第3話 神の軛

「――その言葉は語弊がある。最初から愛想なんてものは無い」

「そりゃお気の毒……って、お前、意識はあったのか」

「うっすらとは。発動するとあいつの暑苦しい思念がそのまま流れ込んでくるから、ほとんど無きに等しいが」

「そいつは吐きそうだ……」

 心底厭そうにドレイクは顔をしかめる。

 大刀を鞘に収めたルーシは、呪符の拘束から放り出され、いつも身を沈めている椅子の上で仰向けに倒れかけているドレイクの腕を掴んで立たせた。

 そのまま背後を振り返る。

 立ち尽くすリブの姿があった。

「何をした……その身体は……」

 驚愕に戦慄わななく唇の間から、辛うじてリブは問いを絞り出す。

 ドレイクの全身の上に、金色に輝く神聖文字が浮かび上がっていた。ルーシの大刀が彼の身体に到達するや否や、強烈な光を放って表れたものだ。

 同時に、リブの放った呪符は砕け散った。

 ルーシは静かに口を開く。

「この店を覆うおかしな気配に気付かないのか。ここは護られている。でなければ帝国の目から何百年と逃れて存続できるはずがない」

「……」

「なあ、餌撰りの神官殿。発動後、餌狩りによる成就が為されずに残った呪符がどうなるか知ってるか?」

 ドレイクがルーシの肩越しに、呆然としているリブに向かって問い掛けた。

「知らないだろうな。遂行されるまで何者にも破られまいと自らを守るんだよ。それも年れば経るほど頑強になっていく。決してやってくることはない、成就のときを待ち続けてな。十年、二十年もすれば両翼の神官など歯が立たなくなるが、ここの本に至っては数百年というのがほとんどだ。まあ、対象が朽ちれば共に消滅するが……」

「馬鹿な」

「試したことはないはずだ。発動させながらルーシが遂行せずにいるなんてことは不可能だからな」

 語る間に、ドレイクの身体に浮かんでいた文字が徐々に薄れていく。攻撃を撥ね返すときだけ、その存在を主張するように現れるらしい。

 リブは唇を噛む。

「……きさまに発動中の呪符が貼られているというのか」

「俺だけじゃない。この店の本はすべて――」

 書棚に視線を巡らせながら語るドレイクの言葉に、ルーシはぞっとする。

 この店や禁書からただならぬ奇妙な気配は感じていたものの、それがどのようなものかまでは掴めていなかった。

 彼の説明が本当なら、数えきれない餌狩りの命が失われていることになる。呪符は餌狩りがいなければ発動しない。しかし遂行されない呪符を残すには、発動直後に遂行者である餌狩りそのものの存在を消すしかない――つまり命を絶つ必要があるのだ。

「お前に呪符を貼ったのは?」

 ルーシはリブに構わずドレイクに問う。

「俺自身だ。片翼はその場で叔父――その片翼の父親に殺された」

 それは予想された答ではあった。しかし彼が負っているものの重さにルーシは言葉を失う。

「父もそうで、やはり片翼は殺されたらしい。一族の決まり事だ。神の力を本来とは別の方法で利用するというのは、当たり前だが生半可なことじゃない」

 ルーシは無言で拳を握りしめた。

「義務の放棄だけでも許しがたいというのに、神の力を逆手に取るだと? どこまで冒涜すれば気が済むのだ!」

 リブが厳しい顔つきで糾弾する。

 やるせなさを滲ませるルーシに、ドレイクは優しく笑ってみせた。

「神の中に正義を見出せなかったやつは、大昔にもいたってことだ。ルーシ、お前と同じように」

 ドレイクはルーシの前に出てリブに向き直る。その手にはいつの間にか、ルーシのものと酷似した大刀が握られていた。驚いたルーシは思わず尋ねる。

「それは……」

「ヴィテックスに伝わる餌狩りの大刀だが……むしろこいつは餌狩りの血しか吸っていない」

 こともなげに凄惨な事実を語りながら、ドレイクは柄に手を掛ける。

 正面にリブが両腕を大きく広げて立ちはだかった。彼の全身を燐光が包み、周囲の空間から次々と神聖文字が生まれては、巨大な円形を形作っていく。

 少し前、『餌』を集落まるごと神に捧げる際に使った大呪だとルーシは気付いた。

 ここは山腹の洞を利用して作られている。岩盤を砕けば店ごと崩落に巻き込み、地中に葬り去ることが可能だろう。恐らく禁書やドレイクの呪符は直接攻撃を受けない限り反応しない。

 まだ記憶に新しい、自身の力で砕いた山肌の土砂に埋もれ、地中で息絶えた『餌』たち。その遺骸を掘り起こしては神に捧げるため、大刀を振るわされた悪夢。何よりその間、意識に流し込まれる、自分を支配することへの歪んだ喜悦と神への陶酔に高揚するリブの思念が、ルーシをひたすらにさいなんだ。

 いったい何のために。

 この行為によって神から得られるのは、結局両翼に与えられる力でしかない。それを揮うことで帝国の安寧が保たれるとしても、その恩恵にあずかれるのはごく僅かな一部である支配階級のみ。

