2/4 上

 銀のシートから幾つも錠剤を押し出して、一息に口に含んだ。傍らのテーブルに置いていた二リットルのペットボトルは蓋を開けっぱなしにしていて、残り僅かになったそれを手に取り、緑茶を勢いよく呷る。押し流せず、僅かの間、喉が閉塞する感覚がある。もう一口。なんとか飲み下す。放るようにペットボトルをテーブルへ戻したときに、中身のなくなったシートの山に腕を当ててしまって、ごみがバラバラと机から落ちていった。拾うような気力もない。木製の固い椅子に凭れると、体を支えきれず、滑って、背もたれに後頭部がぶつかった。そのままずるずると床まで落ちていく。冷たい床が心地よい気がした。

 体には力が入らず、ものもまともに考えらえない有様だったが、痛みはむしろ思考の余白にさえ侵食するように強くなるばかりで、一向に消える気配がなかった。横手から光のすじが伸びて目を刺す。カーテンの隙間から朝日が漏れて出ていた。夜が明けたのか。一晩中飲み続けたはずなのに、市販薬の効き目などこんなものか。これならばいっそ酒でも飲んでしまったほうがよかったかも知れない。

 目が回る。伸びる曙光はうねうねと踊り出し、無数の蛇に姿を変える。身体に絡みつくそれを振り払おうにも、手足は言うことを聞いてくれなかった。ついには喉にまで這い上ってきて、呼吸を止めに掛かる。体が重い、息ができない。そこでぼくの意識は、いったん途切れる。

 次に目を覚ましたとき、猛烈な悪臭で瞬く間に夢見心地を脱した。口の中にも、鼻の奥にも、同じ饐えた臭いが充満している。慌てて身を起こそうとして、突いた腕は肘から力が抜けて、うつ伏せに再び頭を床へ打った。そのときに床に触れた頬が、何かびしゃりと水音を立てる。水とも違う、柔らかい液体に頬が浸かっている。それが悪臭の正体であると思い至るまでに僅かの間も要らなかった。

 全身に倦怠感が満ちていて、体を起こすことができない。身をひねって緩慢に寝返りを打った。天井を見上げたまま右腕で頬を擦り、天井にかざす。袖が茶色く汚れていた。細かい固形物は昨晩に食べた菓子パンだろう。

 意識が鮮明になるに従って、徐々に昨晩のことを思い出してくる。それと同時に、左腕の痛みもぶり返してきた。情けないうめき声が口から上がる。左腕を抱くように身を丸めて、痛みの大きな波をなんとか耐えしのぐ。

 そのあとで、波と波の間にやっと上体を起こした。手元には、案の定吐瀉物が広がって床を汚していた。口の周りにも、髪にも、着ていたシャツにもべったりと染みついている。酸っぱい臭いが部屋に満ちて、最悪の気分だった。脱いだシャツで髪や口を拭う。溶けかけの白い錠剤がたくさん混じったゲロを踏まないように立ち上がる。眩暈に床が歪み、慌ててテーブルに両手を突いた。左腕の痛みが肩を駆けあがって頭に突き刺さる。呻いて椅子に倒れ込む。幸い転ぶことも、ゲロを踏むこともなかったが、痛くて涙が滲んだ。聞く者もないのに「痛いぃ……」と泣き言が漏れた。

 横目に見たテーブルには救急箱が開かれて、中身が散らかっている。頭を動かすのも億劫で、視線だけ送った左の前腕には、包帯が巻かれている。昨晩に、痛みに急かされながら片手だけで必死に巻いた包帯は、もうほとんどほどけかかっていて、まったく用をなしていない。ただ、もともとは腕の内側に当たっていたはずの一部分を広範に渡って染め上げる赤が、見るからに乾いて、それ以上広がっていかないのだから、当初の目的は達しているものらしい。圧迫止血なんて聞きかじりの知識が、土壇場で思い浮かんだのはラッキーだった。

 どうせもう意味のないことだったから、右手でつまんで包帯をほどく。傷口を露わにする。前腕の内側には、腕と平行に二つ、深々と穴が穿たれて並んでいた。ああ、昨晩のことはやはり夢ではなかったのだな、なんて、改めて思い知らされる。

 コンビニの前で相対した少女は、血を分けてほしいなどと馬鹿げたことを言って、ぼくもまた、馬鹿げた贖罪意識のもとに喜んで応じた。それが昨晩のこと。あのときのぼくはてっきり、くびすじに食らいつかれて、そのまま死んでしまうものだと思っていた。それでいいと思っていた。しかし少女はぼくの腕をとり、その内側に牙を立てたのだ。口を離すと、橋を架けた唾液がぬらりと光った。動脈を傷つけたのか、白々とした蛍光灯の明かりに、鮮血が赤く溢れ出て次々と滴る。少女はぼくの足元に膝をつき、その腕を捧げ持って、大口を開けて溢れ出る血液を受け止めていた。そのときの、幼気とも妖艶ともとれるような歓喜の表情を、上気した頬や突き出された長い舌を、滴る血が舌の上を滑って喉の奥へと流れゆく様を、ぼくは息を呑んで見つめていた。

