あとがき

 この度は私の書いた物語にお付き合いしていただきまして、誠にありがとうございます。


 この物語は「放課後対話篇」という少年少女が放課後に雑談を交わしながら、身の回りの問題や理不尽に向き合い、解決する物語の五作目になります。


 私自身が日常の中で引っかかったことや偶然見つけた面白い観点や物の見方を、謎解きも含めた物語という形に膨らませて描いてみる試みをすることを目的としています。


 読んでいただいた皆さんが私と同じように、こういった問題点を考えてみたり、あるいは面白い発想を見つけるきっかけにしていただけると嬉しく思います。


 今回も五つの物語にテーマを込めてみましたので、解説していこうと思います。おまけだと思ってお付き合いください。



<マイノリティの憂鬱と卒業生への贈り物について> 


 テーマはタイトルにある通り「マイノリティの憂鬱」です。


 この言葉自体は私の造語ですが、意味としては作中にあるとおり「少数派の失敗は責任を負わされやすいが、多数派の失敗は責められにくい」という矛盾を指しています。


 インターネットで「多数決は専門家を殺す」という言葉を見かけたことがあります。ベンチャー企業の会議などで起こる現象らしいのですが「全員で多数決をすると、技術案件ではエンジニアが少数派になり、デザイン案件でデザイナが少数派になり、お金案件でファイナンスの人が少数派になる。あらゆる専門分野で、素人のフィーリングが決定権を握り、かくしてプロジェクトは迷走してしまう」という話でした。


 つまり、多数決は参加している人間の良識と知識が一定のレベルに達していて初めて有効に機能するものであり、そうでなければ、悪い結果を生んだり弱者を苦しめることにもなるということなのでしょう。


 また、たちが悪いのは「多数決」という手段の性質上、間違った結果を生んでもその選択をした人間たちは「自分だけがこの選択をしたんじゃあない」「他の奴らも間違えたんだ」と責任と罪悪感が分散されて、被害を受けた人間たちが不満をぶつけるべき相手がぼやけてしまい誰も裁かれないという結果も起こりうる点です。


 多数決に参加をする人間が、「個人の利益」より「全体の利益」を考えるだけのモラルを持ち合わせていればよいのかもしれませんが、もしその判断を誘導できる立場の人間がいたら多数決はある種の暴力になるかもしれないという意図で描いたのがこのお話です。


<写真コンテストと「環境管理型権力」について>


 テーマは「環境管理型権力」です。


 ごみのポイ捨てなどの社会問題が起こったとき、「罰金を取る」「監視カメラを仕掛ける」など、罰を与えるか監視する方法論で秩序を保つことがあります。しかしそれとは別に「適正な行動をとらせるように物理的な仕掛けで心理的に誘導することができるのではないか」という方法論が「環境管理型権力」「ナッジ理論」と呼ばれているものです。


 本編で紹介したものの他では「ゴミが散らかっている区域にバスケットのゴールを上に設置したゴミ箱を設置したところ、みんなゴミ箱に捨てるようになった」という話や「コンビニ前でたむろす若者たちにたいしてクラシック音楽を流すようにしたら、自分たちの嗜好と合わないと感じて寄り付かなくなる」という話もあります。


 これだけ聞くと良い話のようですが、使い方によっては一部の人間が営利目的のために利用する例もあるようです。


 また怖い話として「毒キノコには、食べられる美味しいキノコと見た目が似ている紛らわしいものが存在している。これは人間を山奥に誘い込んで死ぬようにしむけ、山の養分にしようとする戦略なのだ」という説を聞いたことがあります。


 都市伝説的なものかもしれませんが、人間の営利目的どころか誰が仕掛けたわけでもない自然発生した「仕掛けだけ」が存在し、かかった人間に牙をむくこともあるという発想で、面白くも怖いなあと思いました。


 作中では、ある人間の仕掛けた環境管理型権力が当人の意図したところとは違う形で効果を発したために猫がいなくなってしまったという話を通じて、環境管理型権力が暴走した場合の危険性を緩い雰囲気のエンタメとして描いてみました。



<セルフステージと壊された鉢植えについて>


 テーマは「得意分野との向き合い方」です。


 誰でも「この分野では自分は活躍できる」と言えるような取柄になるものを求めているのではないでしょうか。作中ではこれをセルフステージと呼んでいます。


 もっともこれは造語でして、実際にはこんな単語はありません。英語で得意分野にあたる言葉を調べると「ベストエリア」という表現があったのですが、何となく語感が好みではなかったので結局、自分で考案した造語を使いました。


 自分の得意分野がないのもつらいですが、逆に「これが得意だ」と言えるものがあってもそれが環境と噛み合わなければ発揮する機会がなく本人としてはつらい思いをすることもあります。


 しかし例えばマニアックな知識のことなら何時間でも話せる「博士」みたいな人物がいたとして、何の関係のない話の時でもむりやり自分の得意な話題に持っていけば変な目で見られてしまいます。また医者が病人や怪我人がいないと繁盛しないからと言って病気や怪我を引き起こすようなことをすればそれは悪事に他なりません。


