第9話
あたしはリリに憧れている。
だからリリの側にいられるのが、嬉しかった。
指を動かす。
鍵盤の音が鳴った。
ド。
レ。
ミ。
ファ。
ソ。
ラ。
シ。
ド。
デタラメな曲を、その気になった気がして両手で弾いてみる。リリが隣でそれを見ている。そして、一緒に鍵盤に触れ始めた。
ド。
レ。
ミ。
ファ。
ソ。
ラ。
シ。
ド。
それは滅茶苦茶な演奏だった。
けれど、一緒にピアノを弾けていることが嬉しくて、あたしとリリはデタラメな曲を弾いた。
どこか外れて、どこか鋭くて、どこか凹んでて、速くて、遅くて、このとんでもない曲はなんて曲?
ピアノはあたしとリリの遊び道具だった。
おかしな音を弾いては笑って、リリの笑い声がくすぐったくて、いつも楽しくて、いつもリリが側にいて、ああ、リリ。青い目が綺麗なリリ。笑顔が可愛いリリ。リリ、リリ、リリ、リリ、あたし、
リリ、
出会いたくなかったよ。
「ココ」
目を覚ましてしまった。
あたしはまた現実に戻ってしまったらしい。
「ココ」
リリがあたしの手首に触れた。そこには包帯が巻かれていた。それを見て……あたしは自分のしたことをよく思い出した。
「……出ていかなかったの……?」
「出ていってほしかったの?」
「自由に……なれたのに……」
リリがあたしの手首を強く握った。傷口が開いた痛みに、あたしは目を見開いた。
「いっ!!」
「そんな自由いらない」
「いたっ、リリ、待って、痛い!」
「違うでしょ? ココ。傷つけるのは自分じゃなくて、私でしょ」
「痛いっ! 痛い!!」
「手首なんか切って死のうとしたって無駄なんだよ! ココが私にしたことはココがいなくなったってずっと残り続けるんだから!」
「リリ、ごめん、痛い、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「ココは責任取って私を大切にしないと駄目でしょ! 愛してるからこそ自分じゃなくて、私の手首を切って、怖がらせて、繋ぎ止めておくの! それくらいするの!」
「痛い!! 痛い、リリ!!」
「なんで愛してくれないの!? ココが私を誘拐したんだよ!? 独り占めしたいならどうしてもっと独り占めしないの!? 私にはココしかいないんだよ!? ココが責任持ってちゃんと私を管理してくれないと、私、本当に出ていくことになるんだからね!!」
「出ていってほしかったの!!!」
――リリが黙った。
「……リリが……大切だから……あたし……」
せめて、リリには
「幸せになってもらいたくて」
合唱コンクールでピアノを弾く人が必要だったらしい。
「ココ、やれば?」
「えっ」
「ねー!」
カースト一軍の学級委員長に、アオイちゃんが手を挙げた。
「ココ、ピアノ弾けるよ」
「えー! 本当!?」
「藤宮さん、お願いしていーい!?」
一時期、保育士を目指していた時に練習していたのをアオイちゃんが見ていたから、そんな提案をしたのだろう。
でも、あたしは……。
「ココ」
アオイちゃんが足を組んで、隣の席からあたしを見ていた。
「出来るならやらないと、勿体ないよ」
「……でも、あたし……上手くないよ」
「弾けるでしょ?」
「そりゃ、楽譜あれば……弾けると思うけど……」
「よし、じゃあクラスに貢献してもらおうかね。そんな暗い顔しない!」
「あだっ」
アオイちゃんがあたしの背中を叩いた。
「ココは器用貧乏なんだよ。頭も良いし、何でもできるのに、何もできないみたいな顔してさ、良くないよ! そういうの!」
あたしは何もできないよ。ピアノは、家にあったキーボードで練習してたから弾けるだけであって、上手くないし、本当に弾けるだけ。
「せっかくの特技なんだから、活用しようよ。ココ」
「……うん。……そうだね……」
特技であるのかすらわからない。
保育士はピアノが弾けたほうがいいって聞いたから練習しただけ。