 あまりに常軌を逸した光景に、ぼくはしばらく痛みを忘れていた。ある種の性を喚起させるような情景に少なからず興奮していたのかも知れない。どれほどそうしていたのか、ちりりとした疼きを覚えた直後には、爆発するように腕から痛みが膨れ上がった。声にならない声を上げ、力任せに腕を引き戻す。少女は執着せず手を離した。口の周りを汚した血液を片腕で拭いながら、その口の端を僅かに吊り上げている。涙に滲んだ視界にも、少女の、堪えきれないといった失笑が見て取れた。

 「また来るから」

 軽薄な口調でそう言い残して、彼女はコンビニに隣接する農道の暗がりに姿を消した。

 大変だったのはそのあとだ。見れば腕からは止めどなく血が溢れ、足元のアスファルトに今にも血溜まりを作ろうとしている。こんなところを誰かに見られたら事件と思われかねない。弱音を吐けば誰かに助けを求めたいような気持ではあったけれど、例えば救急車などを呼んだとして、この傷の説明ができるとは思えない。事実を言っても、言わずに濁しても、医療従事者のお歴々は、妄想が活発だの自傷他害のリスクが高いだのと言って、下手したら精神科病院送りである。それはごめんだった。だから、唇を噛み、それでも漏れる嗚咽は息を止めて抑え込み、自宅へ帰ったのだった。幸いにも、自宅の救急箱の中身は先日に充実させたばかりで、これが役に立った。風邪やちょっとした怪我のときに頼れるひとがいないから、と思って買い揃えたものだったが、まさかこんなことで初めて使うことになろうとは。

 と、ここまでが昨晩のこと。一晩中痛みに苛まれて、買っておいた痛み止めを半分くらい使ったようだけれど、なんとか乗り切った。死んでしまうかと思うほどの苦痛だった。痛みなど関係なしに、ゲロを喉に詰まらせて死んでいたかもしれない。それはいやだなあ。昨晩には死んでもよいと我が身を投げ出しておきながら、そんなことを思った。

 脈動と共に痛みがじんじんと脳にまで響く。夜のうちに飲んだ薬はほとんど吐いてしまっているようだったけれど、腕が重たくてなかなか卓上の薬剤シートにまで手が伸びてゆかない。痛みを消したい、口をゆすぎたい、部屋を掃除したい。したいことは色々あっても、体が動かなかった。疲労感のあまり、吐き気さえも胃の底で重たく燻るばかりで湧き上がってこられないのはありがたかった。もっとも、もう吐き出すものなど残ってはいないだろうけれど。

 どれほどそうして椅子の上に伸びていただろう。また何度か気を失っていたのかも知れない。微睡と言うには淀んだ意識をなんとか繋ぎ留めているうちに、段々と気力を回復してきた。とにかく何かを食べないと。幾分食欲も湧いていて、空腹感のおかげか痛みは微かに薄らいだような気もしていた。ごはんを食べるなら、まずはシャワーを浴びて、床も掃除して、ああその前に傷口を処置しないと。食事という原始的な欲求を目的に据えたことで、脳みそが勝手に段取りを組み立て始める。映画の見よう見まねで、シャツの裾を嚙みながら傷口を消毒して、防水の絆創膏を貼り付けた。上からぐるぐるに医療用のテープを巻いた。そのあとで、脳みその導きのもと重たい体を引きずってあれこれを済ませていく。

 時刻を確認しようというまでに余裕が生まれたのは、あらかたのことを済ませたあとで、買い溜めしていたカップ麺にお湯を注いで、一息ついたときだった。時計を見上げるなんて、いつでもできたのだろうけれど、そうすれば考えなくてはならないことが増えそうで、ここまであえて視界から外していた。午前の十時を回ったところらしい。幾分確かになってきた足取りで一歩ずつ床を踏みしめながら、掃き出しの窓辺に寄ってカーテンを開く。クリーム色の日差しがさっと降り注ぐ。窓を開けると、まだまだ冷たいながらも少し青臭さも感じるような、柔らかな風が吹き込んでくる。室内に凝っていた空気を洗い流していく。遅すぎるくらいだったけれど、夜が明けたのだな、と思った。

 活動を始めると、痛み止めは思いの外しっかりと効いてくれていることに気づく。昨晩は何もかもが異常だった。ただ、痛みは和らいだものの、あれだけ深く牙が突き刺さったのだから当然だが、どうやら筋か腱を傷つけたらしく手先がうまく動かせなかった。利き手だったから、何かと不便が付きまとう。カップ麺を食べようとしたところでその煩わしさは一段と募った。箸を諦めて、フォーク片手に器を傾けて、ほとんど飲むみたいに食べた。

 そのあとで、慌ただしく制服を着て、鞄を背負った。学校へ行くつもりでいた。昼を過ぎたら母親が帰ってくるだろう。お互いに、顔を合わせるのは避けたいはずだ。リビングを振り返り、余計なものが残っていないか確かめる。鎮痛剤の空シートや血塗れの包帯は白いビニール袋にまとめて、ごみ箱に突っ込んだ。まさか中身までは気にするまい。洗濯も済ませた。最後に鼻を傾けて臭いを嗅いでみたけれど、ゲロの臭いが残っているのかはよくわからなかった。しばらく換気をしたのだから、きっと大丈夫だろう。そうしてぼくは家を出る。

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