 つまりは自分にとって得意な何かや活躍できる分野があるということは長所のようで、それに依存しすぎると人生を歪める危険もはらんでいるということなのでしょう。


 自分の得意分野をわかってくれる人もいるし、わかってもらえないこともあると割り切った感覚を持つことが「得意分野との正しい付き合い方」なのかもしれません。



<「カリフォルニアから来た娘症候群」とモニュメント騒動について>


 表題の「カリフォルニアから来た娘症候群」は本来医療用語です。病院で延命治療を続けるのが難しい老齢患者が、医師と家族で話し合った結果、苦しみをやわらげて安らかな死を迎える終末期医療に移行することがあるのですが、このとき遠方に住んでいた娘が突然やって来て治療をするように要求し方針を覆そうとして計画が台無しになってしまうことを指すようです。


 ただし、この話の中ではもう少し意味を拡大して「当事者のこれまでの葛藤を知らずにその場にいなかった人間が、結果だけを見て不満を表明する」というニュアンスで使っています。


 例えば、こんな経験はあるでしょうか。

 仕事をしていたら、急きょ同僚のフォローをすることになってしまう。自分の業務が後回しになって昼休みも返上して締め切りに間に合うように作業を進め、午後になってようやく一段落して、ひと休みができた。しかしそこへ午前中は外出していた何も知らない上司が戻ってきて、頭ごなしに「仕事中に何をボーっとしているんだ」と自分を怒鳴る。


 いや今まで仕事をしていたんですよと言い訳したくとも、人間はなかなか何の準備もなしに経緯や状況を理路整然と説明するのは難しく、頭を抱えてしまうなんてことは世の中のあちこちで起こっている気がします。


 一見すると不合理な状況や結果に見えても、当事者からすればどうしようもない条件が重なってこうなってしまったのに、第三者があとからやってきて「何でこんな状況になっているんだ」と批判されるのは辛いものです。


 食品関係の業界ではこういった事例が特に多いらしく、売れ行きや反応が良くないので販売を中止したところ、後になってから「なんで好きだったのにやめたんだ」と文句がきてやりきれない思いをすることもあるようです。


 作中では石像の撤去と緑地地域の廃止を巡って反対運動をしていた者たちに対して 「それまで管理をしていた人間の立場を配慮しここまでの過程に寄り添った人間だけが、意見を口にするべきなのだ」という回答を提示する形で事件を解決しています。


 しかし現実には部分的、結果的な情報だけで判断されて意見を押し付けられることも多いので、人間は自分を守るために「途中の経過」を周囲にアピールするべきなのかもしれません。



<映画撮影と「価値観の階層性」について>


 インターネットで目にした言説で次のようなものがありました。


「『自分がされて嫌なことを人にするな』が幼児教育、『自分がされて嫌じゃないことでも人にとってはそうとは限らない』が初等教育、『嫌か嫌じゃないかはおいといて世の中にはルールがある』が中等教育、『だがそのルールが常に正しいとは限らない』が高等教育」


 なるほど言い得て妙だと感心しながらも、こういう階層性は他の分野でも存在するなあと思うのです。


 例えばファッションや車などでも若い頃は、派手でゴテゴテしていたり、ギラギラした装飾を好む時期が誰しもあると思うのです。しかしいろいろな他者の服装や場面を目にするうちにシックでフォーマルな格好に落ち着いていくものだと思います。


 日本の文化様式にも煌びやかで派手な建築や内装から、落ち着いたわびさびの風情が重視されるようになっていく流れがありました。


 しかし地方の暴走族などを見ると、いまだに派手な装飾やファッションを好む人間がいてネットなどでは「今時こんなセンスの人間がいる」と嘲笑半分で話題にされていたりします。ただ、彼らの中では間違いなくそれを「格好いいもの」と捉えているはずなので自分とは吸収してきた文化に違いがあるのかなあと首をかしげたくなりました。


 勿論、文化や価値観が成熟するにつれて、好むものが変わっていくのは当たり前なのですが、そうした中で自分から見て未成熟な文化が格好悪くみえることもあります。しかしそれを安易に否定するのはかつての自分を笑うことにも繋がってしまう気がするので、原初的で未成熟なものの中にあった味わいをあえて否定せずに、今の価値観を育てていくのが大事な姿勢なのかもしれません。


 次回作がどれくらい先になるかわかりませんが、また書きたいと思う話があれば掲載していきたいと思っておりますのでその時もお付き合いいただけたら幸いです。


 この物語を読むことで、貴方が少しでも肯定的な気持ちになっていただけたら本当に嬉しく思います。


 もし楽しんでいただけましたら、星の評価をしていただけますと創作の励みになりますので何卒よろしくお願いいたします。


 また現在、サポーター限定コンテンツとして、近況ノートで「放課後対話篇(特別編2)」を公開しております。

 六万字ほどの中編で月ノ下くんが、高校二年生の冬のある日に巻き込まれた事件の物語です。本編中ではあまり語られていない、星原さんと出会う前の彼の過去が少し描写されます。ご興味がありましたらギフトをお送りいただいてお付き合いただけると幸いです。


https://kakuyomu.jp/users/JIN-H/news/16817330654351919841


 それでは、さようなら。どうかお元気で。 

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放課後対話篇5 雪世 明楽 @JIN-H

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