第54話 階層性の是非、そして結末
すでに夜のとばりが下りて、窓の外は墨で塗りつぶしたかのように暗くなっている。映画研究部を後にした僕らは教室にカバンを取りに行くために本校舎の廊下を歩いていた。
「私、思うのだけれど」と星原が呟く。
「あの二つ目の顔が着替え室に描かれていたのは『周りに見られながら演技づくりと向き合え』という意味だけではなかったのかもしれない」
「じゃあ、他にも意味があったの?」と日野崎が首をかしげた。
「あの『真実の口』の中に『初めて自分たちが撮影した映画を保管する』っていう慣習を踏まえると、自分の未熟さを忘れるなということだったんじゃないかしら。カメラで映すことで見えるのが『真実の口』だったというのも暗示的だもの」
「ああ。嘘をつく人間があの口に手を入れると抜けなくなるんだっけ? じゃあ『自分の実力と向き合え』『未熟な頃の自分が作った作品を誤魔化すな』という意味合いだったのかなあ」
日野崎はふむふむと納得したように頷いてみせた。確かにそんな風にも受け取れる。僕はその言説に何とはなしに感じ入って口を開く。
「その時は面白く思えたものが、時間が経って感性が成長したら色あせて見えることもあるんだろうな。……なあ、明彦は自分が生まれて初めて面白いと思った映画って何だか覚えているか?」
「ええと、そうだな。多分五歳の時に親に連れて行ってもらった映画かな。子供のころ観ていた特撮ものだったと思うぜ」
「それを今見ても面白いと思えるか?」
彼は僕の問いに「どうだろうな」と悩まし気な顔になる。
「話そのものは単純だったし、今見たら演出も幼稚に感じる。キャラクターへの愛着とかを抜きにしたら流石に面白いとは思えないかもなあ」
「じゃあ、そういう単純なわかりやすい作品は価値がないのかな?」
「いや。そりゃあ今更見返そうとは思わないけど、当時の俺にとっては間違いなく面白かっただろうからな。映画が好きになったきっかけにもなったと思うし。そういう作品にも役割はあるんじゃないか?」
「…………そうか。そうだな」
例えば色彩。
人間は色を認識して、語彙として意味づける時に原初的に「白と黒」を認識する。そこから「赤」、次に「黄と緑」「青」というように発展的に他の色を意識するようになる。それくらいどこの国や人種でも「白と黒」という概念は基本的に存在している、わかりやすくて単純な色だ。
しかし「赤」や「青」「緑」と言った色に比べて「白と黒」という色が美しくないのか、価値が劣るのかというとそうでもない。彩りこそないが、わかりやすくて単純だからこそ文字を描写するときには向いているし、ファッションとして使えば落ち着いた雰囲気でどんな服にも合わせやすい色だと思う。
物事は往々にして単純で原初的なものから複雑で高度なものに発展していく。だが必ずしも前者が後者より価値がないとは限らないのではないだろうか。
明彦が「それがどうかしたのか」と言いたげにこちらを振り返る。何とはなしに僕はふと幼少の頃の記憶を語り始める。
「いやちょっと思い出したんだけどさ。子供の頃に親戚のおじさんがよくマジックを見せてくれたんだ。まあトランプを使った素人でもできる単純な手品だった」
星原と日野崎も唐突な話に不思議そうに僕を見ていた。
「だけど、その時の僕にはタネがわからなかったから『おじさん、すごい!』って喜んでいたんだよ。でも小学五年生くらいの頃だったかな。流石に何度も見せられていたから僕も仕組みがわかってきて『これってカードの見せ方を誤魔化しているんでしょう』って指摘したんだ。『もうだまされないぞ』ってね。……そうしたらおじさんは少し寂しそうな顔をして『真守くんも成長したんだねえ』って笑った。それからもう家に来ることはあっても手品は見せなくなった」
「それで?」と明彦が問いかけて僕は小さく首を振った。
