ウンコまみれの世界、乗りたくもない観覧車に乗っているあなたへ

『空の下屋根の中』という高卒ニートの女の子が主人公の漫画ですごく印象に残っている台詞がありまして。ようやっと社会に出ることを決意したはイイものの、わたし上手く社会でやっていけるかなという不安をこぼす主人公に対して、主人公の母親が「あんた一人、社会にとってプラスでもマイナスでもないんだから安心しなさい」みたいなことを云うんですよね。

これはまさしくその通りで、世の中の大多数は良くも悪くも社会的にプラスでもマイナスでも何でもない、云わばゼロの地点に属しているのだろうなぁと思います。私は職業柄「自分なんて生きていても何の役にも立たない」とこぼす人にそこそこ出くわすのですが、そういう自称・役立たずのおかげで成立しているお仕事もたくさんあるわけで。広い目で見れば、むしろこの社会でゼロからマイナスに振れることの方が難しいのでは?とか思っていたりします。

さて、主人公の夕紗は不登校の女子高生で、「高校に通うべき」というレールから外れてはいるものの別段誰かにとって有害というわけでもなく、若干巧いこと云えば発進してからどこぞでアップダウンもせず、ただ元いた地点に戻るだけの観覧車よろしく典型的なゼロポイントに位置するタイプの人間と云えます。

で、この作品の凄いところはやはりウンコに目をつけたところだと思っていて。

『推し、燃ゆ』という小説でネタバレもいいところなので経緯は省きますが、主人公の女子高生がブチ切れた挙句綿棒の入ったケースを壁に投げつける、でもってそれを選んだ自分に落胆するというシーンがあるのですよ。モノに当たるほど感情的になっているにもかかわらず、投げる直前「コレだったら被害少なそう」と理性で踏んで、結果綿棒入りのケースという後始末が簡単なものをチョイスしてしまう。そんな振り切れない──今いる地点から「身じろぎ」できない自分に落ち込むわけです。

一方、本作の主人公である夕紗は決して悪人ではないだろう牧子さんにウンコを塗りつけるというそりゃあもう後先を考えていない、万が一関係修復するとしてコレそういう意味での後始末も大変だろうなーとか、そういう諸々一切度外視のアクションを選択します。

思春期の少女がゼロ地点から脱する、脱したいがための「身じろぎ」として、掴んだウンコをなすりつけるという大変エネルギッシュなアクションを採用しているのです。

もちろんなすりつけられた側からしたら堪ったもんじゃないのですが、思春期のなせる身じろぎとウンコを結びつけた上で、解放感のある──なんか清々しい余韻のあるラストに至らしめるセンスは凄まじいの一言。

ぶっちゃけ夕紗がウンコを投げずとも、すでにこの世は誰かのウンコ塗れなのですから、牧子さんと若くないカップルがウンコに塗れたとしても、その「なんか清々しい余韻」を醸し出すための犠牲になったのだと思えば、まあ目瞑っていい範囲なんじゃないですかね(知らんけど)

兎角、今日も今日とて乗りたくもない観覧車に乗っている人におすすめしたい一作でした。云うて、乗りたくもない観覧車も目の付けどころによってはここで余生送ってもいっかなーと思えるレベルで楽しめたりするのですが。

なんようはぎぎょさんの作品は(三作しか読んだことないけど)「特別生きていてほしくはないが、いざ死なれると胸にぽっかり穴が開いた心地になる人間」と「押しつけがましくない生きる活力」に溢れている。

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