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吸血鬼を自称する少女が姿を現したのは、どれくらい経った頃だろう。腕の痛みが果たして傷によるものか、寒さのためか全く判別のつかなくなって、このまま眠ってしまえば心地よいのではなどと半ば本気で考え始めていたときだった。軽やかな足音と、その音に似合いの軽やかな足取りでもって、彼女は夜闇の帳を払い蛍光灯の白い光のもとへと飛び込んできた。まるで舞台の幕あけに袖から躍り出て、一息に中央まで走る主人公のようだ。今にも序幕の一節でも歌い上げるのではないかと、そんなふうに思うほど彼女の登場は鮮やかだった。髪が柔らかく風を孕んで舞う。手足はしなやかに、のびのびと空気を掴む。
「こんなところに、いたんだ」
少女はぼくの前に立ち止まって言った。前、と言っても少し距離があった。ぼくが立ち上がって、大きく手を伸ばしても届かないだろう、そんな距離感。何か警戒されているような間がぼくたちを隔てていて、実際彼女の表情には、幾らかの緊張が見て取れた。声音は明るくとも、空々しい響きをしていた。
そういえば昨日もこんな顔をしていたな。そしてやはりその表情はあの子を彷彿とさせる。全く似ていないのに、不思議だった。
「こんなところ、って?」
昨日と同じ場所だけれど。
「キミの家に行っちゃった」
「え、なんでぼくの家、知っているの」
なんで、なんて言っても理由はほとんど限られている。昨日、きっとぼくの後をつけていたのだろう。そんなことをする理由はよくわからない。「また来る」とは、もともと家に押しかけてくるつもりだったのだろうか。
少女は驚いたように言った。
「え、あれ? もしかして、気づいてない? いや、そんなことないよね」
首を傾げて、自身の体を見下ろす。昨夜と似つつ微妙に意匠の異なる黒地のワンピースを着ている彼女の姿は、夜に紛れるにはぴったりだろう。
「気づかないよ。昨日は、帰るのに必死だった」
「え? あー、うん。そうだね?」
束の間思案顔をした少女だったが、俯いて、ふっと溜息を吐くと、次に持ち上げた顔は、心底おもしろそうな意地の悪い笑みだった。
「まあいいや。それにしても、一晩で随分やつれたね?」
「……うん。血を吸われても、吸血鬼になるわけじゃないんだね」
「そりゃね、首に嚙みつかないと」
両手を持ち上げて、目の前の中空に掴みかかり、がぶっ、と食いつくような仕草をする。僅かに顔を傾けたあたり、首に噛みつくジェスチャーらしい。にぃ、と歯を剥いて、自分でけらけら笑ってから、
「痛かったでしょ。後悔したでしょ?」
と問うた。その声音は窺うような響きでいて、彼女の表情は相変わらずウキウキとしたものだ。今朝の自身の醜態を思い出して、忘れかけていた痛みがじわじわと勢いを増していく。でもそれを顔に出すまいと唇を噛んで、結局それが何よりも内心の発露だったけれど、そう自覚する余裕もなく彼女を見た。
「そんなことない、後悔はしてない。……これでいい」
すると途端に彼女は表情を消し、「ふぅん」とつまらなそうに頷いた。細めた目が、吟味するみたいにぼくを見つめる。それは
しばらく少女はぼくを無表情に睨みつけ、ぼくはその底意がわからず縮こまっていた。ぼくにはもう、彼女しかいない。彼女に突き放されてしまったら、ぼくはどうやって、これから生きていけばいいのかわからない。或いはそれは、そう思い込もうとしているだけなのかも知れなかったけれど、償うことのできない過ちの置き場所をようやく、ようやく見つけてしまったのだ。ぼくは彼女のためだったら、なんだってしようと思えた。血が欲しいなら幾らでもあげよう、死ねと言うなら、死んだっていい。
やがて少女は、ぽつりと言った。
「吸血鬼はね、血をもらったひとのことが、そのひとの隠していることが、ちょっとわかるんだ」
「え?」
「あなたの罪悪感を消すために、わたしは血を食べているわけじゃないから。わたしが何をしたって、あなたのしたことはなくならないから」
「それ、はっ……!」
ぼくはひどく狼狽える。そんな力がほんとうにあるのか? でも、ぼくの気持ちには気づかれている。どこまで知られた? なにが見える? でもこうしてまた来てくれたのだから、ぼくは拒絶されたわけじゃないよね、ぼくはまだ、彼女に何かを与えることができるよね?
なにかしら釈明を述べようと勢い込んで、ぼくは思わず立ち上がった。しかし言葉が出てこない。体だけが前のめりになって一歩踏み込むと、その倍の距離を彼女は後ずさった。蛍光灯の照らす外側へ、真っ直ぐに伸びた夜闇の陰へ、彼女の身は消える。昏い色をした、あの子と同じ眼差しだけがじっとぼくを見つめて、ある瞬間に伏せられた。最後の繋がりが断たれ、身を裂くような痛みがぼくを襲う。
もう彼女の姿は見えない。声だけが残された。
「興覚めした。今日はもう帰る」
「待って!」
咄嗟に呼び止めると、再び眼だけが帳の奥に開いて、はるか遠くから冷たく差した。そして、ぼくが何を言うより前に、
「わたしは、あなたの気持ちを晴らす道具じゃない」
平たくそれだけ告げ、再び夜の闇に消えた。もう気配はどこからも感じられなかった。単なる観客たるぼくには、舞台を降りた彼女を呼び止める資格はない。あとに取り残されて、ただただ衝撃に打ちひしがれて、ぼくはその場にへたりこむ。
このときのぼくの内心は「また会えるよね?」という問いでいっぱいで、そればっかりで、もっと他に考えることがあったのに、茫然としたままいつの間に家路についていた。ぼくはどこまでも身勝手な人間だった。
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