「いや。……ただ今になって思うんだよ。あの時の僕は手品の種を見破って、少し大人になったつもりでいた。だけど、僕がもし仮におじさんの立場だったらどうだろう。年に何回かしか会わない親戚の子供を喜ばせるためにマジックを見せてくれるような気を遣うふるまいが僕にはできるのか、ってさ。マジックというのなら、あの時おじさんが僕に示してくれた小さな優しさが本当の魔法だったんじゃないのかって」
当時の僕は手品を観て無邪気に不思議がって楽しむ感性があったが、その後で知恵のついた僕はタネを知ってしまったために、もう面白いとは思えなくなってしまった。けれど幼少期の僕が持っていた「トリックを不思議がって楽しめる素直な気持ち」は、そして「それを教えてくれたおじさんの気遣い」は大事なものだったんじゃないのか。
あのとき竹ノ塚さんが日野崎に「ありがとうございました」と礼を言ったのも、つまりはそういうことなんじゃないだろうか。
「手品を見て本物の魔法を見せられたみたいに喜ぶことができた、そのころの気持ちをいつの間にか僕は忘れかけていたんだなって」
星原が「それは仕方がないことでしょう」と答える。
「逆に言えば子供の頃の素直な感性から成長したからこそ、その尊さに気が付くことができた。単純で素朴なものにも複雑で精緻なものにも等しく価値と役割がある。それでいいんじゃない?」
僕は「そうだな」と頷いて、明彦も「今回は日野崎の単純明快な感性があの雰囲気を救ったからなあ」と呟く。その言葉に「ちょっと、それってバカにしてない?」と日野崎が不服そうに明彦を小突きまわす。「ちょ、悪かったって」と彼は逃げるように教室に急ぎ、そんな彼らを見て僕と星原は小さく笑ったのだった。
「……星原? 入るぞ」
僕はいつものように扉をノックして部屋の中に足を踏み入れた。映画研究部を訪れてから数日が経過した日の放課後である。定例となっている星原との勉強会に参加するべく図書室の隣の空き部屋を訪れたところだ。
「いやあ、まったく。軽い気持ちで映画の撮影に協力したら、あれやこれやと巻き込まれて一週間近くも振り回されるとは思いもしなかった」
「人の問題に首を突っ込むのも考えものね」とでも軽口が返ってくるものかと思ったのだが、何の返事もない。室内にはただ沈黙だけが漂っていた。といって彼女が席を外しているのでもない。星原は部屋の真ん中にあるソファーの定位置に腰掛けている。
「……星原?」
彼女は無言で顔を下に向けて何かを凝視しているようだ。僕が近づいてくるとようやくこちらの存在に気が付いたように目線を向けた。ただしその双眸にはどうにもとげとげしいものがある。これは、もしかして敵意というものなのか?
「月ノ下くん」
「ああ。ど、どうした? なんだか機嫌が悪そうに見えるんだけど」
「……これ、どういうこと?」
彼女は手に持っていた携帯電話の画面を見せた。そこに映っていたのは例の僕と日野崎が参加した映画撮影の一シーン。怯えた日野崎が僕に抱きついている場面だった。
僕は今更ながら思い出した。
数日前に星原のところに僕が日野崎と相談に訪れた後で彼女は「映画が完成したら私も見てみたいわ」と言っていた。そこで竹ノ塚さんに完成した動画を星原にも送るようにお願いしていたのだ。
僕の方は映画の撮影が終わった後で竹ノ塚さんたちから正体不明の顔のことで相談を受けて奔走することになったので、もうこの一件は解決したものと思ってそのあたりの話を忘れかけていた。だが考えてみれば星原は僕と日野崎が演じたシーンをまだ見ていなかった。
彼女は不機嫌そうに僕をにらみつける。
「日野崎さんとずいぶんしっかり抱き合っているみたいだけど」
「……待て。これは不可抗力というやつなんだ」
「不可抗力?」
「日野崎とカップルの役をやってくれって頼まれたから断れなくて……」
星原は僕の弁解に「ほーう」と鼻を鳴らす。
「あなたは人に頼まれたら他の女子と肌を触れ合うようなことも断りもせず引き受ける、とそういうことなの?」
「いや、そういう意味じゃないんだ」
だが、確かにこれは僕のデリカシーが欠けていたのかもしれない。
