無題

なんようはぎぎょ

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 ゴリラは威嚇の時、腹が立った時、その対象にウンコを投げつけるらしい。

 この世の全ては、私がゴリラじゃない事に感謝して然るべきだった。もし私がゴリラだったら学校もクリニックも、駅前からすぐの遊園地じみたこの狭い広場も、全てウンコまみれだ。



 平日の寒い朝で観覧車の客は少なく、待ち時間表示も『0分』だった。乗り口に辿り着くまでに、スタバの偽物みたいなスタンドがあって、牧子さんはホットミルクを二つ買った。

 赤い上着の係員がアルカイックな笑顔で、降りてきたゴンドラのドアを開く。


「ようこそ横区・大観覧車へ! お足元に気を付けてゆっくり乗り込んでください!」


 私は制服のブレザー姿の地味な女で、連れの牧子さんは太ったオバサンだった。ブクブクの身体を白のダウンで更に膨らまし、半端にカールしたショートヘアは頭頂部が薄くなっている。

 牧子さんは、私の腕の関節部をきつく掴んでいた。異様な二人組である私たちに、係員は特に関心を払わなかった。


「すみませんお客さーん、バランス悪いんで、隣同士で座るのはご遠慮いただいてます、二人向かい合って座ってくださーい、はい、そうです、ありがとうございます。それじゃドア閉めまーす20分間の良い空の旅を!」


 地上で流れる音質の悪いBGMが遠のき、上昇が始まった。時折吹く風がドアを叩く。



「夕紗ちゃん。久しぶりね、会えてよかったわ。元気にしていたの?」

「…………うん、はい。何とか」



 この観覧車は一つの定員が四名で、景色は360度良く見える。黄ばんだガラスに囲われた箱で、しかし牧子さんは顔面が大きく太っているので圧迫感があった。私はゆらゆら身体を前後に揺すった。ストレスを感じた時の治らない癖だ。ゴンドラが揺れに合わせてギッギッと軋む。牧子さんは穏やかな笑顔でホットミルクを渡してくれた。安そうな紙カップで、ホイップとカラースプレーが乗っている。


「夕紗ちゃんが退院して以来ね私たち、会うの何年ぶりかしら」

「……一年半経ちました」

「そうなの。時間って早いわね。夕紗ちゃんは高校生になったのね」

「……」


 遠のいていく地上の出発点では、若くないカップルが手を繋いで、女は黄色い風船を手に見上げている。風で髪がなびいた。


「私はね、今でも病棟看護師をやっているの。児童・思春期病棟って関係性が密でしょう。夕紗ちゃんのことは退院してからもずっと覚えていた。いいえ、今まで入院した子達、みんなの事を覚えてる。みんな良い子達だもの」

「……はい」

「今日は偶然オフだったの。気晴らしに駅でお買い物しようと思って、夕紗ちゃんを見つけて、びっくりした。一人でスマホを見ながらトボトボ歩いてて、コートも無い薄着で、寂しそうで」

「そっんなの、余計な世話なんですけど!? 放っといてほしいし何で勝手なこと言うんですか!!」


 ゴンドラが大きく揺れ、自分の声に驚いた。ホットミルクが足元に落ちる。


「そうね、勝手なこと言っちゃった。夕紗ちゃんの時間も邪魔してごめんね。それでも、私はどうしても夕紗ちゃんと二人だけでお話ししたかったの。以前はいっぱい色んなお話をしたじゃない、思い出しちゃって。私のわがままに付き合ってくれて、観覧車もご一緒してくれてありがとう。会えて嬉しいわ」

「…………は」


 駅前で偶然鉢合わせた時は、えらい剣幕で騒がれた。どうしてこんな時間に、学校は、少し一緒に話そう? 大声が嫌で逃げようとしたら腕を掴まれ、牧子さんの靴を思い切り踏んだ。牧子さんは私を観覧車のある広場まで、ほぼ引き摺った。


「あ、見て見て夕紗ちゃん、ビルの谷間に、遠く海が見えるわ」



 ミルクが足元を伝っていく。ゴンドラは上昇を続けた。遠くなる横断歩道、黒い服の通行人、信号、タクシー。駅の西側にはスクランブル交差点が広がる。建物のせいで見晴らしは悪い。


