だったらしく、そのせいで人間関係が拗れたようだ。
それも父親と出会って緩和され、そして冬治が生まれた。
(客観的に見てもごく普通の家庭って感じだな……)
しかしここから数年後に母親は冬治を捨てて出て行くのだ。
覚悟を決めてページを読み進めていく。
ある時、母親が冬治の乳歯を飲んでいた。
「……え?」
何度もそのエピソードを読み返す。二度見では足りない。
しばらく目を動かしていた冬治は一度だけ本を閉じたが、このまま放置など出来ないことはよくわかっていた。
震える手で再び本を開く。
母親は幼い冬治の髪の毛を自分の皮膚の下に挿し入れたり、臍の緒を粉末にして口紅に混ぜて塗ったり、怪我をした際の血をレジンに封入してアクセサリーにしたりと冬治に凄まじい執着を見せていた。
それが父親に見つかり、精神科へ連れていかれたが良くならず、それどころか「冬治を私の中に帰す」などと言い始めたため父親から離婚し逃げたのだという。
「母さんが捨てたんじゃなくて、僕らが逃げた……?」
この本に書かれていることが本当なら事実は冬治の認識とは異なっていたのだろう。それは父親の愛だった。
冬治が母親の愛だと思っていたコロッケについても書かれている。
あれは、母親の血が混ざったコロッケだった。
母の本を前に父のことを思い出し、冬治は血が滲むほど唇を噛む。
本は母親が孤独死する記述まで続いていた。
フルタイムの仕事をしていたが行く先々で問題を起こし、地方に追いやられていったらしい。そしてある時――恐らくこの本屋に目をつけられた。
母親もここへ迷い込んだのかはわからない。
本屋は自分の本性を見抜いていない人間の人生に偽りの自分が入り込むのを是としておらず、一切の記述がないのだ。
ただ、本屋が関わったエピソードがばっさりとカットされるため、なんとなく察することはできる。
「……なぁ、本屋」
冬治は幽鬼のように立ち尽くしたまま店の中を見つめ、そして弾かれたように叫ぶと本棚を蹴り倒した。
「人の人生!? こんなものの何が良いんだ! こんなものに魅力なんて何一つないだろ!」
埃が立ち、本が散乱する。
本屋は何も言わない。コレクションがどうかしてしまうより、今この時も冬治の人生に自身が刻まれ続けていることに満足しているのだ。だから咎めもしない。
それが酷く憎かった。
冬治は本棚を倒し続け、カウンターに駆け寄ると丸椅子を片手で掴んで投げ飛ばす。一瞬柊哉との思い出が過ぎったが、迷いはない。柊哉本人は腕の中にいる。
「全部壊してやる! お前の大切なもの全部だ! それを『自分の人生』だって受け入れて大人しくしてろよ!」
母の本を壁に叩きつけ、冬治はまるで癇癪を起こした子供のように手近にあったバックパックのベルトを掴んで振り回した。
無気力になってからその辺に放り出したままだった冬治のバックパックだ。
その中から勢い良く何かが飛び出す。
「っ……まだ、入ってた、のか……」
肩で息をしながら冬治は床を滑ったそれを拾い上げた。安っぽい百均のライターだ。
冬治はタバコを吸わないが、大学へ入った頃にヘビースモーカーを拗らせていた先輩に「良いものプレゼントしてやるよ!」と押し付けられたものである。
先輩は大きなお世話を振り撒き、他にも避妊具やタバコそのものもバックパックに突っ込んでいった。冬治にとっては嵐のようなエピソードだった。
それらはすぐに放り出したが、ライターだけ重さ故に底の方へ入り込んでいたらしい。
「安全装置はあるだろうけど、火事になったらどうするんだ、……」
冬治はライターの中に見える液体を揺らし、しばらくそれを眺めてから荒れ果てた店内に視線をやった。
燃やしてしまおうか。
もしかすると本屋から出られずに自分自身も炎に巻かれて死ぬかもしれないが、もうそれでもいいやという気が冬治はした。
このまま生きていても次の店主を作ることになる。
なにせ本屋は何を考えているかわからないくせに、人間一人の人生に組み込まれたくらいじゃ物足りないと感じる欲深さを持っていることだけは確実だからだ。
看板と営業時間の筆跡の差も店主が複数居たことを示している。
きっと柊哉の言っていた先代以外にも山ほどいるのだろう。
諦めることも、本屋の意のままになっていることも、やはり癪に触る。
「……柊哉さん、どっちに転んでも大事にするから一緒に賭けてみないか」
手元の画集を撫でた冬治はそのままライターの火を灯す。それは問題なく現れた。
本棚を倒し、暴れた後にばら撒かれた本たちはところどころ破損している。綺麗な状態を維持しているわけではないのだ。ならば燃やすことも出来るかもしれない。
冬治はすぐには炎を近づけず、本の山にゆっくりと歩み寄るとぼろぼろになった母の本を拾い上げた。
じっとそれを凝視する。
「……ここへ来た時に、コロッケの匂いがしたんだ。あれがなきゃ僕は本屋を見つけられなかった」
どう見てもただの本だ。
しかし本屋と同じように脈動していても現実として受け入れられるくらいの、人間の気配のようなものがある。
表情もない本から感情を感じ取る器官は冬治にはない。しかし母の本が狂ったように笑っているように感じられたのは、冬治の頭の中の母親が同じ顔をしているからだろうか。
