書かないという表現

初めて読了したときの感想は「これはいつの時代のお話なのだろう」でした。

これは、文体や言葉選びが特別古式ゆかしいからそう思ったとかそういう意味ではなく。「アイドル」という単語が用いられているあたり舞台は現代(云うまでもないとは思いますが、この「現代」は日本史で云うところの時代区分をかっちり意識した「現代」ではなく、もっとふわっとした意味で用いております)なのでしょうが──何せ判断材料が少ないのです。

タイトルにある貞淑な姉に名前はなく、彼女は"僕"の姉であり、息子・忠志の母でしかありません。

こういう作品を読む度、私は小説という文字媒体が持つ本来──と云っても過言ではないかもしれない強みってコレだよなぁなどと思ってしまうわけでして。

結局、判断材料が少ないと何が起きるかというと、読者は作中から読み取れる情報によって登場人物の外見を構築し、物語を進行させるほかありません(無論いたずらに材料を減らせば良くなるなどという簡単な話ではなく、判断材料の取捨選択が難しいとわかっているからこそ、こうしてこの作品を推しておるわけですが)。

だから、当然この作品は読む人によって"僕"や姉の容姿が異なってくると思います。読んだ人の数だけ違った姿があると思います。冒頭で「これはいつの時代のお話なのだろう」と書きましたが、時代背景を明確に決定づける判断材料に欠ける以上、これまた読んだ人の数だけ異なる時代が流れているのではないでしょうか。

単純に総文字数1,404というスリム感も魅力の一つだと思うので、ぜひ実際に目を通してもらって小説が持つひとつの強みを味わっていただきたく。

最後に。あのとき"僕"の口をついて出たあの言葉は、物語に寄り添う読者を内心ひやりとさせるものであったと思うのですが、姉にとっては──彼女が息子を叱責しなかった(あるいはできなかった)理由に思いを馳せれば、決して残酷に響くだけのそれではなかったように思うのです。