3/4 下

 少し、眠っていたのだろうか。いつの間に、布団の隙間からは光が入ってこなくなっていて、耳を痛めつけるようなギターの騒音はトラックが幾つか飛んでいて、布団に覆われた頭は少し汗ばんでいた。布団を持ち上げたときに、澄んだ夜気が布団の内側の籠った空気と入れ替わって、頬を心地よく撫でていく。手元のポータブルプレーヤーを操作して音楽を止めたのに、耳の奥で、キーンと高い音が鳴り続けている。ヘッドホンを外してもそれは変わらず、しばらくこの耳鳴りに意識を傾けていた。

 だから、コツコツと窓ガラスを叩く小さな音が、いったいいつ頃から鳴っていたのか、定かでない。案外すぐに気づけていたのかも知れないし、ことによったらぼくが眠っている間もずっと鳴り続けていたかも知れない。いや、あの少女のことだからそれはないか。カーテンの開けっ放しになった部屋の中でぼくが起き上がったことに気づいて、窓ガラスを叩いたに違いない。ぼくがようやく窓を振り向いたとき、吸血鬼の少女はベランダの柵に背を預けて、窓越しに僕を見下ろして立っていた。背後に控えた満月がまるで後光のように差して、その影の内にすっかりぼくを取り込んでいた。逆光に暗く沈んだ表情は窺えず、ただ瞳だけが怪しく艶めいていた。

 ぼくは夢の中で首を吊っていた、あの子の顔を思い出す。今となってはこうしてベランダに立ち尽くす、彼女こそがあの子なのではないかとさえ思えてくる。ぼくは唇を噛み、内心で必死に否定した。違う、あの子は死んでしまった、あの子とこの少女を重ねて、償おうとすることは、間違っている。またこの少女に拒絶されてしまう。

 少女は再び、コツ、と窓を叩いた。指の背で軽く、一度だけ。少し呆れたような顔を伴って。

 ぼくは慌てて窓のクレセント錠に手を伸ばす。窓を開いた。ガラリと大きな音が響く。

 「やっ。コンビニにいないから来た」

 少女は片手を持ち上げる。一週間前の、別れ際に見せた冷たい表情はそこにない。ぼくはようやくベッドから立ち上がって、いたたまれなくなって一歩下がり、俯いた。言葉がうまく出てこない。謝らねばならないと思っていたけれど、いざ彼女の顔を見ると息が詰まってしまう。いったい何を謝ればいい? 三年前のことか? 未だ夢現にいたぼくは混乱していた。「わたしはあなたの気持ちを晴らす道具じゃない」。それは誰に言われた言葉だ?

 ねえ。と少女は口にする。はっとしてぼくは顔を上げる。

 「ねえ。部屋に入れてよ。今日は月がきれいだけど、そのぶん少し寒い」

 後ろを振り返り、月を見上げながら彼女は言った。切り揃えられた髪が肩の上で振れて、白砂のようにさらさらと穏やかな光を散らす。暗い部屋の中で、それは一層きれいに光った。思わず目を奪われて、直後に少女と視線がぶつかり、慌てて目を逸らす。

 気が急いて、意味もなく片手を差し出したりして、大げさな返答をした。

 「どうぞ、お入りくださいな」

 「あはは、なにそれ」

 平たく笑いながら少女は窓から上がる。履いていた革の短靴は、既に紐を解いてあったらしく、彼女が立ったまま足を振るとベランダに音を立てて転がった。行儀の悪いその仕草が綺麗な身なりとちぐはぐで、かわいらしく思えて気が緩む。ぼくの笑んだ理由を彼女はすぐに察して、顔をしかめると振り返ってしゃがみこみ、いそいそと靴を並べていた。

 彼女はすっと立ち上がり、真っ直ぐにぼくを見た。微かに浮かべた笑みは、張り詰めた心持ちの裏返しとも思われて、ぼくにも緊張が走る。少女は部屋を見回して、床の一点で束の間目を留めて、なぜかふっと息を吐いた。溜息のような、微笑みのような、曖昧な吐息だった。それから一転、ぼくへ戻ってきた視線には、明確な怒りが宿っている。

 「ねえ。どう思っているの」

 曖昧な問いだった。ぼくは慌てて言葉を並べる。

 「ぼくが勝手だった。ぼくのために、キミを利用していた」

 あの子に対してそうしていたように。とまでは言えなかったけれど。

 すると彼女は口を噤んで、しばらくじっとぼくを見つめた。ぼくは顔を伏せて、視線だけでその表情を窺う。眉根を寄せて、少し潤んだ目元は、泣きそうなのを我慢しているようにも見えたけれど、逆光の陰の内、厳しく細められた目元は、やはり睨みつけているようでもあった。怒っているのか、悲しんでいるのか、或いは値踏みされているようでもあって。見ていられず目を伏せて、ぼくは彼女の言葉を待った。

 少女の影が揺れ、窓の閉まる音がした。出ていってしまったのか、とも思ったけれど、直後に間近で声がかかる。低調な声音で、抑圧された感情があるのは確かなのに、その色の読み取れないような声だった。

 「ずっと前に、あなたのしたことは、どう思っているの」

 「ずっと前、って……」

 「キミは、ひどいことをしてたでしょ? 殴って、蹴って、いいようにして。首まで、絞めて……」

 「それは……っ」

 目が眩む。血を食べるという、たったそれだけの行為で、彼女はぼくの過去をそんなにも明瞭に読み取ることができるのだ。誰にも知られたくなかった、知られてはいけなかったぼくの行い。いや、ほんとうは、とうに公にされて然るべき過ちだった。それを我が身かわいさにここまで抱え続けてきただけだった。それが今、全くの他人の知るところとなって、ひどい衝撃を受けた。足がぶるぶる震えだす。力が抜けて、立っていられず床に膝を突く。呼吸のしかたさえわからなくなって、涙が出た。

