3/4 上

 インターホンの呼出音で目が覚める。薄く瞼を持ち上げて見た景色、寝室のカーテンの隙間から漏れる色はまだ薄青く、夜明け間際であることを知らせている。こんな早朝に非常識なことで、いったい誰だろうと、階下へ降りていって、インターホンのカメラも確認せずに直に玄関へ向かった。寝ぼけた脳裏ではうっすら、吸血鬼の少女の来訪を期待していた。そして玄関扉を開けると、そこには警察官が立っていた。

 「お宅の庭に首吊りの遺体が」

 「遺書にはあなたの名前が」

 「あなたとの関係は」

 「あなたが殺したのですね」

 「どうして黙っていたのか」

 次々と入ってくる警察官がぼくを取り囲み、てんでばらばらに喋りだす。ぼくは焦ることさえできないまま、そういえば昨日、あの子を家に呼び出していたのだと思い出す。ぼくの家まで呼びつけて、殴りつけて、詰って、気の済むまで痛めつけて、そうして家から放り出したのだった。

 たくさんの警察官に引きずられて、ぼくは庭までつれていかれて、大きな木にぶら下がるあの子を見上げた。ロープが喉に食い込んで、首の骨がズレたみたいになっていた。ぼさぼさの髪の毛には、じりじりと羽音を立てて、幾つもハエが集っていた。警察官がぼくの頭をわしづかみにする。

 「さあ謝りなさい」

 「お前がしたことだ」

 「謝りなさい」

 「許されるまで頭を下げなさい」

 「謝りなさい」

 「謝りなさい」

 「謝りなさい」「謝りなさい」「謝りなさい」「謝りなさい」「謝りなさい」「謝りなさい」……

 頭を押さえつけられたぼくに、あの子は足をぶらぶら揺らしながら言う。

 「わたしは、あなたの気持ちを晴らす道具じゃない」


 そこでぼくは目を覚ます。天井のスピーカーから控えめに予鈴が鳴っている。壁にかかった丸い時計を見上げた。あと五分で午後の授業が始まってしまう。椅子の上で身を仰け反って、午睡の間に固まった体を伸ばした。埃っぽい空気で喉が痛かった。

 目覚めきらない頭で先の夢を思い返す。初めから、あれが夢だとわかっていた。何度も何度も、似たような夢を繰り返し見た。その度に細部を変えながら、首を吊ったあの子にぼくは頭を下げている。それでも、一度だってちゃんと謝れたことはなかった。夢の中でさえぼくは、あの子を傷つける以外のことができない。

 読んでいるふりで広げていた本を閉じる。うたたねの間ずっと頬杖をしていた右の頬に違和感がある、赤くなっているかも知れない。頬を片手で擦りながら立ち上がった。本をもとあった棚へと戻しに向かう。

 定期考査もないこの時期の、昼休みの図書室というのはがらんとしたものだ。もちろん司書の先生を除いても、ちらほらと生徒の姿はあるけれど、それはどの時期にだっているようなひとたちで図書室の一部と言って過言でない。かくいうぼく自身もそのひとりであって、つまり図書室にはいま、司書さん以外誰もいないのかも知れない。そんなふうに考えると、まるでぼくがほんとうにいなくなってしまったようで、少しだけ気持ちが和らぐ。ぼくの存在を忘れさせてくれるから、図書室は居心地がよい。

 教室に向かうまでの廊下で、また夢の内容を反芻していた。今日のあの子は、うちの庭で首を吊っていた。これまでどことも知れない樹海とか、教室とか、通学路の電信柱とか、近所の公園とか、色々あったけれど、庭だったのは初めてだ。ぼくは一度だけ、ほんとうにあの子を家まで呼びつけたことがある。当時は両親とも日中に家を空け、深夜になるまで帰ってこないようなひとたちだった。ぼくの家なら、学校よりも人の目を気にせずに済むと、あのときのぼくは自分の思い付きにひどく感心したものだった。あの子もそれはわかっていただろうに、断ることもせず、のこのこと待ち合わせの近所の公園まで顔を出して。

