2/4 中
学校という場所も、勉強も、特別好きではない。というより嫌いだ。好きだというひとも中々少ないだろうけれど、ぼくは他のひとと違って、他ならないぼく自身のせいで学校生活を嫌悪していた。クラスメイトのはしゃぐ声が、学校という空間が、あの子の顔を思い出させる。ぼくのした残酷な行為を、フラッシュバックのように突きつけてくる。ぼくは反省した、もう二度とあんなことはしないつもりでいる、だけれどぼくのしたことがなくなるわけじゃない。次の瞬間にも誰かがぼくの過ちを暴いて、突き止めて、糾弾してくるかも知れない。ぼくはそれが怖い。……ぼくのしたことを、周囲の誰にもまだ知れていないことが怖い。
ぼくは、まるで悪魔のように、残忍で、狡猾な人間なのだ。あの子を傷つけるときには、用意周到に、決して誰の眼にも留まらないようにやった。あの子を標的にしたのも、他のひとに絶対に漏らさないだろうとわかっていたからだった。劣悪な家庭環境を露呈した貧相な身なりで、いつも他者に怯えて縮こまっている子だった。明らかに孤立して、クラスメイトはおろか教師さえもあの子が居ないように振る舞った。イジメの対象にすらならなかった。だからこそぼくは、あの子に的を絞ったのだ。
あの子にとっての唯一の社会との繋がりが、ぼくだけになるように仕向けた。暴力を振るっておきながら、甘言と恐喝によって、ぼくとの関係が断たれれば自分はほんとうにひとりぼっちになってしまうと思わせた。あの子はぼくの思った通りに、決してぼくの行いを誰にも口外しなかった。ぼくはただひたすらに、あの子を痛めつけ続けた。ぼくはおかしくなっていたのだと思う。最後には、まるであの子に望まれて拳を叩きつけているような気さえしていた。ぼくはこんなことしたくないのに、とまるで被害者のような思いにさえなっていた。
突然、あの子が姿を消す、その日まで。
居ても居なくても変わらないような子だったのに、いざ居なくなると、学校中が大わらわになった。事件や事故に巻き込まれたのだろうと、警察まで出張ってあの子を捜索した。しかし終にあの子は見つからなかった。真相のわからないまま、やがて事態は沈静化していった。誰一人として、ぼくとあの子との繋がりを指摘するひとはいなかった。
捜索が続く間、ぼくは気が気でなかった。漏れ聞こえてくる話によれば、家庭ではネグレクトの状態にあって、関わりを持っていたのはどうやらほんとうにぼくだけのようだった。何かの拍子にあの子との繋がりが辿られれば、間違いなくぼくは疑われるはずだった。だけれど最後までぼくの行いが明るみに出ることはなく、ほかのクラスメイトと同様に部外者として扱われ続けた。ぼくからも、声を上げることなんてできなかった。ぼくにはわかっていた。事件や事故に巻き込まれたわけがない。あの子はきっと自殺したのだ、他ならない、ぼくのせいで。その責任の重さに気づいたのは、自らの行いの残虐さを自覚したのは、あの子が居なくなってからだった。あまりに遅すぎた。
あれから、三年が経った。世間的には未解決のまま終わった事件だったけれど、ぼくの中ではまだ終わっていなかった。未だ行方のわかっていないあの子の遺体がもし見つかれば、そしてもしその傍らに遺書のひとつでも残されているようなことがあれば、そこにぼくのことが書かれているのは疑いない。それが明らかになったとき、ぼくは犯罪者になるのだ。いや、ちがう、今こうして机に座っている瞬間でさえもぼくは罪人であり、罪を重ね続けている。誰にも咎められないまま、償うための誠意をすら持たないまま、こうしてのうのうと生きている。
どれくらい経った頃だろう、自ら招いたことでありながら、ぼくはその重圧にさえ耐えきれず、両親にだけ、真実を伝えた。彼らはぼくを責め立て𠮟りつけたが、結局は公にはせず、隠し通すことにした。そう、してくれた。ただ、もともと冷え切っていた両親の関係はそれがもとで決定的となり、父親は家を出た。ぼくは母親とはそれ以来、ほとんど口をきけていない。怖かった。母親がぼくにどんな目を向けてくるのか、それを知りたくなかった。だからぼくは、罪から逃げ、母親からも逃げた末に、学校へ来るのだった。最もぼくが居てはいけない場所だけが、ぼくの居場所だった。
