しかしレイチェル、俺は往く

繕光橋 加(ぜんこうばし くわう)

しかしレイチェル、俺は往く

 くどい残暑が西から差し込み、えんじ色の籠を余計に赤く染めている。行列で待ちくたびれた俺もお前も、今日だけで何べんあくびをしたか分からない。

 正直、見通しが甘かった。大して乗れもせぬアトラクション、時間過密と力不足ゆえこなせもせぬデートプランのために、こんなにも高いペアチケット代を支払ったことを省みると、このデートは誰の目にも成功と映ったはずはなかった。


 だが待ってくれ、みんな見てくれ。俺の隣にいる美しすぎる彼女を。魅力の塊だ。何度見ても目に優しい。たとえデートプランが、薄汚い野良犬の皮下脂肪以下の出来栄えだったとしても、彼女は唯一人で完成されている美しさをその身に湛えているのである。

 レイチェルは日本語が堪能だ。容姿だけでなく、会話も知的で上手かった。正直、訛りが全くないとも言わないが、ただの留学生とは思えないほど、自然に日本語を話す。何年も前から日本に住んでいたくらいの自然さで、言葉が口から流れてくるのだ。マジシャンが連結したスカーフを勢いよく口から出すように。独り占めを誘うような愛らしい唇から、選び出された単語が小気味良く跳ねて踊るものだから、俺や、ゼミのみんなが首ったけになるのは時間の問題だった。

「あーあ、観覧車が最後かよ。なんで織田クンと…」

「ぶつぶつ言うなー。残念かよ。」


 いたずらっぽさを穏やかな微笑みに隠しながら、努めて大人びた小娘は何も答えず、観覧車に乗り込んだ。俺もすぐ後ろに続く。ごとごと、とレザーブーツの靴底は思いのほか大きな音を立てて、観覧車の籠の中に響く。硬い椅子、アクリルの窓が、密閉された部屋にふたりきりでいるこの状況をして、「逃げ場なんかないぞ」と脅してくる。


 …よし、告白しよう。この観覧車が地上に着くまで、俺はレイチェルに「好きだ」の三文字を伝えなければならない。

 勝算なんて度外視だ。観覧車に二人きりなんて状況、今を逃したらないだろう。あらゆる男から言い寄られ、週末は必ず誰かが隣にいるあのレイチェルが、今、俺の目の前で笑っている。黄金とも橙ともとれる髪の毛は、夕陽を受けて風そのもののように煌めいていた。

「人種コンプレックスなんて、不必要な卑小さが姿を伴った妖怪に過ぎない」なんて吹かしていたかつての俺、盲目的に彼女の可憐さに奮える今の俺、反省すべきなのはどちらなのだろうか。いずれにせよ、今の俺を満たしている、彼女に巡り合えた喜びを言葉に出さなければ、俺はもう地上に帰ってはいけない気がしたのだ。

「な、なあレイチェル、」

「ねえ、織田クンさ」

「ひっ、!?」

 バッドタイミング、ここに極まれり。内容が内容だけに緊張しすぎて、声が二百七十度ほど裏返ってしまったが、微笑みだけは顔に張り付いたまま食いとどまり、中途半端な空白が横たわる。恥ずかしいこと請け合いである。

 彼女は怪訝そうにこちらを見ているから、俺はついに耐えきれず、「いや、た、高ぇなと思ってさ」とまごつきながら外へ目を反らした。もうヘタレキャラでいくしかなくなってしまったが、都合良く笑ってくれないかと淡い期待を目で投げた。

「ねえ、織田クン。カン、って不思議だね。」

さっきの話に戻った。これは滑ったんだな?そうなんだな?


「カン、ってなんだ。アルミ缶とかスチールとかのことか?」

「環よ、円環の環。」

 環、か。…平たく言えば“輪っか”の事だな。

 土星や木星のような惑星の環なんてそのままだ。塵や氷が惑星上空を周回して、円盤状の帯を織りなしている。不思議と言えば不思議だが、レイチェルが言うからには物としての環ではない。

「言葉としての環、が不思議なんだな。」

「そ、そ。」

「どう不思議だと思ったの?」

「だってサ、環、とはまた別に、還、ってあるじゃない。」

「しんにょう の?」

 コクリ、と彼女は可愛らしい頭を縦に振る。かわいい。

 環と還、似ているな。どっちがどっちだか分からなくなりそうだし、おそらく小学校の頃、国語で間違えもしたんだろう。そういえばどういう違いがあるんだっけ?