「夕紗ちゃん家のワンちゃん、元気にしてる?」

「あ。……ラブラは元気です。ちょっと太ってきて心配だけど、今35㎏くらい」

「大きいのね」


 ビルの影を抜けると、視界が眩しく焼けた。空の光彩は青白く、背中だけに日光の熱が射す。

 ゴンドラの軋む音、気まずい沈黙が続いた。足元のスピーカーから観光案内が流れて、じきに止まる。背中に冷たい汗が出てくる。


「ね、前みたいに、何でも話してほしいわ。高校入学おめでとう。今は何年生なの?」

「一年です。二回目ですけど」

「そうなの。頑張ってるのね」

「……」


 緊張か高度のせいか視界がたゆんでくる。心がサワサワした。スマートフォンを開くと、SNSでクラスの子がお互いの顔を宣伝しあっていて、動画アプリに移る。拳銃で人を殺した男が、群衆に取り押さえられる様子がリピートした。ズッと鼻を啜る。

 視界の端でビルは低くなり、海が黒く渦を巻く。口が渇いて、不安に気が付いた。慌ててウンコについて考えて気を逸らす。


「夕紗ちゃんの携帯、それは何を見てるの? 何か面白い?」



 滲む世界で牧子さんが笑う。弾けるように、病室の記憶がよぎった。傷だらけの床、白と水色のカーテン、白熱灯と明るい部屋、初冬のベッドの甘ったるい温もり。天井の空調は古く、いつも風が鳴っている。


「……私も、前に拳銃の作り方を調べたんですけど、でも見つけられなかったんです」

「そうなの」

「はい。それに私には、誰を撃てばいいかもわからなくて」


 世界は一見眩しくて、でも私は傷ついていない子供を知らない。どんな美人も明るい子も、必死に武装をして自分の心と身体を守っている。


「夕紗ちゃんは、辛いことがあったのね」

「……はい」

「辛いことは、学校であったのかしら? 行きたくない? でも一人でフラフラしていたら危ないわ。よくこの駅には来ているの?」

「……時々、だけです。横駅近くは平日でも制服の子が多くて、紛れられるし。でも年の近い女のグループとかいると、惨めになるし、……消えたくなる」

「辛いわね」

「はい。……毎日、朝が来るのが怖くて、目覚めなければいいって思ってでも眠れなくて、夜は心が黒く潰れそうになる。学校のこと考えて、でもずっと家にいると、親怒るし」

「学校にいじめや、身の危険を感じる問題はある? 近くに信頼できる、相談できる大人は?」

「頼れる人なんていません」


 牧子さんのダウンが白すぎて眩しく、俯く。通行人が地を這う虫に見えた。足が竦む高低差、背筋を伸ばした防寒服がびっしり駅に蠢く。必死にウンコについて考えた。私はいつでも要領が悪く惨めで、だから常に臨戦態勢で。鞄にジップロック入りのウンコを持ち歩くようになった。それでも一人で、何とどう戦えばいいかわからない。


「学校に、本当は行きたいんです。いじめとか、あるわけじゃない。でも本当に無理で」

「うん」

「クラスにいると悪口言われて、保健室で相談したけど気のせいだとか、気にするなって全然聞いてくれなくてでも凄いずっと言われるんです廊下を歩いてても、トイレにいても、保健室にいても隣のベッドから悪口、私を笑ってて、酷い日は帰りの電車でも家でも部屋でもずっと」

「聞こえるのね」

「遠いからはっきりじゃないけど、いつも言われていつも、怖いし……仲良いはずって子からも臭いとか死ねとか、もう無理なんです」

「そう。……そうなの。ホットミルク、もう一つあるの。良かったら夕紗ちゃんこれ飲んで?」

「ありがとうございます」


 ドロリと飲み込んだ、よく味がしない。牧子さんの瞳の温度が高い。

 足の下でスクランブル交差点が小さくなり、また大きく迫る。去年バズったアイドルのミュージックビデオで使われた人気スポット。夜に駆けろとか駆けるなとか。

 年の近い子がエモーショナルに歌う、性愛とか、将来の夢とか。私は高校に入ったら、ただ学校に行けるようになることだけが夢だった。私の世界は学校と家とSNSで全てだ。

 牧子さんがおずおず切り出す。


「ね、最近も、うちに通院は続けているのかしら。私は病棟内しか知らなくて」

「今、……は転院して、駅前の小さいクリニックに月一で。親が××中央医院は薬が多すぎるって言って、変えました」

「そうなの。今の病院の薬はちゃんと毎日飲めてる? 食事と睡眠は?」

「薬ちゃんと飲んでます、睡眠は時々……食事は大丈夫。牧子さん、井ノ瀬リコちゃんって元気ですか? 前に病室一緒だったんですけど、最近手紙が来なくて」


 病棟は携帯端末が持ち込み禁止で、連絡手段は手紙しか無い。井ノ瀬リコは拒食症状が酷く、チューブに繋がれ痩せこけていた。大部屋と個室を行き来して、たまに同室になってもベッドはカーテンが閉じていて、それでも話ができると誰よりも優しかった。