あの子がそうだったように、今はぼくが、学校で孤立している。居ても居なくても同じような、誰からも相手にされない立ち位置にいる。それは罪の意識によってあの子と同じ気持ちを味わおうだなんて、そんな殊勝な思いからではない。あれ以来、ぼくはひとと交際することが怖くなっていた。ぼくの腐りきった性根は、誰よりもぼく自身が知っている。二度と同じことをするものかと思いながら、誰かと関りを持ったとき、また繰り返すのではないかと疑っている。また、誰からも意識されなければ、ぼくの罪が暴かれることもないのではないかと、そんな都合の良いことまで考えている……
遅刻のことは、さしたるお咎めもなく流された。教師は興味もなさそうに頷いただけだった。或いは触れ難かったのかも知れない。この教員は、ぼくが片親であることやその母親が深夜に家を空けるような仕事をしていることを知っている。そこからぼくの事情を勝手に推測してくれたのだろう。
それから、教室の隅の机で、一言の口も利かずに放課まで過ごした。授業は真面目に聞いていた。あの子が受けられなかった分まで、ちゃんと聞かなくてはと、これもまた自己満足の贖罪だった。
帰りの会が終わると、ぼくはこそこそと教室を出る。誰とも声を交わすことなんかない、誰もがぼくの存在に気づいていながら、ごみに集るハエを見てしまったときのように目を逸らす。ぼくは壁際に沿って害虫のように急ぎ足でドアを抜けた。家路を走った。
玄関戸を静かに開けると、まずは三和土に並ぶ靴を確認するのが習慣だった。母親の、ギラギラしたピンヒールが一足きり、乱暴に脱ぎ捨てられて転がっている。今日は誰かと一緒じゃないのか。リビングのドアの向こうから、テレビ番組の騒々しい笑い声が響いてくる。ぼくは音を立てないようにその前を通り過ぎて、自室へと引っ込んだ。制服を着替えて、宿題を終わらせて、荷物はポケットに入るだけ、またすぐに家を出る。学校でも飲み続けていた痛み止めの残りが心許なかったけれど、そのためにリビングルームへ入ることはできなかった。血を吸った絆創膏も取り換えた方がよかったのだろうけれど、それもできなかった。
だだっ広い河川敷を横断して、灌木の点々と伸びる河原まで来ると、丈の高い草が邪魔をして堤防からの視界は悪い。川べりに座り込めば、誰かに見つかってしまうことはまずない。夜の更けるまでここで過ごすのが習慣だった。冷たい風が川を下ってぼくを嬲っていく。右の人差し指の背を噛んで、震えながら寒さに耐えるのも、慣れてしまえば日常に過ぎない。冷え切っているくらいの方が痛みを感じないで済んだ。それにいつもはやり過ごすことだけが目的のこの時間も、今日はこのあとに予定を控えていた。ぼくはそれがただただ楽しみだった。
また来るから、と彼女は言ったのだ。また会って、彼女に尽くすことで、ぼくの罪が減ずるような、そんな妄想にぼくは囚われていた。ほかに縋れるものがなかった。だって、いつぶりだろう、ああして他者とまともに言葉を交わしたのは。ひとの目を見ることができたのは。腕はまだひどく痛かった。けれどぼくは、あの少女と会うのを心待ちにしていた。
やがて日は暮れて、寒さは一層増し、川岸に人の声は遠ざかる。それに代わって川のせせらぎと虫の声が夜風を渡っていく。空は晴れていたが、月のない夜だった。星を見上げながらぼくは立ち上がる。冷え切った手足をぎこちなく動かして堤防へのぼり、コンビニへ向かう。
町はずれの、畑の中にぽつんと建つようなコンビニだった。もとは農道だったところを、町と町とを繋ぐために舗装を巡らせただけの、畑にずっと隣接する道沿いにあって、日中はそれなりの客入りのようだが夜になれば車通りなどほとんどない。夜は閉めた方がよいのではないかと素人目には映るのだけれど、そこはそれなりの理由があるのだろうか、律儀に二四時間お店を開けている。今日は立ち読みをする気持ちにならなくて、外の車止めに座って膝を抱えた。そうして彼女の来訪を待った。また来るとは言っていたものの、それが今晩である確証など何も無い。でもぼくは待つことにした。
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