でも確かに……就職の面接でアピールポイントとかになるかもしれない。
(結果を残せれば……就活の時に使えるんだろうけどな……)
賞を取ればいいのだ。
簡単な話ではない。
(……あたしには、無理だよ)
アルバイトから帰宅して、あたしは寝ようと思って部屋に行こうと歩き出すと……地下倉庫に向かっていた。眠ってたキーボードを取り出してみる。
(……)
音量を下げて、合唱コンクールで歌う楽譜を設置し、鍵盤を弾き始めた。
(……あ、いけそう)
少し練習してみる。
(……弾ける)
時計を見る。もう夜中の3時だった。
「うわ、やだ!」
あたしは慌てて部屋に戻った。
キーボードとピアノは感触が違うから、昼休みに第3音楽室のピアノを弾かせてもらいたいと、先生に許可を取りに行った。
「他の人と順番にね。今日はあなた以外来てないから使っていいよ」
「ありがとうございます」
こんなことしても無駄なのに。
わかってるのに。
でも、早めに練習しておけば、誰よりも上手くなれる気がした。
(あっ、いたっ)
手を押さえる。指が吊った。
(まだ、時間ある)
昼休みのギリギリまであたしはピアノを弾いた。次の日も弾いた。その次の日から、音楽の時間は合唱コンクールの練習に当てられた。あたしは緊張したままピアノを弾く。綺麗な歌声が音楽室に響く。指揮者係の子がダメ出しをする。ピアノに関しては何も言われない。努力しても何も言われない。上手いとも頑張ったねとも、ダメ出しもない。ただ誰かが弾いてくれさえすればいいだけの役。
あたしじゃない誰かでも大丈夫な役。
わかってたけど、なぜか、胸が期待していた。
もしかしたら、ひょっとするようなことがあって、あたしのクラスが賞を取って、例えば、ピアノの賞を取ることができれば、この劣等感が少しでも薄まるんじゃないかとか。あたしは神様に、今この時、ピアノを頑張れば幸せをくださるんじゃないかとか。
何もないことはわかってる。本当にわかってる。でも、それでもやっぱり何かを諦めることが出来なくて、あたしは……昼休みの練習を怠らなかった。
「さやかちゃんってピアノも弾けて歌も上手くてすごくない?」
「合唱コンクールでピアノやればよかったのに!」
気にしない。あたしは誰も来ない第3音楽室でピアノを弾く。
「この後プリ取りに行こ?」
「行くー!」
掃除の後は、あたしは誰も来ない第3音楽室でピアノを弾いた。
「ココ」
部活中のアオイちゃんが様子を見に来た。手にはペットボトルを持ってる。
「お疲れ」
「え……あ……ありがとう」
ジュースを受け取ると、アオイちゃんがジュースを飲んで、あたしも飲む。
「この後バイト?」
「うん。バイト」
「偉いね」
「お金……貯めておきたいから」
「何時から?」
「最近は18時からにしてる」
「ココさ」
「うん?」
「自分に自信持った方がいいよ」
顔を上げると、アオイちゃんは窓を見ていた。
「テストはいつも95点以上。体育も出来る。体力もある。ピアノも弾ける。本も何冊も読める。料理も上手くて、掃除も早い。ね、ココは優秀だよ。オールマイティに動ける滅多にいないタイプの人間だよ。私からしたらさ、そんなココが、なんでいつも俯いて歩いてるのかがわかんないんだよ」
あたしは少しだけ口角を上げた。
「アオイちゃんは優しいね」
「いや、事実だから」
「優秀なんかじゃないよ。上にはもっと上がいる」
リリがいる。
「……あたし、……なんだろうね。なんていうか……昔はもっと、自信があったんだ。自信っていうか……何も考えてなかったのかなって。胸を張って、一人の人間として動いてた気がするんだけど……どうしてかな」
優秀で、天才なリリを見ている時間が長かったせいだろうか。
「あたしがどれだけ努力しても、上には上がいて、それに追いつくことはないって。人と比べる事自体おかしいことなんだけど、でも、でもさ? 人って……比べたがるでしょ?」
「比べたって無駄だよ。他所は他所なんだから」