「リコちゃんは、退院したわ? 元気になった。だから今はもう様子がわからないの」

「嘘です、あれでこんな早く退院できる訳がない」

「でも、…………。リコちゃんは退院したのよ? あの子頑張り屋さんだったでしょう。だから、良くなった」


 牧子さんは返事の前に一度息を飲んだ。唇を舐めて心細そうな、泣く前の子供の顔をした。


「リコちゃん死んだんですか」

「いいえ。元気にしているわ」

「他に誰か死にましたか」

「変なこと言わないで? みんな元気にしている」


 至近距離で見つめ合い、思い出す。私は今、閉鎖空間に二人だけでいる。牧子さんの額は汗ばみ、髪が貼りついている。足元が波打って弛んだ。慌ててウンコについて考えると、異臭が漂いギョッとした。そんなはずはなく、ちゃんとジップロックは閉めている。空気を嗅ぐと仄かにミルクが香る。牧子さんは前のめりに、早口になった。


「息苦しいの? 大丈夫かしら、息を吸ったら、吐くのを意識して」


 しつこく空気を嗅ぐ、また一瞬ウンコの異臭を感じ、信じない為にまた嗅いだ。確認で何度も嗅ぐ。無臭、鳥肌が立った。静謐な冷気が目の奥へ沁み、足元が不快に震える。


「違うんです」


 思考が口から出た。こんな場所で世界が弛んだら、地面に落ちてしまうと思った。ギッギッと軋む音が早くなる。


「違うんです、これ……」

「どうしたのかしら。何かあった? 何か聞こえた? もし良かったら教えて?」

「……あ。で、でも人に、人に言えるようなことじゃなくて」

「そうなの」

「はい…………、もし誰かにバレたら、嫌いになったり、軽蔑するかも」

「いいえ、そんなことないわ? 私はこの仕事、長いのよ? それに誰だって、人に話せないような事、一つや二つ抱えているものよ。人間って綺麗なものじゃないでしょう」

「うん……はいでも、ダメだってわかるんですけど、どうしても、捨てられなくて」

「うん」

「ははじめは、その日に犬のラブラの散歩に行って、でも途中でラブラ忘れて一人で帰って、鞄にウンコだけ、なんですけど、その日はそれその鞄に持ってたら良いことばかりでみんな優しくて誰も怒らなくて。そういえば私入院した時、牧子さんは病棟のファミマ行くの着いて来てくれて、一緒にお茶のおまけのヒヨコの水色探すの一生懸命手伝ってくれてあの時嬉しくて、だから私牧子さんのこと優しくて結構好きだし嫌われたくないし誰にも嫌われたくないし」

「あら。そうなの?」


 牧子さんは何故か嬉しそうにした。


「だから絶対にダメなんです、絶対にばれちゃだめで、駅前で捕まえてくれたのも本当は嬉しかったけど」

「うんうん。うふふ」

「だから……牧子さんにできることは何もないし、だから放っといてください」

「うん……。うーんそれでも、こんな日にそんな服装じゃ、風邪を引いちゃうわ? 平日に制服で盛り場にいると補導されちゃうし」

「じゃあ牧子さんは何がしたいんですか?」

「何って……。だから、少し危ないから、学校は無理に行かなくても良いから、誰か大人に居場所だけ伝えて、あとコートを」

「何言ってんですか?」

「うん……」

「だからウンじゃなくて、さっきから何言ってんですか?」

「うーん、何か変なこと言ったかな、ごめんね、気が付かなかった。教えてくれるかな」


 牧子さんが唇を舐める。現実感が遠くなり、景色の色が抜けていく。


「手放さなきゃいけないっていうのは、わかってるんですちゃんと……本当わかるんです」


 全てが作り物に見えてくる。牧子さんは下手くそに作った磁器のように、鈍く光って傾いている。ギッギッと視界が軋む音。また私は世界から隔離され、今度の箱は寂しく空を飛んでいる。


