吸血鬼の隠しごと

茶々瀬 橙

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 やっと理想のコンビニを見つけた。

 長く立ち読みで居座っても、店員に睨まれない。この時刻にぼくみたいなのが独りで入店しても、何も思われない。そんなコンビニ。夜勤のバイトはいつも決まってやる気のなさそうな男女で、そもそもレジの前にもほとんどいなくて、案外裏でやらしいことでもしているんじゃないかと想像している。ちょっと覗いてみたい気もする。声でも漏れ聞こえてこないかと、ぼくの他に客の一人もいない店内でそっと耳を澄ませてみるけれど、何も聞こえてはこない。

 最近どこに行っても耳にする、流行りの音楽が頭上でやかましく響いて、歌手も知らないのに覚えてしまったサビのフレーズが頭に木霊する。週間連載の漫画雑誌をめくり、勝手に脳内に繰り返すメロディを断ち切る。続きを待っている連載なんかなかったし、ほんとうのところを言うと漫画はそんなに好きではなかったのだけれど、それくらいで丁度よかった。成功を演出するための浅い苦悩、和解に臨むための安い不調和、安寧を飾るための薄い悲劇。決まりきった展開が短いスパンで単調に繰り返されて、赤子が背を叩かれて眠るように、自閉症児が常同動作を好むように、反復刺激が寝入りばなめいた心地よさを運んでくる。なにを考えなくても時間が過ぎていく。謎は解決されるべく提示され、反目は必ず好意に覆り、拳は振るわれるべき悪へと届くのだ。……そんな都合のいいことなんか、現実のどこにもないのに。

 暴力をふるわれるべき敵役なんか、この世のどこを探したって見つからない。暴力こそが常に悪だ。どんな事情があったって手を上げていい理由にはならない。ましてや、なんの理由もなしにひとを傷つけることなど、あってはならない。そんなことを、してはいけない。

 また頁をめくると、ぶち抜きの大きなコマで、今しも主人公は敵方の総大将を打ち倒していた。苦心惨憺して、やっとの思いで王手をかけた。この悪には悪たる所以があったろう、主人公にはここまでに多くの苦難があったろう。しかしその末に倒れた敵の前で、主人公の浮かべる疲労を滲ませつつも満ち足りた顔は、ほんとうに正しいのか。どれほどの理由があったら、他者を傷つけたときにこうした達成感を覚えてよいのか。

 いや、彼ら正しき主人公たちと比べること自体が間違っている。

 ぼくには。ぼくにはどんな事情もありはしなかった。拳の先にあるのは、どんな悪でもなかった。それなのにあの頃のぼくは、きっと、今のこの主人公のような清々しい顔をしていたのだ。

 慌てて漫画雑誌を閉じた。紙面が思い切り打ちあって、びっくりするくらい大きな音が鳴る。膝が震えていた、心臓が不気味に早鐘を打っていた。雑誌をラックに戻そうとして、手を滑らせて取り落としてしまう。半端に伏せて床に広がった雑誌の、表紙に描かれたキャラクターを茫然と見下ろす。後ろめたさの一つもない、こざっぱりとした笑顔を浮かべている。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。何度も自らに言い聞かせて、知らず荒くなっていた呼吸を落ち着ける。息を止め、手足に力を籠めると、震えも少しずつ収まった。気を抜くと膝から崩れてしまいそうに思われて、そうっと屈みこむ。拾い上げた漫画雑誌は、中ほどの頁がまとめて折れ曲がり、皺ができていた。丁寧に伸ばしてから閉じてみたけれど、手を放すとすぐ折れた部分が浮いてしまう。レジを振り返る。店員はいない。知らぬふりでマガジンラックの隙間に押し込んだ。

 そうして顔を上げたとき、誰かと目が合った。窓際に据えられたマガジンラックの向こう側、つまり窓の外に誰かが立っていて、ぼくをじっと見つめていた。窓に張り付いて、大きな目と白い額だけがラックの陰から覗いている。見開かれた瞳が、まばたきもせずにぼくを射抜いている。一拍遅れて恐怖が喉元にせりあがる。悲鳴と言うにはか細い声が口の端から押し出され、自分のものではないみたいに鳴った。

 いったいどれほど目を合わせていたのか、ぼくが恐怖のあまり視線を逸らせないでいるうちに、向こうに動きがあった。すっ、と頭の位置が上にずれたのだ。弾かれたようにぼくの身が仰け反って、後じさり、背にあった商品棚に後頭部をぶつける。首だけが浮遊するイメージが脳裏に炸裂して、ずっと上、天井際にまで視線が駆け上った。しかしそこには何もない。ただ夜闇を背景に窓に店内照明が反射して映っているだけだ。忙しく顔を振って、首の行方を追った。そして見つけた。

 なんてことはない。ラックのすぐ上に、ちょこん、と少女の頭が突き出ていただけだった。先まで屈んでいたのか、あるいは今つま先立ちをしているのか、幼い顔立ちの、黒髪の滑らかに伸びているのを見るに女の子らしい、かわいらしい顔がそこにあっただけだった。彼女は目をまぁるくして、驚いたみたいにぼくを見ていた。

 驚いたのはぼくの方だ。ひと息吐いて、恐るおそると窓に寄る。ラック越しに少女の首から下を覗き込んだら、そこには肩があり、腕があった。その下も続いていることだろう。当たり前のことだけれど、首だけが浮いているわけではない。