もしもだ。これが立場が逆で星原が誰かからの頼まれごと、例えば写真のモデルなどを引き受けでもしたとする。その時に恋人同士という設定で誰か他の男とくっついている場面でも撮影するようなことになったら僕だって平静ではいられないだろう。
「悪かったよ。引き受けたときには一緒に歩いて台詞を言うくらいだと聞いていて。……まさか日野崎に抱きつかれる場面を撮影することになるとは思わなかったんだ」
彼女はむすっとした顔で僕に詰め寄る。
「ああ、そう。つまりあなたはあくまでも『映画作りのために人助けをした結果、こうなっただけだ』というのね。……だったら私も小説を書く参考にするために、実際にやって欲しい場面があるの。勿論、協力してくれるのよね」
「それは構わないが。……どんな場面だ?」
「親しい女の子がいるのに浮気した男の子がお詫びに土下座する場面よ」
「どんだけ限定的なシーンなんだ」
いくら何でもピンポイントすぎる。
「それ、本当にその場面を活用する小説を書く構想があるのか?」
真顔で尋ねる僕に彼女は流石に無理があると思ったのか別の提案を持ち出してくる。
「じゃあ、男の子が好きな女の子にケーキをおごるシーンにしましょうか」
「……まさかとは思うが納得いくまでテイク・ツーやテイク・スリーがあるんじゃないだろうな」
「えっ、駄目なの?」
「駄目に決まっているだろ」
人の財政状況も加味してほしい。
星原は「それじゃあ……だったら……」となにやら呟いて考え込んでからこう切り出す。
「男の子が好きな女の子を口説く場面を実際にやってもらう、というのはどう?」
「女の子を口説く? 確かに恋愛小説ではそういう場面を描写することはあるだろうけど」
僕はふと彼女の言葉を聞いていて思い当たる。これは例の「経験や知識が未熟な相手に方便で適切な手法を実践させることで結果を導く」というメソッドではないだろうか。つまり星原なりに僕との関係をもっと深めたいと考えていて、「小説の参考にする」という名目で僕に自分との関係を意識させようとしているのかもしれない。
最初はあくまでふりをしているつもりでも、実際に行動すれば意識してしまうというわけだ。そして彼女は僕にもあえてそういう場面を演じさせてようとしているのだろう。
「うーん。じゃあその、星原って可愛いな」
「だめよ。そんなんじゃあ。こういう時には『君は世界一素敵な女の子だ。僕は君のためなら何でもしてあげる』くらい言わないと」
「そんなこというのか?」
思わずためらいそうになる僕を彼女は少し顔を赤らめてかすかに潤んだ瞳で見つめてくる。
「だから試しにいってみて。そしたら私だっていつもは言えないあなたへの気持ちを口にできるかもしれない」
「ええ?」
いつもは言えない気持ち。それはつまり「私のことを強く抱きしめてほしいの」とか「静かで二人きりになれる場所に行きたいの」とかそういうことだろうか。
「ほら。『君は世界一素敵な女の子だ。僕は君のためなら何でもしてあげる』」
「わ、わかった。ほ、星原」
「何?」
「君は僕にとって、世界一素敵な女の子だ。君のためなら何でもしてあげるよ」
「本当? じゃあケーキおごって!」
「話が違うぞ!」
いつもは言えない気持ちというのはそれか?
呆れた顔になる僕を星原はニコニコと笑いながら見つめ返す。
「話が違う? あれ? じゃあ月ノ下くんは私にどんなことを言って欲しかったの?」
「……わかった。ケーキで手を打とう」
最初からこうなることを読んでいたような気もする。どのみち僕が弱みを見せた時点で「彼女に対して思っていたことを白状させられる」か「奢ることで借りをチャラにする」かの二択を選ばされる羽目になっていたわけだ。いずれ彼女より上とはいかないまでも同じ段階のしたたかさを身につけたら、この借りを返したいものだ。
携帯電話で嬉しそうに近隣のスイーツショップを検索する彼女を見ながら、僕は心の中でそう呟いたのだった。
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