「でも、じゃあそれじゃ私が手放したら、私からこれを取り上げて、代わりにどうしてくれるんですか。入院したら治るなんてみんな嘘つき。私じゃない人ばかり簡単に死ぬのに、じゃあ牧子さんは何してくれるんですか?」

「絶対に味方でいてあげる」


 色のない唇は真剣に言い切った。


「私は、絶対に夕紗ちゃんの味方よ。何があっても。周りの大人も、本当はそうなのよ。うまい接し方がわからないだけなの」

 ね、呼吸を楽にして、息を吸って吐いて。身体が不自然に動いて、口の影が笑みを作る。

「まずは私を信じて」


 手が差し出された、泡立つように白く揺らぐ肉の塊。私はジップロックのウンコを取り出した。

 手は痙攣した。そして急に甘みを帯びた猫撫で声が出てきて、白さが揺れる。


「あらぁ夕紗ちゃん、それは何かしら? ね、危ないから体を揺するの少し辞められる? 落ち着いて良い子だから。あ、そうだあのねクッキー、クッキー食べる? 無印良品の、私持ち歩いてるの、美味しいのよ?」


 頬から口で嘲笑い、牧子さんは肩掛けのバッグを漁りはじめた。冷たい汗が出て、すっと視界が暗くなる。私は自分が今、失望したのを自覚した。

 臭いの粒子が宙に飛んで見え、唾が飛ぶ。アラァオチツイテ? ナニカシラ?

 ジップロックから手に出して眺めた、光る粒子を放つ。いつの間にか古くなり、色は濃く表面は砂っぽい。

 牧子さんが馬鹿みたいにニコニコして、瞳で覗き込む。私は手の中のウンコを塗りつけた。パラパラと一部崩れ膝に落ち、残りはべっとりと付着した。力強い臭いがある。


 牧子さんは瞬いた。ゆっくりした動作で片手を使って顔を拭い、口をわななかせ変な小声を出した。

 それからクシャリと顔を歪め、押し殺した異様な声を上げて泣いた。演技じみて幼い、庇護者を求める泣き方だった。

 私は呆気にとられた。『絶対に味方』の牧子さんが、大きな大人のオバサンが、クシャクシャにぐずって小刻みに震えている。遠かった視界がガクンと急に元に戻り、機械音が入ってくる。あたりが暗くなり、音を立てて扉が開く。


「はい、20分の空の旅! お疲れさまでしたー! 足元に気を付けてお降りくださーい」



 冷気が一気になだれ込んで全身を包まれ、息を吐いた。地上で流れるBGM、錆びたメリーゴーランドの回る音楽。アルカイックスマイルの係員が手を振り、促されて降り立つ。地面はしっかりと、弛まずに私を支えた。


「はいすみませんお客さん、お母さん! お母さんも降りてくださーい、もう一周しちゃいますんで、大丈夫ですかー、降りてくださーい」



 雑踏、機械音、広場の時計塔の録音の鐘の音。ドリンクスタンドから人の嘲笑う声がする。呼吸は次々と白く変わった。いつもの温度、風が強い。今なら遠くまでくっきり見渡せそうなほど、空気は冷たく澄んでいる。


「お母さーん早く降りてくださーい」


 正しい地面との距離感、重力、笑い声。世界は薄暗く、私一人が放り出されても何も変わらずに、ゆっくりと回転を続ける。

 いくつか後のゴンドラから、風船を持った若くないカップルが降りてきて手を繋ぎ、少し外れで呆然と立つ私を、幸せそうに嘲笑った。私はジップロックからもう一つウンコを取り出して近づき、無言で男の腰に擦り付けた。

 カップルは呆然とした。男は何が起こったか気づかないかのように口を手で覆い、ただ女と顔を見合わせて瞬く。黄色い風船が揺れる。

 唐突に、ルールに気が付いた。クラスでも世界のどこでも、人が人を傷つけて、それでもやられてやり返す人なんて、今まで一度も見たことが無かった。

 遠くで女の叫ぶ声がする。


「なんだ。こんな簡単な事だったんだ……。ゴリラはわかってるなんて、凄いな」


 思考が口から出て、それから自分の薄着に気が付いた。手が汚れたし寒いし、早く帰ってラブラにお礼を言おうと思った。それから、明日は学校に行こうと思った。

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