 その素晴らしい思い付きが一度きりで終わったのは、自分で家まで招いておいて、ぼくがひどく不安になったからだった。なぜだか自分の縄張りを侵されているような気がした。あの子の態度は学校でのそれとひとつとして変わるところのなかったが、なぜだか恐ろしく感じた。自分の知らないものを相手にしているような感覚になった。それまでは、叩いたり、蹴とばしたりするだけだったのに、この日、初めて、あの子に馬乗りになって、首を絞めた。

 掌に伝わる首のとても温かいのとか、親指の内側に触れる気道の硬く凹凸した手触りとか、血管の脈動や、荒く呼吸をする度に震える喉の感触を、今でもよく覚えている。はじめは受け入れていたくせに、段々と抵抗が強くなっていって、そのときに膝で踏みつけたあの子の腕が、驚くくらい細くて柔らかかったことも覚えている。最後にはあの子の手足からするりと力が抜けて、抵抗がやんで、さすがに怖くなって手を離した。いつまでも続く咳の音に、荒い息遣いに、あのときのぼくは、あろうことか興奮していた。あのときの、唾液を垂らして赤くうっ血した顔を、顔を……、あれ?

 教室の前までついて、思わず立ち止まった。出入口では邪魔になると、すぐに思い直して扉をくぐり、こそこそと自分の席に向かったけれど、その間もずっと首を傾げていた。

 あの子の目を、その色や形を、ぼくを見つめる視線を、ぼくはとてもよく覚えている。忘れられずにいる。それなのに、あの子がどんな顔をしていたのか、全く思い出せなかった。頬を平手で張ったこともある、髪を引っ張り上げて、その歪んだ顔をまじまじと見つめたこともある、殴った拍子に鼻血を出させたこともある、そういった出来事は覚えているにも拘わらず、記憶の中のあの子の顔貌は、一向に具体的な形にならない。夢の中はどうだろう、ついさっき見ていた夢の中のあの子は、最後なにか口走っていた。そのときに顔を見たはずだ、そう、たしか、

 「わたしは、あなたの気持ちを晴らす道具じゃない」

 小声で口にすると同時、それは先日、吸血鬼の少女に言われた言葉だと思い出す。そして、そう思ってしまった瞬間、夢に出てきたあの子の顔は、吸血鬼の少女に上書きされてしまった。一度そう感じるともうだめだった、どれだけ昔の夢を思い出そうと、むしろはっきりと吸血鬼の少女の顔が浮かび上がって、もとの顔を思い出す手がかりさえつかめない。そのうちに、記憶にあるはずのあの子の顔まで書き換わっていって、あの二人はとてもよく似ていたのではないかとさえ思われはじめた。そんなわけはない、全く似ていない、はずなのに。

 頭の中に、先の言葉が木霊する。わたしはあなたの気持ちを晴らす道具じゃない。それはついこの前、あの少女に別れ際に言われた台詞だ。それなのに、その言葉はまるで、あの子に言われているようで。あの子が三年前のぼくに言うべき言葉のようで。

 ああ、ぼくはあのときから、何も変わっていやしないんだ、と気づかされた。あの子が、吸血鬼の少女に置き換わっただけ。暴力が、執着にとって代わっただけ。根本的なところでは何一つ変わっていやしない。償うつもりで、ぼくはまた同じことを繰り返しているのだ。そうしてあの子はいなくなって……死んでしまった。でも、吸血鬼の少女はただ、姿を見せなくなっただけ。まだ、それだけだ。でもそれでよかった。この一週間、ぼくは毎晩コンビニに通って、少女が来ないものかと待ち続けていた。でももう会えないくらいでちょうどいいのかも知れない。彼女は人間ではないのだから、ぼくには殺すことはできないだろうけれど、でも、殺すよりひどいことをいつかしてしまうかも知れないから。

 だからぼくはこの日、コンビニには行かないことにした。そう決めてしまうと、どこに行く気も失せてしまって、学校から帰ってきたあとは、部屋に閉じこもった。こんなこと久しぶりだった。階下からは母親が、知らない男と談笑している声が微かに聞こえてくる。物音の一々が耳障りで、まるでぼくに出て行けと言っているみたいで、ヘッドホンをつけて、耳が壊れるくらい大きな音で音楽を聴いた。布団にもぐって、目を閉じた。ずいぶんマシになった左腕の、まだじりじりと痛むのを感じたくて、右腕できつく抱きしめていた。

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