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 彼女はぼくの顔を横から覗き込んでいた。何かを抱えて、それを口元に運びながら、ぼくを見つめている。ぼくの腕だ。見慣れた形であったのと、それがぼくの肩へと接続しているから、自分の腕だとわかった。しかし妙に違和感がある。いや、あるのではなくて、ない。なんの感覚もない。彼女は両手でぼくの腕の、手首と肘とをそれぞれ支えて持っていたのに、持たれているという実感がわかない。他人の腕みたいだった。

 少しずつ視界が晴れていく。彼女の表情が明瞭になってゆく。涙に濡れた目元と、苦しげに歪められた眉根。窓から入るあえかな光にそれらが照らし出されている。目が合うと、彼女は一層険しい表情をして、ぼくの腕から口を離した。口の周りがべったりと血に塗れて、それは既にほとんど黒く乾いている。唇の下に覗いた鋭い糸切り歯だけが鮮血を滴らせどろりと光を映した。

 血液か唾液か、赤く引いた糸に導かれて彼女の口から自らの腕に視線を移す。左腕の肘から先は幾つも幾つも穴を穿たれて、その全てから今も赤々と血を垂れ流していた。無事な手先は暗がりにもわかるほど青黒く変色している。なるほど、感覚がないわけだ。しかし驚いたり、焦ったり、怖がったりする気持ちにはなれなかった。それは痛みがないからか、我が身を支配する倦怠感のせいか。瞬き一つすることさえ億劫だったが、再び少女へ目を移し、どうにか笑みを作った。とくべつ意味を伴った表情ではなく、彼女が怒りか悲しみか、暗い顔をしているから、ともかく笑わなくてはと思ったまでのことだった。

 すると彼女はむしろ、眉根にしわを寄せ、今度こそ怒りを露わにした。両手に支えていた腕をぼくの腹へ叩きつける。鈍い痺れが伝わってきたが、手先は動かせそうになかった。利き手だったのになと、それは少しだけ残念に思った。少女は声を荒らげる。

 「笑うな!」

 「……」

 咄嗟に何か返事をしようとして、息をすることに手いっぱいで声がうまく出せなかった。何度か唾を呑み、深呼吸をして、腹に力を込める。「ぼくは、」。ようやく音になった。

 「ぼくはキミが、死んでしまったと、思っていたんだ。ぼくが殺してしまったって」

 だから忘れていたわけじゃない、と言おうとして、それより先に少女の拳が横っ面に打ち付けられた。さほど強い力でもなかったはずだけれど、身体に力が入らず、首がねじれて息が詰まった。咳が出て、しばらくまともに呼吸ができなくなる。再び浮いてきた涙を無意識に左手で拭おうとして、いつまで経っても拭われず、一拍置いてその理由に気がつき仕方なく右手を顔へやった。

 少女を見ると、彼女も涙を流していた。雫が赤く腫れた目元を伝い、俯く彼女の頬で一瞬だけ留まると、はたりと落ちてぼくの腹の上あたりに弾ける。目尻に溜まりゆく涙を払うことなく、少女はキッとぼくを睨みつけて口を噤んでいた。

 「ずっと謝りたかった。でも、どうしたらいいかわからなかった。キミが生きていて、ほんとうによかった」

 少女の瞳から次々と涙が溢れていく。彼女は眉根にも鼻頭にもしわを寄せて、ひどい形相で、何度もぼくの顔を殴った。震える手にはほとんど力が籠っていなかったけれど、鼻っ柱に当たると目の前に星が散った。それをぼくはただ受け止め続けた。彼女の思いにどう応えていいのかわからなかった。

 彼女はそうしつつようやく口を開き、嗚咽を飲み込んで呼吸をつっかえさせながら、たどたどしく語る。

 「死のうと思ってた。すごくつらくて、もういやだった。わたしにはあなたしかいなかった。なのに、あなたはわたしがいらないみたいだった。わたしは、いなくてもよかった。死ねばいいって思ってたんでしょ。だから、あなたのために、死のうと思った。そしたらわたしのこと受け容れてくれるって思った。