「円環も循環も、王って書く環じゃない。巡り巡って元に戻る、環。でも、しんにょうの還にも帰るとか、一巡して元に戻る…返還や帰還なんて意味じゃない。どうしてそれぞれ分かれてるの?それが不思議。」

 鋭いな、さすがレイチェル。

 専攻とはまた別に、日本語を勉強するために海を越えてやってきたのだから、必然的に日本語に向き合い続けている。

 考えてみればその通りで、自然環境なんて文字通りぐるりと周りを囲んでいるものだし、還暦だって文字通り一周した暦がめでたい訳で、例えている様子は周回している暦だ。どちらも始まりと終わりが繋がっているし、その様子は大きく異なるようには思えなかった。

「正直、俺には分かんないよ。でも、すごくいい着眼点だと思う。次のレポートでそれを取り上げてもいいかもね。」

 そんなこと考えても分からない。調べれば分かるんだろうけど、観覧車に乗りながら調べるなんてナンセンス、この俺が許さない。そんなことより話を元に戻せ。好きだと言おう。言ってしまおう。よっぽどシンプルなのだから。

「流石だよ、レイチェル。天才だよ。いっつもその着眼点とか、勉強へのひたむきさとかさ。俺は本当に尊敬してるんだよね!この後の学業生活もずっと才能を研いで研いで研ぎ澄ませるんだろ?素敵だなあ、俺、お前の事好」



「私ね、もうすぐxxxxxxxxに戻るんだ。」

 透き通った声で、レイチェルは言った。それも、ずっとずっと、ずっと遠くを見るように。


「…えっ、」

 馬鹿な。

 なんて言ったかなんて聞こえていた。

 何を言っているのか分からなかった。


「故郷に残してきたボーイフレンドがさ、戻ってきて一緒に住もうって。」

「……。」

「だから、この大学も頃合いを見て辞めるつもり。それぐらい、彼の提案って私にとって魅力なの。…みんなと勉強したいって気持ちも、もちろんあるけどね。」

 …俺は言葉が出なかった。膝の上で握っている拳は金縛りにあったように動かない。さっきまで何の疑問も持たず垂れ流しになっていた手汗が、急にじとっとした不快さと重さを主張していた。その圧迫が「ゴールインおめでとう」の一言さえ塞いでしまったのだ。

 こんなに胸が苦しいのは生まれて初めてだった。俺の想いはハナから一方通行だったわけだ。

 彼女ははるばる日本に来たが、あまりにも早く故国にとんぼ返りしていく。女を星で例えるなんて洒落はどこにでもある。だが彗星のような勢いで遠ざかっていくあの星に、どうして、どうして俺は恋をしてしまったのだろうか。

 俺や、周りの野郎どもがどれほど胸を焦がしていても、彼女の帰る先は、彼女の巡行する中心は決まっていたのである。それにも関わらず、三流芝居を続けて三流台本を書いて、アホ面のまま鼻の下を延ばしていた。


 救われねえなあ、と、つくづく思った。

「そうか、帰っちゃうのかー。寂しくなるな。…皆も寂しがるだろうし。」

「うん。」

「向こうに行っても手紙とかくれよ。」

「うん。」


「……。」

「……?」

「元気でやってくれよ、」

「ありがと。」

 彼女は最後に笑っていた。慣れた笑顔だった。俺も笑っていた。そう思いたい。だが自分の喉から出る声は弱って震えきっていた。みっともない。こんな声を出すために観覧車に乗ったんじゃない。

 分かっている。俺なんかが横に立っても、きっとその幼馴染とやら以上に彼女を幸せにできる筈なんてないのだ。

 そして残酷なことに、レイチェル自身も、俺が何を言わんとして焦っているのか、手に取るように分かっているのだ!俺の面子に傷がつかないよう、わざと遮るような真似までして、この大きすぎる話を打ち明けたのに違いなかった!


 俯いていた顔を上げて、彼女を見た。ほとんど睨むような、険しい目で彼女を凝視すると、当たり前だが彼女はひるんだ。俺は死んだ眼をしながら口角だけを上げて彼女を見ていた。


 シュンと目を落とす。


 空気は凍る。


 この後に宣べられる言葉が、どれほど鋭い棘となり、彼女を刺し返すか、本来なら慎重に吟味すべきものであった。包み込む思いやりすらなく、ひたすら直線的で、そして彼女にうっとうしささえ感じさせてしまうことは俺にも分かっている。

 言わなくてもいい状況は出来上がっていた。何より彼女は、それ以上の俺の野心が露出することを望んでいなかった。

 …だが、言わなければいけなかった。伝えなければいけなかった。心にひびが入ってしまって、後戻りも迂回もしようがなかった。絞り出された俺の声は、ドロドロとした病弱な面持ちのまま、一方通行の往路を力強く駆けだした。



「それでも、好きだ。」


 

「はい、空の旅お疲れ様でしたー!!」

「あぃ、お疲れ様でした。」

 殺伐とした空気の中に扉が音を立てて開き、能天気とも事務的ともとれる声が、あぶくのように湧き上がった。弱い俺が駆けこんで着地したのは、係員からの横槍というギミックだった。しょうもないオチにレイチェルは失笑していた。俺も疲れた笑みをこぼしながら観覧車から降りた。笑顔だけは元に戻しておいたから、あとはそれを土産にして帰ってくれ。

 流した涙は戻らないから、きっと楽になるためにそうなっているから、部屋に戻ってから泣くのでも遅くない。「今日はありがとー」、と彼女が後ろから言う。やれやれ。


 そうして夏という季節は終わり、秋へと巡り移る。


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