わがままに見ているだけの手

秋保千代子

わがままに見ているだけの手

「今ご用意します」

 と言って、彼は空のマグカップに手を添えた。その指先から手首までのラインにうっとりしてしまう私は間違いなく変態だろう。

 うるさい、変態で何が悪い。変態であったが故に今は最上級のご褒美を味わえているんだ。


 午後五時、ターミナル駅、改札に向かう人の流れからちょっと外れた場所にあるコーヒーショップ。座席はそこそこに埋まっていたけれど、レジで待っているお客さんは私だけだった。

 後ろに誰もいなくて良かった。急かされることなく、じっくり見ていられる。

 そう心が浮き立った時にちょうど、カウンターの向こうにいる店員さんの指先がコーヒーマシンに触れた。レバーを下に向けるためにくいっと第二関節が曲がる。あー、ときめく。


 この指の持ち主は、朝出勤前にここに寄ると会える店員さんだ。夕方のシフトにも入っているとは思ってなくて、ビックリした。

 ビックリしたけど、嬉しかった。これはクレーム案件に向き合ってきた私へのご褒美に違いない。綺麗な手を見つめる時間をくれた運命の神様、ありがとう。


 そう――手フェチが思わず見惚れるくらい彼の手は綺麗だ。

 最初に惹かれたのはカップに添えられた時のシルエット。ゴツゴツのない滑らかな形に心臓がはねたのを、今でも覚えてる。

 そしてじっと観察したら、部分部分のパーツも素敵だった。

 まず指が長い。最初は大きいなと思っただけだけどよく見たら、手の甲によりも指のほうが長さがあった。節が目立たない、真っ直ぐな指。

 甲にはうっすら静脈が浮いている。すべすべしていて、ちゃんとクリーム塗ってお手入れしてるんだろうなって思う。

 爪はスクエアカット、おそらく表面は磨いているようでつやつやだ。ネイルカラーなどしなくても健康的な薄紅色に、先の先まできちんと気を配っていると溜め息が零れた。

 この手が、私にカフェラテを用意してくれる。受け取る時にドキドキするあまり、私は定期的にネイルサロンに通って、指先をジェルでデコるようになった。


 今日もエスプレッソの湯気の中で指先が輝く。スチームミルクのスイッチを押す動きも早すぎず遅すぎず。フォームもパーフェクト。

 毎回毎回こんなに見つめているけれど、彼自身のことで知っているのはこのコーヒーショップの店員さんだってことだけ。名札はイニシャル、それも一文字で、名字か名前かも分からないけどMだった。

 顔もちゃんと見たことがない。世情もありマスク姿だから、上半分しか分からない。

 ただ、声が若くて早口だから、学生のバイトかなと勝手に思っていた。

 私が出勤前、朝の八時台に寄るともう働いている。いったい何時から店にいるのか、どうやって通ってきているのか。こんなこと、慌ただしい時間に聞いて、ゆっくり話すようなこともできない。そもそも、店員と客がプライベートをべらべら喋らないでしょ?

 それに満足してるし。


 最初はなんとなく、自分で稼いで生活して、ゆとりが出来たことが嬉しくて、コーヒーショップに通うようになった。おしゃれな感覚を味わいたかったのも理由の一つだけど。

 この空間が好きになれた。お気に入りの飲み物、わずかに聞こえるBGM。周囲には思い思いに仕事や勉強に耽る人たち。この中で私もやる気になれる。

 小さな出版社の営業という仕事は、やり甲斐も面倒も同じくらいあるから、職場近くに癒やしの空間があるというのは良いことだと思うんだ。


 ――というのに加えて。この手に会いたいのが最大の理由だ。今まさに目の前で動く手を見つめながら溜め息を吐く。

 コーヒーカップやケーキが乗ったお皿だけじゃない。ピアノもフルートも、書道の筆だって似合いそうな手。

 わがままに見ているだけの手。この手に向ける、私のこの感情は何だろう。

 手しか見ていない。

 他に何も知らない。


 朝たまに寄って、カフェラテを一杯飲むだけの空間。今日だけはご褒美にと夕方に来た。

 それで、期待はしていなかったはずなのに会えた。心臓が騒がしい。神様ほんとうにありがとう。変態、もとい社畜は明日からも働けます。


 クリームを絞る拳の形も、マグカップの外側に零れた雫を拭う動きも美しい。

「お待たせしました」

 音を立てて目の前に置かれるマグカップ。これ以上は見ていられない。

 手を見ているのを知られたくない一心で、私はいつも、最後は顔を上げて目を見つめることにしている。

「ありがとうございます」

 必死に笑って言うと。

「今日は夕方にお越しになってくれたんですね」

 返事があった。思わず変な声が出た。

 カウンターの向こうで彼は朗らかに言う。

「朝寄ってくださることが多いですよね。いつも目を見て御礼を言ってくれるから、覚えています」

 なんてこった。頬が熱くなる。マスクと前髪の間に見える瞳、これもアーモンド型の素敵な形が、笑みを浮かべる。

「またいつでも来てくださいね」

 どくんと心臓が跳ねた。足下の床がなくなって、何かにどぶんと落ちた気がした。

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わがままに見ているだけの手 秋保千代子 @chiyoko_aki

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