君を絵に遺す

高田正人

君を絵に遺す


◆◆


「三國ちゃん、また絵を描いてるの?」


 カシオペア公園の隅で私がスケッチブックに向かっていると、また声をかけられた。


「こんにちは、穂高君」

「うん、いい天気だね」


 鉛筆を動かす手を止めて振り返る。痩身の青年がそこに立っていた。秋の初めだというのに、結構厚着をしている。体の線は細くて、か弱そうな印象だった。でも、着ているのは高級なものばかりだ。

 体の線も細いけど、顔の線も細い。まるで弱い筆圧の鉛筆で描いたみたいなイメージ。まつ毛が長めで鼻筋も細くて、ビスクドールが人間になったらこんな感じかな、なんて思ってしまった。


「やっぱりうまいね、三國ちゃんの絵は」


 彼はそう言いながら近づくと、私のスケッチブックをのぞき込む。そこには私の描いた公園の風景が描かれている。


「ただのスケッチです。気分転換ですよ」


 私はスケッチブックを閉じる。


「俺は好きだけどなあ、そういう完成前のごちゃごちゃな感じ。三國ちゃんの視線が再現されてる」


 穂高君がそんなことを言うので、私はまた同じことを彼に聞く。


「だったら、一度穂高君を描かせて下さい。モデルになってほしいんです」


 そうすると、いつもの答えが返ってきた。


「だめ。三國ちゃんの絵ってさ、モデルをそのまま写すんじゃなくて、その人の雰囲気とか内面的なものまで描いちゃうんだよね。それってさ……」


 穂高君はにっこりと笑っていった。


「残酷だよね」


◆◆


 私、三國優子は子供のころから絵を描くのが好きだった。でも、幼稚園で保育士の顔を描いた時、私はこう言った。


「なんだか、おかあさんのかおみたい」


 保育士はすごく驚いていた。後で聞いたけれども、ちょうどその時妊娠していることが分かったらしい。私が人を描くと、その人の本当の自分や本性まで絵に現れてしまうみたいだった。

 穂高君の言うとおり、それは残酷かもしれない。でも私は、画家になりたかった。私の見える世界を、絵という形でほかの人と共有したかった。そのための努力は、今日も続いている。


◆◆


 穂高君と会ったのは、四月の終わりごろのことだったと思う。

あの日、行きつけの画材屋でスケッチブックを買い足したり、新しい絵の具を買ったりした。

 何気なく私はカシオペア公園に足を踏み入れた時、池のほとりで一人の男の人が水面を見つめているのが見えた。周りの人たちは通り過ぎていく。

 でも、私はその人が池に身を投げてしまうビジョンを、ありありと思い描いてしまった。思わず手を差し伸べて、声をかけようとして――


「……君さ、ドラマの見過ぎ」


 私の気配に気づいたらしく、振り返った男の人はくすくすと笑った。


「どうせ、俺がこの池に飛び込んで自殺する、とか妄想しちゃったんでしょ?」


 男の人はびっくりするくらい美形で、笑っただけで空気が澄んでいく雰囲気だった。


「あの、その」


 私は図星だったので、何も言えなかった。


「君、お節介焼き? そんな感じするね」


 私はへたり込んで腰を抜かしていた。それほどまでに、あの死のビジョンは強すぎた。


「あれれ? 大丈夫?」

「すみません、ほっとして」

「お節介焼きじゃなくて、君の方が世話が焼けるみたいだね。ほら、手出して」


 私が恐る恐る手を出すと、男の人は立ち上がるのを助けてくれた。冷たくてつるりとした、陶器みたいな手だった。


「びっくりさせたお詫びするよ。おごってあげるからさ、どこかでお茶でも飲もうよ。俺、穂高。君は?」

「三國……優子です」


 それが、穂高君との初めての出会いだった。


◆◆


 穂高君とは、それからちょくちょく会うようになった。私が公園で絵を描いているとやってきては、会話をして去っていく。親しそうに話しかけてくるのに、自分のことに踏み込まれそうになるとすっと退いてしまう。