 そうとわかると、気まずい思いがして、咄嗟に目を伏せた。年頃はぼくと似たようなものだろう。こうも見つめられていたのだから、知り合いという可能性もある。ひょっとしてクラスメイトだろうか。進級してもうすぐ一年が経とうというのに、それだけの期間同じ教室で過ごしたはずの同級生の顔がほとんど思い出せなかった。女子生徒となるとなおさらだ。日付の変わろうかという時刻に、コンビニで立ち読みをするぼくは、よほどの不良生徒に見えるに違いない。教師に告げ口されたら、もともと居場所のない教室で、さらに肩身が狭くなる。

 そっと面を上げる。上目遣いに窓の外を見遣る。すると少女もまたぎこちない笑みで、いっそ強張っていると言っていい表情で、ぼくを見ていた。そうか、見たところ彼女の周囲に保護者の陰はない、不良生徒なのは相見互いというわけだ。生憎とぼくは彼女のことを全く知らなかったけれど、外聞を憚る身であるのは変わりない。そう思うと肩から力が抜けた。せっかく好都合のコンビニを見つけたのに、もう来られなくなるかと思った。

 気まずいなら立ち去ればよいものを、少女にその気配はなく、尚も控えめな視線を投げてくる。何か用がある、のかな。興味が湧いて、ぼくは出入り口に足を向け、観音開きの戸の片側を押しやってコンビニの外へ出る。安っぽい電子音のドアベルが鳴ったけれど、最後まで店員は姿を現さなかった。はたらけ。いや働いてもらっても困るのだけれど。

 少女は先と同じ場所にいて、外へ出てきたぼくを見て立ち尽くしていた。夜闇に溶けるような黒のワンピースが、コンビニの店内照明の冷めた光に照らし出されて、縁を白く輝かせている。肩の上で真っ直ぐに切り揃えられた黒髪が、そろりと吹いた冷たい風に揺れる。少女は何かに怯えるみたいに僅かに首を縮めてぼくを見ている。

 近寄るべきか、このまま帰るべきか、逡巡した。ともすればぼくが彼女を脅かしているような、そういった視線を投げかける彼女の、その目にぼくは、曰く言い難い不安を覚えていた。出所の知れない、心許ない感覚に襲われていた。……いや、ほんとうのことを言うと、ぼくはその正体をわかっていた。できれば思い出したくない記憶の中で、忘れようとすればするほどに強く焼き付いた光景は、いつでも鮮明に蘇ってくる。

 あの目は、あの子に似ているのだ。半年もの期間、ぼくの内に日々吹き溜まる退屈と鬱憤の捌け口になって、謂れなき暴力にさらされ続けた、あの子。ぼくが拳を振り上げるときに決まって浮かべていた、怯えと、諦めと、微かに、けれど色濃く漂う媚びの含んだ笑み。あの子の浮かべていた表情と、目の前にいる彼女の顔とが、なぜか重なって見えた。大丈夫、あの子とこの少女とは、全く似ていない、似ていない、似ていない。

 ただ立っているだけで、いつの間に息が上がっていた。こめかみを伝う汗が気持ち悪い。胃の腑を鷲掴みされたような吐き気と寒気とが顎の裏辺りまでひといきに這い上り、滞留して膨らんでいく。ほんとうに吐きそうになったのを、奥歯を噛み締め、息を止め、耐えた。涙が滲む。舌が喉に張り付く。右手で左の手首をつかみ、爪を立てる。違う。あの子じゃない。

 細く、ゆっくりと、呼吸をした。律動を失っていた心臓が徐々に落ち着いていく。そのうちに、仮令この少女があの子だったとして、ぼくが被害者のように狼狽えるのはお門違いだと気づいた。同時、これはもしかしたら運命的な好機なのではないかとも思われてきた。これは贖罪の機会なのだ。どれほど償っても、何を犠牲にしてもきっと贖えることのない罪なのかも知れない。今もなお、許されざる行いを重ね続けている自覚もある。それでも、あの子に何かを差し出す機会を永遠に失っていたぼくには、目の前に現れた少女が、まるで救いの手のように見えたのだ。これもまた、まるでぼくが被害者のような考え方で、贖罪どころかただの自己満足に過ぎないと、それもわかっていたけれど。でも、縋りたいという衝動に抗えなかった。

 ぼくは一歩、二歩と少女へと歩み寄る。少女はその場を動かず、ぼくをじっと待っていた。

「えっと、こんばんは」

 向こうにとっては知り合いなのだろうと踏んで、片手を振ってみた。

 ところが少女はそれに応えず、緊張を面に浮かべたまま、張り詰めた声で口早に言った。

 「ねえ。お願いがあるの」

 「ん、うん?」

 「血を分けてほしいの」

 「え、血?」

 答えず、少女は片手の指を自分の口角に掛けて横へ引いた。唇が剥かれ、その内側に覗いた歯は、蛍光灯に照らされて白く輝いていた。

 彼女の言わんとしていることはすぐに気づいた。上の糸切り歯がまるで獣の牙のように鋭く、長く伸びていた。そのアイコンが小説や映画において何を象徴するのか、血を分けてほしいという言葉がこの場合何を意味するのか、それをわからない者なんてそうはいまい。

 ぼくの心は躍った。これは贖罪だ。ぼくは我が身を犠牲にして、あの子によく似た目をした少女に尽くすことができる。彼女の言葉を疑うとか、その返答を躊躇うとか、血を与えることの意味とか、そういった考えを差し挟む余地なんかなかった。

 「いいよ。いい。全部あげる」

 「いいの?」

 「うん」

 ぼくは頷いた。場違いな笑みを浮かべていたに違いない。少女は束の間目を細めてぼくを見たけれど、それ以上の言葉はなかった。大股に一歩、ぼくへ近寄る。

 間近にみた彼女の瞳は、深く澄んだ色をして、きれいで、そしてやはりあの子に似ていると思った。

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