 ――それはルーシの中で、リブとの間の決定的な亀裂となった。ルーシの内心になど目を向けないリブは、気付きもしなかったが。

 そんな折、奇妙な気配を発するこの店を見つけた。自分たち神官をも退けられる、まったく別種の力がこの世に存在するのでは? と一縷の望みを抱いてみたものの、実際にはドレイクが語った通り、これもまた同じ神の力でしかなく、それもおびただしい犠牲のうえに成立していたわけである。

 となればもう――覚悟を決めるしかなかった。

(だがどうするか)

 呪力の燐光に守られたリブには物理的な攻撃は届かない。

 編まれる神聖文字とリブを凝視するルーシに、大刀を抜いたドレイクが言った。

「悪いが、お前の片翼を見逃すわけにはいかない。ここは俺が始めた店じゃないが、さりとて守らないわけにもいかない。お前があいつの呪符によって何度斬りつけようが火を点けようが、禁書は無事かもしれん……だがそういう問題でもないんでな」

「無茶だ!」

 ドレイクは確かに、かつてはリブと同じ力を持っていたのだろう。しかし片翼を失えば呪符は使えない。呪力無しに餌狩り自分も揃うこの場のリブに立ち向かうのは、護りの当てがあるとて、無謀に思えた。

「俺をまず斬るべきだ」

「馬鹿言うな、大事なお得意さまを斬る店主がいるか」

「あいつがここに来たのは俺のせいだ。それでもそんなことが言えるのか」

「まだ潰れてないからなぁ……」

 あまりに呑気な口調にルーシは呆れる。ドレイクはあくまで飄然としており、自身が握る大刀と、そこにかかる自らの役目の重さなど微塵も感じさせなかった。

 そんな相手にルーシはひとつため息をつく。

「……ドレイク。俺が失敗したらそのときは任せた」

「ルーシ?」

 ルーシはドレイクの脇に立ち、身を低くして構えた。

 眼前の呪符が組み上がる。リブの周囲の燐光が消え、代わりに呪符の神聖文字が輝き出そうという、その刹那――。

 ルーシの姿がドレイクの隣から消えた。

「……っ!」

 半瞬後、呪符の発動句を唱えようとしていたリブの喉から声なき声が発せられる。

 ドレイクの視界を血潮が彩った。

 ルーシの大刀が、リブの身体に深々と飲み込まれている。

 呪符の完成と発動の狭間はざまの、針の穴のごとく僅かな隙を突いて、ルーシは神速の抜打ちを仕掛けたのだ。

 発動することなく創り手からの力を失った呪符は端から徐々に砕けていき、玻璃のように細い陽光を弾きながら、光の化身と見紛うふたりに降り注ぐ。

 リブの膝が崩れ、ルーシの大刀に彼の身体の重みが掛かった。金の髪が床に届き、血溜りに染まる。

「……餌撰りのオリバナム……」

 ルーシは片翼に囁いた。

 そう呼ばれることは、彼という神官にとって誇りであった。神に対して同じ熱量を持てぬ自身の餌狩りを受容しないあまり、その心が先鋭し、捻れ、いつしか自らの愉悦と混じり変質してしまっていたとしても。

「お前の神の許に逝け。二度と会うことはない」

 見開かれたリブの、自分と同じ色の瞳がこちらを映すことは、最早なかった。



「これも無事だったのか」

 今日買ったばかりの、しかしリブの呪符によって自身が燃やしてしまったとばかり思っていた本を返され、ルーシは目を見開く。

「呪符はすべての本に、と言っただろう?」

「……そうだったな。……だから売り渡したりできるのか」

 普通なら散逸や破壊を恐れて、貴重な本を売る――即ち所有権ごと他者の手に委ねたりはしないだろう。

「本は人手に渡って読まれてこそ意味がある。捧げられた餌狩りの命もそれによって活かされる。ここに奥深く仕舞っていても何かの役には立たん。記された知識も、対価の金も、世の中を巡ってこそ命を得るんだ」

「……そういうものか」

「――もっとも、今や読めるやつがいないという問題はある。お前以外。これまで買っていった客は禁制品を手許に置いて悦に入りたい好事家こうずかばかりだった」

「なぜ売った」

「それでもここで眠り続けるよりは可能性がある」

 ルーシは手にある本に目を落とした。

「……文字なら、教えればいいだろう。神聖文字よりよほど実用的だ」

 ドレイクは気の進まなそうな顔をする。

「お前は特別覚えが良かったからいいが、他のやつには面倒だ。お前がやってくれ」

 ルーシは呆れ顔で、ドレイクを軽くめつけたが、彼はどこ吹く風だった。

「帝国を覆すんだろう? 『餌』に名前を返して。血塗られた道になりそうだな」

「お前も手伝え」

「役に立つ気がしないが……」

 ドレイクは面倒そうに頭を掻く。逃れられないことは分かっているのだが。

「――そういえば見つけたか? あいつらがかつてなんと名乗っていたか」

 問われたルーシは頷く。

「答合わせに訊こうか」

 どこか面白がるような顔つきでドレイクが言い、ルーシは書棚に収まったままの禁書の列を遠い視線で見渡してから、静かに答えた。

「……エルム」



 ――エルムの曙光、ニームのとばりを破りしバルサム。その姿、天上の光をり集め、編み上げられたかの如し。白銀しろがねよりまばゆく、黄金こがねよりさやかに、あまねくエルムの魂は、その最奥に残影を刻まん――

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禁書屋の常連客 Skorca @skorca

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