 深夜のコンビニで私がレジにいる時、穂高君が入店してきたこともあった。


「あの……穂高君?」

「あはは、奇遇だね」


 なんて言いながら、穂高君がレジに持ってきたのはペットボトルのお茶とチョコレートだけだった。


「もしかして私、ストーキングされちゃってます?」


 確かに私はこのコンビニでバイトしてるって言っちゃったけど、ここにもやってくるなんて……。


「え? 嫌?」


 穂高君はびっくりした顔をする。全然悪びれる様子もない。


「私のことは穂高君に知られてるのに、穂高君のことは何も教えてくれないじゃないですか。不公平ですよ」


 穂高君は顔もいいし雰囲気も優しそうだ。でもいきなり豹変しないという保証はない。何しろ、私はこの人の職業も下の名前さえも知らないのだ。


「じゃあ、俺のことは足長おじさんだと思ってよ。バイト大変でしょ? 画家、目指してるんでしょ? 俺、養ってあげようか?」


 え? と思う間もなく、穂高君は財布を取り出すと一万円札の束を私に渡そうとした。


「はいとりあえずこれ」

「待ってください! これなんですか!?」

「なにって、生活費だよ。遠慮せずに受け取ってよ」

「受け取れません!」


 私が慌ててお金を突き返した時、ちょうどお客さんが入ってきた。


「あ、いらっしゃいませ~!」


 そっちを見ると、穂高君は残念そうにお札を財布にしまう。そして「じゃあ、またね」と言ってコンビニを出て行った。

 私には穂高君が分からなかった。でも、もし私をからかったり詐欺に引っかけるつもりなら、私の絵には関心を払わないはずだ。けれども、穂高君は私の絵を見ている。だから彼がどんなに不可解でも、少しは信用できるのだった。


◆◆


 ある曇天の朝のことだった。私はコンビニでのバイトを終えて、疲れ果てて公園のベンチに座っていた。


「家賃上がったし……コンビニのバイトきついし……実家には帰りたくないし……」


 思わずため息をつく。


「しかも熱っぽいし……」


 寒気と頭痛がしてきた。これから先どうしたらいいんだろうという不安が、体調が悪い時にさらに覆いかぶさっていた。


(あ……これ、完全に風邪だ……)


 バイトの間は神経が張り詰めていたから気づかなかっただけで、本当はとっくに体調を崩していたんだろうなあ。


「三國ちゃん、おはよう……って、どうしたの? すごく顔色悪いよ!」


 まるで、待ち合わせしていたみたいに穂高君に会った。びっくりして駆け寄る穂高君に、私は何とか体を起こして、座ったまま手を突き出す。


「……少し、離れて下さい。風邪みたいですから。穂高君にうつしたら駄目です」

「え? そんなの気にしないでいいよ」


 穂高君は私に近づいてきて、私の前にしゃがみ込む。


「看病してくれる人、誰かいる?」


 私は首を横に振った。


「家まで送っていくよ。俺がタクシー呼ぶから」

「……大丈夫ですから、本当に、気持ちだけ」


 私は穂高君を押しとどめる。彼の親切はありがたいけど、自宅の場所まで知られるのは無防備すぎる。でも「タクシー代だけください」なんて言うのは失礼すぎる。


「あのさ、俺は下心とかないよ。純粋に君が心配でさ。どうしたら信用してもらえるかな。何でも言って」


 穂高君はそう言ってまっすぐに私を見る。だから、私はこう言った。今までずっと断っていたことを、私は頼んでみた。


「――穂高君が、モデルになってくれるなら」


 穂高君は一瞬、なんとも言えない表情を浮かべた。まるで、怖がっているかのような顔だった。でも、すぐに彼はうなずいた。


「いいよ。それで信じてもらえるなら」


◆◆


 私の風邪が治ってから、約束通り穂高君はモデルになってくれた。カシオペア公園の片隅で、ベンチに腰かけた穂高君の姿を私はスケッチしていく。


「俺はね――ずっと前から重病なんだ」


 穂高君が私の方を見ないで言う。


「病名は?」

「まあ、いろいろ」


 いつものようにごまかされる。でも、嘘じゃないことは分かった。


「近いうちに手術を受けなくちゃいけない。助かる可能性は半々かな。それに、助かっても一生薬漬け」


 私は何も言えずにただ、スケッチブックに鉛筆を走らせる。この横顔が好きだった。


「俺、実は結構ナルシストなんだ。自分のことが大好きだったし、モデルにもなりたかった。それがさ、まさかこうなるなんて」


 穂高君は自嘲気味に笑う。


「三國ちゃん、俺が服や靴に金かけすぎって思ってたでしょ」


 私は少し考えてから、遠慮がちにうなずいた。いつも私が着ているのは古着や安物ばかりだった。おしゃれな穂高君は、私とは住む世界が違う人間に思えていた。


「正直だね。でも実はさ、こうやってしっかり着こんで何とか人前に出られるように装ってるわけ」


 私は気づいていたんだろうか。彼の体の内側から巣くう病魔を。それを穂高君は、必死になって隠していた。


「初めて三國ちゃんと会った時、死のうって思ってた。だってさ、嫌だろ? 手術が失敗して苦しんで死ぬのも、成功しても一生薬漬けなんてのも。そんな姿、誰にも見られたくない」


