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 なにがきっかけだったのだろう。いつからか、目の端に映るあの子が、教室の隅で俯いて座るあの子が、ひどく不愉快に思えて、目障りで仕方なくなっていた。

 ぼくのクラスは賑やかで、和気藹々として、その一員であることにぼくは大いに満足していた。友人にも恵まれて、成績も順調で、担任の教師も気持ちの良い気質で、完璧なクラスだった。それなのに、あの子の存在に気づいた途端、完璧がガラガラと崩れてしまった。隆々と書き上げた文字に気をよくしていたら、誤って半紙へ墨液を散らしてしまったときのような、そんな苛立ちを覚えた。ぼくのクラスは素晴らしいもののはずだった、こんなによい教室などないはずだった。それなのになんであの子はこの教室にいるのだろう。あの子さえ、いなければ。そう思った。

 周りの生徒や担任の教師は、まるであの子に気づいていないように振る舞っていた。これまでのぼくがそうだったように、もしかしたらほんとうに、意識にのぼってさえいなかったのかも知れない。でも、それだけに、ぼくがなんとかしなくちゃならないのだと、そんな義憤に駆られた。今思えば、全く出所の異なる苛立ちを紛らわせるための、正当化と言うにも烏滸がましい嘘っぱちの正義感だったわけだけれど、あのときのぼくにとっては絶対的に正しい衝動で、果たさねばならない使命だった。心のどこかでは、それがいけないことだと、わかっていたはずなのに。なぜって、ぼくは、ぼくがあの子にはたらいたあらゆる行いを、人の目から遠ざけるための努力を怠らなかったじゃないか。これは正しいことなのだと嘯いておきながら、ぼくは誰かに見つかることを積極的に避けていた。

 はじめに何をやったか。これははっきりと覚えている。放課後、珍しくあの子がいつまでもぐずぐずと教室に残っていた。ずっと機会を窺っていたぼくは、これは好機だと思い立った。友人には先に帰ってもらって、教室に二人きりになったところで、まるでただ帰途に就くを装ってあの子の席のそばを通った。あの子は最後列のまんなか辺りの椅子に座っていた、その後ろを通りかかった。そのときに、あの子の座っている椅子の足を、思い切り蹴飛ばしたのだ。大きな音を立てて椅子は倒れ、あの子は床に転がった。なにが起こったのかわからなかったに違いない、あの子はしばらく床に伏せて、身動ぎ一つしなかった。ぼくはあの子が動き出すより先に、何も言わず、教室を後にした。廊下を歩く足取りが、自然と浮足立っていた。開放感と、興奮。このとき味わった悪を成敗する快感を、身体の芯が震えるような愉悦を、今でもありありと思い出せる。

 次の日も、あの子は同じ席に座っていた。懲りずにも悪は、またこの聖域に姿を現した。これまでに倍してあの子の存在が不快に思われた、怒りが湧いた。だからぼくは、この日も教室に居残っていたあの子の椅子を蹴飛ばして、無様に崩れ落ちたその後頭部に向けて言葉を吐き捨てた。

「お前がここにいるせいだからな」

 だから出て行けと、そう言っているつもりだったけれど、今思うと、まるで言い訳のようだ。もう来るなとか、死ねとか、そういう直截な物言いをしなかったのは、格好悪いように思われたからで、工夫を凝らした気になっていた。むしろ自信のなさを露呈した台詞だった。

 これであの子は心を打ち砕かれて、もう二度と学校に来られまい。それを想像して、このときのぼくはきっと微笑んでいただろう。あの子が浮かべているだろう畏怖に歪んだ表情を思い描いて、勝利の余韻に声を上げて笑いだしかねないほどだった。それなのに、両手を床に突いてふるふると顔を上げたあの子は、ぼくを見上げて、困ったように笑んでみせたのだ。瞳の奥にはなにか重たい感情が渦巻いて、頬はぎこちなく吊り上がっていたけれど、それは紛れもない笑みだった。ぼくは怖くなってしまって、この日は舌打ちだけ残して教室を出た。意味がわからなかった。あの子は昨日も、ひとり、ああして笑っていたのだろうか。そんなことを考えて、気味の悪い心持ちがした。

