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 はたと目が覚めたとき、そこは見慣れた自室だった。遮光カーテンに閉ざされて薄暗かったけれど、カーテンの端から滲み出る光はひどく眩しくて、朝が来たのだと悟る。次の瞬間には昨晩の出来事を思い出し、慌てて首に両手を遣った。そこに包丁など刺さっていない、ぼくの首はちゃんと繋がっている。

 全てが夢だったのかと思ったが、首に触れたときのざらざらとした感触を訝しく思って、両手を眼前に掲げてぎょっとした。赤黒い粉が大量についている。また首に触れると、それはまだたくさんついているらしく、両手の爪でこそぎとり、そうしながら体を起こす。血の固まったものだということはもうわかっていた。しかし痛みもなければ傷もない。見れば左腕も血塗れだったのに、やはり傷口は残っていなかった。

 身体を起こしたときに、床に突いた右手の指先に、焼けるような熱を感じて手をひっこめた。床を見下ろす。カーテンの隙間から部屋を横切って、床を這って反対の壁まで陽光が細く伸びていた。次いで指先に目を向ける。人差し指と中指の先、第一関節までが赤く爛れて、水膨れになっていた。

 ずくん、と妙な調子で心臓が鳴る。水疱の破れるのも構わず、みたび両手を首に回して、乾いた血をがむしゃらに掻き落とした。そして丹念に指先を触れさせて、目当てのものを、そこにあるはずの傷痕を、ようやく探し当てた。左のくびすじ、肩と首の境目にある、二つの穴。「そりゃね、首に噛みつかないと」少女の冗談めかした言葉が思い返される。

 もういちど、震える右手を伸ばし、光のすじへと晒した。途端、激痛と共に陽の光がぼくの腕を焼く。あっと思った瞬間には炎が上がっていた。咄嗟に手を引き戻したときには、手首から煙とともに肉と血の焦げるいやな臭いが立ち上っていた。痛みがないと気づいたのは、歯を食いしばって、しばらく呻いてみた後だった。こわごわと見下ろした先、右の手首の中ほどが真横にすじを描いて真っ黒に焦げて、二本平行に並ぶ骨の一部を晒していた。軟部組織が丸ごと焼き切れて、覗く骨は馬鹿みたいに白い。

 「ははは……」

 ひとつもおもしろくなかったけれど、知らず笑いが漏れた。こんなこと、あるのか。最後に見た、あの子の泣き顔を思い出す。初めからこうするつもりだったのか。たぶんそれは違うのではないかと思う。きっとあのとき、ぼくはようやく、あの子の気持ちと繋がれた。とても、とてもやさしい子なのだ。ぼくなどと違って、ひとを傷つけるために、あんなに苦しそうな顔をして。

 鼻の奥が急に痛くなって、涙が滲んだ。生きていることに安心していた。そして、安心している自分がたまらないほど醜かった。赦されたわけじゃない。あの子は、自分を死に際にまで追い詰めたやつひとりだって、憎みきることができなかっただけだ。

 涙が止まらない。でもやらなくてはいけないことがある。ふらふらと立ち上がった。今の時刻はいつ頃だろうか。部屋の外、階下からはテレビの音がしていた。母親は帰ってきているらしい。陽の光を避けて、ぼくは階段を下りていった。

 リビングもカーテンは閉ざされたまま、薄暗い部屋でテレビだけが煌々と輝いていた。テレビの前のソファには、帰ったときそのままの姿で母親が身を横たえて眠っていた。母親の姿をこうしてまともに見たのは久しぶりだった。少し痩せただろうか。化粧と派手な服装は相変わらずだったけれど、この数年で幾らかおとなしくなったようにも感じる。

 ぼくがリビングに入った物音で、母親はうっすらと目を開いた。首をもたげ、ぼうっとした目でぼくを見る。すぐに息を呑んで、目を見開いた。ぱっと体を起こす。驚きというより、困惑したような顔だった。

 「あんた、学校は……、ってそれどうしたの!」

 血塗れの体に気づいたようで、叫び、母親は駆け寄ってきた。しかし二歩分くらいの距離をおいて立ち止まった。どう触れていいのかわからないに違いない。もしかしたら、ぼくがまた誰かを殺したものと思っているだろうか。

 息を止めて、嗚咽を抑え込み、それからぼくは口を開く。「お母さん」。こう呼びかけたのはいつぶりだろうか。

 「お母さん。あの子ね、生きていたよ。あの子が死んでしまうくらいひどいことしたのは、ほんとだった。でも、生きていてくれたんだ。あの子、生きていたんだよ」

 口にする度、涙が溢れた。

 「びっくりした。吸血鬼になってた。ぼくのせいで、すごく苦しい思いをしたのに。あの子はとっても、いい子だったのに……」

 段々と自分が何を言いたいのかわからなくなってくる。それでもいい。母親には伝えておかなければならない。あの子が生きながらえていること。あの子がとてもやさしい女の子だったこと。それらをぼくがまるで知らないまま、ただ傷つけていたこと。

 涙でもう何も見えなかった。母親の狼狽える声が聞こえる。

 「吸血鬼って、なに、その血はどうなって、どういうこと、なにがあったの」

 「あの子が生きていたんだよ」

 「それはもうわかったから! その血は、ケガは!」

 よかった、あの子が生きていたこと、母親にちゃんと伝わった。ぼくは精一杯母親に笑いかけ、踵を返す。母親の声音が高まった。

 「ちょっと! どうしたの! 吸血鬼ってなに! 待って!」

 言葉と同時、背後から抱き留められた。ぼくは首だけで振り返る。香水と、酒と、化粧と。あとはとても懐かしい母親の匂いがした。あんまりにも久しぶりだったから、ドキドキしたし、そうでありながらいつまでもこうしていたいような気もした。しかし抱きしめられたままでは具合が悪い。左手しか使い物にならなかったけれど、渾身の力で母親を突き飛ばした。あえなく母親は床に倒れ、小さく悲鳴を上げる。

 「お母さん、危ないから」

 ぼくはそのまま、カーテンの閉まり切った窓辺に寄った。カーテン越しに漏れてくる光だけでさえ、茹ってしまうほど熱い。春先なのに、太陽はまるで真夏のように激しく燃えていた。

 あの子がぼくを殺せなかったとして、ぼくが赦されるわけじゃない。あの子がどれほど優しかったとして、ぼくが生きていていいわけじゃない。あの子のために、ぼくにやれることは、あとこれだけだ。あの子にできないというのなら、あの子の代わりにぼくが。

 カーテンを開け放つ。朝日を浴びる。

 ごめん。

 届かないのはわかっていたけれど、最後まであの子に言えなかった言葉を、ようやく口にした。

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吸血鬼の隠しごと 茶々瀬 橙 @Toh_Sasase

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