 口の中が乾いてなにも出てこなかったのに、何度も僅かな唾液を飲み下して、嗚咽の漏れるのを我慢する。ぼくに泣く権利はない。ぼくが今すべきは泣くことじゃない。少女は黙りこくっている。彼女に対して告白することで、ぼくの罪が軽くなるわけでも、ましてや無くなるわけでもないのはわかっていたけれど、ぼくは初めて、ぼくの気持ちを誰かに伝えることにした。親に話したときには、ただ事実と推測を並べるだけで、それをどう思っているかなんて、まるで言い訳を吐いているようで、そんなことできなかった。

 「……あの子がいなくなったそのときまで、ぼくは、悪いことをしている気持ちなんかちっともなかった。そんなわけないのに、あれはぼくの中で、やっていいことだった。誰にもバレてはいけない、ちょっとしたゲームくらいのつもりだったんだ。でも、あの子がいなくなって……死んじゃって、それで初めて、それが悪いことなんだって気づいたんだ。

 いや、ほんとは、どうなんだろう。バレたらまずい、って思っただけで、今もぼくは、全然わかってないのかも知れない。だって、ほんとうに悪いことだと思ったら、きっと誰かに言うよね。でもぼくは、今までずっと、誰にも言わないで。隠して。やっぱり、バレなきゃいいって、思っているのかも知れない。

 でも、あの子には、あの子にはちゃんと謝りたいって思う。あの子のためだったらなんでもする。それならちゃんと償えって話だけど……。それは、そうだよね。やっぱりぼくは、今も、あのときも、なにも変わっていないのかも知れない。ははは、そうか。ぼくはなにも変わっていないんだね。こんなぼくが、あの子のためにできることなんかないか。ぼくは、そういうやつだよ。あの子じゃなくて、ぼくが死ねばよかったのにね。死ぬこともできないで、こうしてのうのうと生きて」

 口から笑いが漏れた。反省しているつもりで、二度と同じことはしないなんて言いながら、結局ぼくはぼくのままなのだ。ぼくには到底、ぼくを変えられはしない。それならいっそ。そう思って、ぼくは少女を見上げた。彼女に侮蔑を向けられたなら、あの子によく似た目をした彼女に失望されたなら、そのときぼくはようやく、ぼくを罰して殺してしまえる気がした。吸血鬼だという彼女の手を借りるまでもない。きっとぼくは死ねるだろう。

 ところが、ぼくが見上げた先で、少女は泣いていた。ぎょっとして息を呑む。罵りこそすれ、泣くことなどあるだろうか。度を越した怒りに涙が溢れたというふうではなく、ただ悲しくて、或いはまるで思い敗れたかのように、彼女は声を殺して泣いていた。目を擦り、ぼくをまっすぐに見て、意を決したように少女は口を開く。

 「お前は、反省なんかしていない」

 「……うん。そうだね」

 「違う。お前は、その子のことを思っているふうで、なにも覚えちゃいないんだ」

 「ぼくのやったことは、覚えているよ。ぼくはキミの言ったように、ひどいことをたくさんした。忘れたことなんかない」

 「でも、お前は、あなたは。あなたはわたしの顔だって覚えていなかったじゃない……!」

 言って、ぼくがその言葉に疑問を抱くよりも早く、彼女はぼくに飛び掛かった。ぼくを押し倒し、馬乗りになって、あっという間にぼくの首へ両手を掛けていた。少女の体重が首にのって、顔が内側から急に膨らんでいくような感じがした。咄嗟に抵抗しようともがく自分の脇に、冷静な自分が棒立ちでぼく自身を見つめて立っていて、そいつが納得顔で頷いた。そうだ、ここはちょうど、ぼくがあの子の首を絞めた場所だ。

 少女はぼくがどれだけ腕や足を振り回そうと、ぼくの首から決して手を放さず、あのときのぼくがそうしたように両膝でぼくの腕を押さえつけた。思い切り抵抗すれば逃れられたのかも知れないけれど、死の恐怖などよりも罪悪感が勝り、今まさに窒息しようとしている最中で諦念が膨れていった。入れ替わりに、もがこうとする意志が失せていく。ぼやけた視界の中、少女は泣きながら叫んでいた。

 「忘れようとしてたんでしょ。わたしなんか死んだことにして、過去に追いやって、なかったことにしたかったんでしょっ。死ねばいい、死ね! わたしは、わたしにはあなただけが……」

 少女の声が遠のく。そうだ。ぼくは認めたくなかった。どれだけ見た目がきれいになっていようと、多少の成長を遂げていようと、見間違うはずなんかないのに。少女とあの子は、似ているのでもなんでもない、同じひと。あの子は死んでいなかった。あの子は生きていた。よかった。ああ、ぼくはちゃんと、あの子が生きていてくれて、よかったと思える。それにもたまらなく安心した。

 そしてぼくはようやく、あの子の手によって死ぬことができる。これ以上にうれしいことなんかない。あの子は生きているべきだった。ぼくは死ぬべきだった。それが今、叶えられようとしている。

 あの子のこんな声、聞いたことなかった。あの子のこんな顔、見たことなかった。ちゃんと感情のある、ひとりの人間だったのだ。あの頃のぼくはそんな当たり前のことにさえ気づけずに、ただ日々の鬱憤をぶつけるための道具のようにしか見ていなかった。よかった。これからも、ぼくのことなんか忘れて生きていって……

 暗くなっていく視界のなかで、無意識にふらふらと持ち上げた左腕が、彼女の頬に触れ、その腕に彼女が思い切り噛みついた。それがぼくの、最後に見た光景だった。

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