母親との数少ない思い出は、香りと共に上書きされてしまった。
「あれ、母さんだろ」
疑似餌は本でも柊哉でもない。
コロッケの香りだ。
冬治がここで店主になれば、母親はずっと息子と一緒にいられる。ただそのためだけに。
冬治は眉根を寄せると母の本を開き、自分に関する記述に火を押し当てた。火は紙に油でも染み込んでいたのかと思うほど一気に勢いを増し、本は無言のまま燃え上がる。
冬治はそれを床に放り捨てた。
本屋が脈動している。鼓動は早い。
さすがに火は嫌なのだろう。
「やっと感情らしい感情を出したな」
笑った冬治は母の本が燃え尽きるのを見つめる。本屋の感情もいいが今はこちらを見届けたい。
執着されるのは嫌いではないが、度が過ぎたものはおぞましくなるだけだ。その執着の中には息子に向けられた愛ではなく自己愛しか見つけられない。
父親は冬治を大切にしてくれた。学費をこっそりと工面するほど。
おかげで元は学費にと稼いでいたバイト代は生活費に回せている。息子の未来と生活のために手を貸してくれた父親のそれは、愛だ。
そして母のことを黙っていたのも愛だ。
冬治はそれだけを信じることにした。
「だからお前はもういらない。……呼ばなきゃ良い記憶もあったのにな」
台無しにした。
そう言い放つと同時に母の本は燃え尽き、最後に仄かなコロッケの香りを立ち上らせた。
ぎゅっと画集を握り締めた冬治は四方で山になっている本に火を移していく。
燃えた本の火は何もしなくても隣に移り、あっという間に煙を立てて広がった。
普通の本ではなく本屋から生み出されたものだからだろうか、ライターだけでよく燃える。
咳き込んだ冬治はカウンターに突っ伏し、そこから本屋の鼓動が早くなっていることに気がつくと「ざまあみろ」と笑みを浮かべた。
そのまま出入り口へと走る。
やはり透明な壁がそこにはあったが、火の手が壁を焼き天井を炙り始めるとそれが薄らいだ気がした。
冬治は透明な壁すら蹴り壊そうと助走をつけて足を突き出す。
衝撃はあったがまだ壊れない。
下がった際に背中を炙られた。チャンスはもう数えるほどしかないだろう。呼吸も満足に整えられない中、冬治は再び叫び声のような掛け声と共に透明な壁を蹴る。
何か固いものが砕け散った感触が足の裏から伝わってきた。
どれほどの穴が空いたのか。
それを確認するより先に冬治は外へと転がり出る。そう、外だ。外気はひんやりしており頬を冷やしてくれる。
冬治は背後に激しい炎の気配を感じながら無我夢中で走った。
本屋の中で止まっていた時間はどうなるのだろう。柊哉の本はそのままだろうか。そんな不安は走っている間に少しずつ解決していった。
止まっていた時間が一気に流れ出すことはなく、しかし通常通り動きだした気もしない。
画集も色紙もそのままだ。ならすぐに死なないならそれでいいと冬治は思う。
「柊哉さん、あんたを大事にするなら外の世界で一緒がいい。あんな狭い世界なんか御免だ」
冬治は画集を大事に大事に抱き締めて撫でた。
息を切らせて見知った道へと飛び込む。
「一緒に色んな場所を見よう。それを僕らの人生にしよう。きっと楽しいよ」
そういう大事に仕方があってもいいだろ、と。
そう呟いた頃には画集に体温が移り、まるで生きているかのようだった。
***
人が集まる場所は噂話の坩堝だ。
今日もざわめきの溢れる食堂の中、日常に溶け込んだ非日常の話が人から人へと伝わっていく。
席に着く音がした後、口火を切ったのは女の子の声だった。
「知ってる? ウチの大学で半年間行方不明になってた男の子が戻ってきたみたいだよ」
「あー、松木君? 高校一緒だったんだよね」
「マジで?」
「ちっちゃい頃にお母さんに出ていかれて、大学入る前にお父さんも死んじゃったんだって」
声は憐れむような、それでいてエンターテイメントとして消費しているような様子で言った。
「へー。でもその松木君、なんかおかしくなったって先輩が言ってた」
「そうなの?」
なんでも謎の火傷を負った状態で警察におかしな証言をしていたという。人づてに聞いた話のため不明瞭だが、放火の証言もあったため警察も調査したが――彼の言う放火先は結局見つからなかった。
紙の燃え屑ひとつ存在しなかったという。
声はここで怪談話をするようなトーンに変わった。
「それから休学して色んなところに旅行に行ってるんだって。――画集抱っこして」
画集? と相手の聞き返す声がする。
「うん、タイトルはなくって表紙にでかでかと作者の名前だけ書いてあったって」
「何か怖い目に遭って、だから変になっちゃったとか?」
「かもね」
でも、と声は言い重ねる。
「画集と一緒に旅行してる松木君、なんかめちゃくちゃ楽しそうなんだってさ」
「あはは、私らよりエンジョイしてる〜」
「そうだねー、けど」
噂する声は弾み、そしてその噂話を締め括った。本屋の噂話をしたのと同じ口で、同じように。
「――本になりそうなくらい、波瀾万丈の人生だね」
ヒイラギの生涯 縁代まと @enishiromato
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