【KAC20231】鏡の本屋
無雲律人
鏡の本
その本屋は、会社からを少し離れた、狭い路地の奥にあった。
「あぁ……今日も営業成果ナシか。もう社に戻りたくねぇなぁ……」
小さな飲料水メーカーに勤める俺は、新卒で入社したばかりの営業マンだ。毎日弊社自慢の『おいしい』水を売り込みに飛び込み営業をして回っているわけだが、大手メーカーにシェアを奪われるばかりで、どこの飲食店やスーパーマーケットでも契約してもらう事は難しかった。
そんな営業の帰り道、社に帰りたくなかった俺は、前から気になっていた本屋に立ち寄ってみる事にした。
【鏡書店】という名のその書店は、とても狭い間口で、昭和レトロを感じるような古めかしさだった。だが、どこか懐かしい雰囲気と、怪しげな空気感を纏っていた。
木製のドアの
店内に他の客はおらず、奥のレジに店主とみられる白髪の老人が座っていた。
「いらっしゃい。お客さん、今日はどんな本をお探しですかな?」
店主は、目を細めて微笑みながら俺に声を掛けてきた。
「あ、いや……読みたい本は決まってなくて……その、えぇと、少し店内を見させてもらっても良いですか?」
まさか、社に戻りたくなくて暇潰しに寄っただけとは言えず、少しバツが悪い思いがしたが、俺は店内を見て回る事にした。
狭い店内には、地図や一般文芸書、著名な文学人の文庫などが並んでいた。マンガや雑誌みたいな娯楽的なものは扱っていないらしい。
「こんなんで客入るのかよ……」
その粗末な品揃えに、俺は他人事ながら売上に対する不安を感じた。店の奥まで行くと、とても古びた感じのドアを見付けた。
「ドア? この先にも何かあるのかな?」
ドアを気にして困惑していると、急に店主が背後から声を掛けてきた。
「この先も見てみますかな? お客さんにふさわしい鏡の様な本が見つかるかもしれませんぞ?」
鏡の様な本? 俺はさらに困惑した。
「ふぉっふぉっふぉ。戸惑われるのも無理はない。まぁ、実際その目で見てみなされ。あなたの鏡がきっと見つかりますから」
そう、店主は言うと、ドアを引き俺を中に誘導した。
バタンッ。
ドアの中は、ランプで照らされているだけのうす暗く狭い円形の部屋だった。書庫……? 書庫と言うにはおかしい。本が、無い。
いや、ある。目の前に、小さな机に立てて置かれた一冊の本が。
【鏡の本】と、その本には書かれていた。俺は恐る恐るその本を手に取り、ページを
その刹那、俺の目の前にスクリーンが現れたかのように鮮明なビジョンが見えた。
「
「すごーい! 結城君! 新卒なのにもう営業成績トップだって! 素敵~!」
「結城さん、今日の飲み会ぜひ参加して下さい! 私達女子社員のために!」
「結城! じゃなくて結城さんだな! 先輩としてこれほど誇らしい事は無いよ!」
「結城は我が社のエースだな! 俺も部長に進言しておくよ」
俺が欲しくてたまらないものがそこには映っていた。地位、名誉、女、称賛……。
「全部俺、結城護にお任せ下さい!」
ビジョンの中の俺は、誇らしげにそう宣言する。全てが俺の思うままに、俺の望む世界。
「ふぉっふぉっふぉ。お客さん、この世界の中が欲しいですかな?」
ふと、店主が現れて俺にそう問いかける。
「欲しい。欲しいに決まっているじゃないか。これこそ俺の望んでいるものだ。俺は、今みたいなヘタレ営業マンで終わりたくないんだ!」
「ならば、その願い、叶えてあげましょう。ようこそ、鏡の世界へ」
・
・・
・・・
「今日は良い本をありがとう、おやっさん」
え……? あれは俺じゃないか? 清々しい顔をして俺がこの書店から出て行くぞ? おかしいだろう。おれはここに居るっていうのに。
「結城護君! 君が今月も営業成績トップだ!」
「すごーい! 結城君! 新卒なのにもう営業成績トップだって! 素敵~!」
「結城さん、今日の飲み会ぜひ参加して下さい! 私達女子社員のために!」
「結城! じゃなくて結城さんだな! 先輩としてこれほど誇らしい事は無いよ!」
「結城は我が社のエースだな! 俺も部長に進言しておくよ」
何だ? 俺の周りを取り囲んでいるこいつら、さっきのビジョンに現れた社の連中じゃねぇか。ちょっと待ってくれよ。あのビジョンは本が見せてくれた俺の夢のビジョンだろ?
「結城護君! 君が今月も営業成績トップだ!」
「すごーい! 結城君! 新卒なのにもう営業成績トップだって! 素敵~!」
「結城さん、今日の飲み会ぜひ参加して下さい! 私達女子社員のために!」
「結城! じゃなくて結城さんだな! 先輩としてこれほど誇らしい事は無いよ!」
「結城は我が社のエースだな! 俺も部長に進言しておくよ」
待て待て待て! こいつら壊れた人形か何かなのか? っていうか、俺は今どこにいるんだ!?
「ふぉっふぉっふぉ。どうですかな、鏡の世界は」
「おい店主! これはどういう事だ!? 俺をここから出せ!」
俺は、声が枯れるくらい叫ぶ。
「ここはお客さんの望んだ世界。あなたを鏡に映したあなたの反対の世界じゃ。お客さんがここに居る事を望んだのですぞ? どうですかな? 称賛に溢れた世界は」
「違う! 俺が望んだのはこんな繰り返しの世界じゃない! 俺は、もっと……!」
「……もっと上手く生きられたら? ですかな? それはこの本から出て行ったあなたの反対の存在がこれからしてくれるじゃろう。あなたはここで、称賛に溢れた世界で生きるのですぞ」
「嫌だ! 俺が望んだのはこんな結末じゃない! 出せ! 俺をここから出してくれぇぇぇ!!!!!」
パタン。
目の前が真っ暗になった。俺は、意識だけになったようだ。しかし、耳にはあの称賛の声が響いてくる。
「結城護君! 君が今月も営業成績トップだ!」
「すごーい! 結城君! 新卒なのにもう営業成績トップだって! 素敵~!」
「結城さん、今日の飲み会ぜひ参加して下さい! 私達女子社員のために!」
「結城! じゃなくて結城さんだな! 先輩としてこれほど誇らしい事は無いよ!」
「結城は我が社のエースだな! 俺も部長に進言しておくよ」
嫌だ……ここから出してくれ……誰か、助けてくれ……!!!!!
***
ここは【鏡書店】。あなたの反対を映す、鏡の書がある本屋じゃ。
望むならば、あなたを反対の世界に導く事も出来ますぞ。しかし、その時はあなたの反対だった存在がこの世に出て、あなたが反対の居た世界に紛れ込む事になる。
それには多少窮屈さが伴うがの。何せ、これは【本】の話だからじゃ。本は、書いてあるその事しか映し出せないからじゃ。
だからの、同じページにずっと居続ける事になるが、それはそれであなたの欲求が満たされる結果になるじゃろうよ。
その世界から抜け出すにはの、あなたの代わりに出て行った反対の存在が、この本をまた開けに来るしかないんじゃ。
しかしの、来るかのぅ? 狭い世界から大きな世界に抜け出した存在が、この本を必要とするかのう?
まぁ、気長に待ちなされ。本の中ではあなたは永遠に生きているのだから。
────了
【KAC20231】鏡の本屋 無雲律人 @moonlit_fables
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