 でもね、先生が、それは違うって言ってくれた。わたしが死んでも、誰も喜ばないって教えてくれた。もう少しで死ねたのに。首にね、包丁が刺さってたの。本で読んだんだ。痛くなかった、あなたにされたことと比べたら、全然痛くなかった。体から力が抜けてね、気持ちよかったくらいだよ。でも先生が、死んだらいけないって。どれだけひどいことをしたか、教えてやるべきだって。だから、会いに来たんだよ」

 死ねばいい。そう言って、彼女は泣きながら幼い子どものように澄んだ笑みを浮かべた。初めてあの子の笑った顔を見た。こんなにもきれいに笑える子だったのか。間違ってしまう前に知りたかった。

 カーテンを開けたままだった窓の外、見える景色は少しずつ明るみを増していた。空はまだ暗い。しかし窓の縁に微かな光が兆して室内を淡く照らしたような気がした。夜闇の底にも陽の匂いが仄かにくゆる。それを嗅ぎ取るみたいに、少女ははたと顔を窓へ向けた。小さな星明りさえも掬い取って、彼女の瞳の奥に金属めいた光沢が宿る。猫のタペタムみたいだ。

 少女はまだ肩を震わせてえづいている。しかし両掌で目を擦り、ぼくへ視線を戻したときには、その目に決意を灯していた。

 「死ねばいい。あのときのわたし、変になってた。でも、もう大丈夫。あれは『あたたかさ』じゃなかったんだよね、あれは『やさしさ』じゃなかったんだよね。今はわかるようになったよ。すごく痛かった、すごく怖かった! それなのにあなたは、楽しそうで。あなたのくれるものだから、受け止めなくちゃって思っていたのに」

 彼女は手を腰の後ろへやって、床に正座を崩して座る背後から何かを取り出した。見慣れた形の、どこの家庭にもある三徳包丁だ。柄まで金属でできたそれは、うちにあるものとは違う。彼女がわざわざ持ち込んだものだろう。今までどこに隠し持っていたのか、疑問がちらりとよぎったが、剥き身の刃物を前にしたらそんなことは些事に過ぎなかった。彼女の口ぶりからして、その使途は明白だ。

 首に包丁が刺さっていたの。彼女はさっきそんなことを言っていた。これを使ったのだろうか、自らの首に刃を突き立てて。それはどれほどの焦燥や諦念に駆り立てられたら為せることなのだろう。ぼくはどんなに彼女を追い詰めていたのだろう。ようやく彼女のために死ぬことができる、その気持ちは嘘ではなかったが、明確な形をとって現れた死の姿に、恐怖を感じずにはいられなかった。ぼくは、ぼくが彼女に与えた傷の大きさを、まるでわかっていなかったのだと知った。

 彼女はまたぼろぼろと涙をこぼしはじめた。怒りに顔を歪めたまま落涙する様は、その所以が悲しみではなく憎しみの溢れたものだと訴えていた。あのとき、あの子が笑っていた理由はわからなかったけれど、今彼女が泣く理由はよくわかる。今更、彼女の気持ちを、こんな形で理解したって仕方のないことなのに。

 天井を見上げる。ぐるぐると目が回っていた。気持ち悪くなって、深く息を吸おうとして失敗した。その程度の力ももう残っていなかった。横目に、彼女が包丁を逆手に持ち替えたのが見える。それを高々と振り上げるのも。そこまで見て、目を閉じた。怖かった。もう指の一本だって動かせる気はしなかったけれど、見ていれば怖くなって、咄嗟に抵抗してしまうかも知れないと思った。

 最後に耳にしたのは、彼女の獣のような咆哮、そして包丁がぼくの首を貫き床へと突き立つ硬い音。痛いとか、苦しいとか感じる間もなかった。

 ああ、最後までぼくは、「ごめんなさい」の一言も言えなかったのだな、と思い。

 それから。

 それから……朝が来た。

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