 次の日も、その次の日も、やはりあの子は教室にいた。それどころか、俯いてばかりだったあの子の視線がぼくを向くようになっていた。ただ気味が悪いだけでなくて、周りのクラスメイトにまでそれを気取られるのではないかと不安になって、ぼくはついにあの子へ直接手を上げた。思い切り頬を張った。こっちを見るな、とそんな言葉は、心臓の底を震わせるような怒りと興奮に阻まれて声にならなかった。そしてぼくは、この行為が心の透くような気持ちよさを味わわせてくれることも、知ってしまった。

 それ以降も相変わらずあの子は学校に来て、ぼくが近寄れば身を強張らせるくせにぼくを避けることもせず、日に日にエスカレートしていくぼくの行いをただ一身に受け止め続けていた。放課後だけでなく、休み時間にも人目を盗んでは無意味に関節をねじり上げ、足を掛けて転ばせ、膝蹴りを腹に食らわせた。あの子は低く呻き声をあげて、目には涙を浮かべて、呼吸もままならず頽れながら、それでもぼくを見上げるときには無理にも笑ってみせた。その笑みの所以をぼくは問うことができず、消し去ってしまいたい一心でさらに打擲を加え続けた。

 それが、半年もの間、二日と空けず繰り返されたことだった。あの子が、いなくなってしまうその日まで続いたことだった。その行いの重さを理解することもなく。あの子が姿を消したとき、死んでしまったのだろうと思ったとき、しかし当初の目的が果たされたという達成感なんてものはなかった。ぼくはようやく己が過ちに気づいたのだ。

 吸血鬼の少女とあの子が、他人の空似なんかじゃないってことは、はじめからわかっていた。でも、ぼくは認めたくなかった。認めてはいけないと思っていた。認めてしまえば、ぼくは少しでも肩の荷が降りたような気になって、楽になってしまうだろう。それは、あってはならないことだ。ぼくがあの子に対してはたらいた行いが、あの子を苦しめ、結果、死に追いやった、その筋書きをぼく自身に信じ込ませることのほか、ぼくはぼくを罰する術を知らなかった。これまでぼくは、そうやってずっと罪の意識に耐えてきた。

 そしてぼくは、ぼくの手によってあの子を死へ至らしめたと言いながら、同時に、まだどこかで生きているのではないかと、そう都合のよいことを考えてもいた。あの子はぼくの知らない場所で、楽しくやっている。そんな想像をしない日はなかった。日に日にこのご都合主義の妄想じみた願望は彩度を高め、解像度を増し、それと同じくらい、現実味を失っていった。考えれば考えるほど、それは空想の中の出来事へと変わっていった。それがあり得ないことだと納得するために、三年という月日は充分だった。

 だからぼくは、吸血鬼の少女が現れたときに、あの子の生き写しか、あるいはそのものと思いながら、それを否定した。ついにぼくは妄想と現実の区別がつかなくなったのだろうと思って、理性を保つために拒絶した。彼女が吸血鬼だと名乗ったとき、そのあまりに非現実めいた響きにやはりこれは妄想の延長なのだと、安堵さえ覚えたものだった。

 しかし、認めなくちゃならない。あの子は生きていた。きっとぼくに復讐をしに来た。そしてそれは、今に果たされようとしている。ぼくはようやく、彼女のために死ねる。そのはずだ。

 思考が現実に追いつく。ぼくはまだ生きているのか。或いは死んでもものを考えることはできるものなのか。ひどく息が苦しかった。苦しかったけれど、息をしている感覚はあった。何度か咳き込む。違和感は残っていても、ぼくは十全に呼吸をできている。うっすらと目を開ける。開けたから、今まで目を瞑っていたことに気づく。そしてぼやけた視界いっぱいに、あの子の顔があった。

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