 私は黙々とスケッチを続けた。


「未練なんてなかった。まだかっこいいうちに死ねるんだから、これはこれでいいなって思ってた。両親も友達も『病気には絶対負けません』って顔してれば騙せてた。なのにさあ――」


 穂高君は遠くを見るのをやめて、私の方を向いた。私は手を止める。


「初対面の三國ちゃんだけは、ごまかせなかったんだよね」


 穂高君は、私の絵がその人の内面をありのままに描いてしまうことを知っている。だから、ずっと穂高君はモデルになることを断っていたんだ。


「ねえ、三國ちゃん。君の絵の中の俺は、どんな姿をしているのかな?」


 私はスケッチブックを見せようとしたけれども、穂高君は「いいよ、見せなくて」と言って断った。怖かったんだろう。


「君のせいで、未練ができちゃったよ」


 責任取ってよね、と穂高君は冗談のような口調で言って、また前を向いた。

 私にできることは、画家を目指す者として、見たままをスケッチブックに描くことだけだった。


◆◆


 穂高君が私の前に現れなくなってしばらく経ってから、彼の両親から手書きの手紙が来た。几帳面な人だな、と思った。『息子から、もし手術が成功してリハビリを始める頃になったら、あなたに伝えるように言われました』とそこには書いてあった。手紙の最後には『ありがとうございます。あなたのおかげで、息子は生きようと思ってくれました』と付け加えてあった。

 私は何もかも放り出して、手紙に書いてあった病院へと走っていった。


◆◆


 病院の中庭に穂高君はいた。看護師に車椅子を押してもらっていたその姿は、以前より二回りも縮んでいるように見えた。


「――穂高、君」


 私の声に、穂高君は振り向いた。


「……ああ。来てくれたんだ、三國ちゃん」


 私は息を呑んだ。いつもかっこよかった穂高君はどこにもいなかった。頬がこけて、髪もばさばさで、肌は老人みたいになっていた。


「あんまり見ないで。今の俺、死人みたいだからさ」


 私は言葉が出てこなかった。それでも何とか声を振り絞る。


「そんなこと、ないです」


 確かに外見はそうかもしれない。でも私は画家の端くれだ。外見だけでその人を判断するほど、私の目は曇っていない。


「――生きたよ、俺は。なんでだと思う?」


 私は首を横に振った。


「三國ちゃんの絵の中の俺、見たかったからさ」


 彼は笑みを浮かべる。


「だって、あれは俺の最後のかっこいい姿だからさ」

「そんなことありません!」


 私は叫ぶ。


「今の穂高君だってかっこいいです! モデルになってくれた時と同じ目をしています!」

「……信じていい?」

「あのスケッチブックの中の穂高君――真剣な顔をしていました。絶対に生きてやるって、決意している目でした」


 穂高君は驚いたように目を開いてから、静かに車椅子に深く身を沈めた。


「君のせいだよ。かっこよく終わりたかった。でも終われなかった。こうやって、必死に俺は生きていくんだよ」


 たしかに今の穂高君は、以前のような姿じゃない。でも、彼はまだ生きている。生きようとしている。


「でもいいさ。かっこいい俺はもう、君の絵の中に残っているんだから。どんなにかっこ悪くなっても、君にもう一回会いたかったんだ」


 私は彼に駆け寄って泣いた。何度も彼の耳元で、生きていてくれてありがとうと言った。穂高君は泣きながら「うん」とだけ言った。

 絵の中の穂高君はかっこよかった。でも、私にとっては今ここにいるやつれた穂高君が、何よりも誰よりも大切に思えた。


◆◆


 穂高君広。大病を乗り越えた彼は、今はありのままのモデルとして医薬品やリハビリテーションの機器のモデルなどに起用されている。

 つい先日、彼は一人の画家と婚約を発表した。彼女の名前は――三國優子。


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