「うん。だからね、あたしはアオイちゃんの、そういうサッパリしてるところが大好きなんだ。いつも本当に羨ましいなって思うの。あたしもアオイちゃんみたく輝いてたらなって思うの。でも、あたしはあたしで、アオイちゃんはアオイちゃんで、わかってるんだ。でもね、どうしても思っちゃうの。良くないよね。わかってるんだ。でも、うん。でも……」
ペットボトルの水滴が落ちた。窓から野球部の声が聞こえる。アオイちゃんがあたしの背後に周り……肩を叩いた。
「はい! 顔上げる!」
「あだっ」
「ココはココ。他所は他所! ココはさ、やっぱり頭良いんだよ。私の見えないところまで見えちゃってるんだって。ほら、優秀な人によくあるやつ!」
「そ、そうなの?」
「到底私みたいな小物には見えないところまでココは見据えてるんだよ。天才じゃん」
「そんなことないよ」
「ココ、もう少し自信持ちなって。せめて、ピアノくらいは楽しくやりなよ」
アオイちゃんがあたしの隣りに無理矢理座ってきた。
「こういうのはね、デタラメでいいんだよ!」
アオイちゃんがデタラメな曲を弾いた。そして、あたしを見る。あたしはデタラメな曲を弾いた。アオイちゃんも一緒にデタラメな曲を弾き始めた。あたしはふっと笑って、アオイちゃんと曲とも言えないような音楽を奏で始めた。その瞬間、久しぶりに『楽しい』という感情が沸き起こった気がした。
アオイちゃんがふざけるから、あたしもふざける。でもそれをアオイちゃんは許してくれるから、あたしも笑いながらふざけた。
誰も来ない音楽室からデタラメな曲が響く。その中には、あたしとアオイちゃんの笑い声も混ざっていた。
鍵盤を弾く。楽しい。
デタラメな曲を弾く。楽しい。
隣を見る。アオイちゃんがいる。
それは滅茶苦茶な演奏だった。
けれど、一緒にピアノを弾けていることが嬉しくて、あたしとアオイちゃんはデタラメな曲を弾いた。
どこか外れて、どこか鋭くて、どこか凹んでて、速くて、遅くて、このとんでもない曲はなんて曲?
知らない。
あたし達は楽しく過ごすだけ。
「何その音!!」
「アオイちゃんこそ!」
「「あはははは!!」」
音楽室に、笑い声が響く。
違うよ。
その席はその女のものじゃない。
そこは私の席。
ココ。
なんで笑ってるの?
私以外に、なんでそんな風に笑ってるの?
ココ。
そこは、
私の席だよ。
ココが笑顔を向けていいのは、
「私だけでしょ?」
合唱コンクール当日。
リハーサルで30分だけ音楽室を使わせてもらえるので、クラスの皆で移動した。
(やばい……緊張してきた……)
「ココ、顔青いけど大丈夫?」
「すごく緊張してる……」
「大丈夫だよ。失敗してもちょちょって誤魔化せばいいんだから」
「簡単に言ってくれるよね……」
あたしとアオイちゃんが音楽室に入った。音楽室に移動していたクラスメイトは準備をしていた。その中で、カースト一軍がピアノに囲んでいた。
「猫踏んじゃったなら私弾けるよ!」
「リリは?」
「私もそんなに上手くないけど」
あたしははっとした。思わず、足が止まった。アオイちゃんが振り返った。
「ココ?」
リリが椅子に座った。
「これくらいなら」
それは――長年ピアノを習っていたリリの実力だった。アニメの曲、ドラマの曲、皆が知ってそうな曲を軽々と、プロのクオリティで響かせた。その音は勿論あたしの耳にも入ってきて、目はリリから離れず、クラスメイト全員がリリとピアノに夢中になった。
そして、リリの指が――ピアノから離れた。
「……こんな感じかな! あはは!」
「やばーーーー!!!」
クラスメイトほぼ全員がリリに拍手をした。あたしはピアノを弾いても誰にも相手にされなかった。拍手もされなかった。リリはされた。クオリティが違いすぎる。
「何今の! やば!」
「リリ、やばすぎ!!」
言われた。
「リリがピアノやれば良かったのに!」
――アオイちゃんが机を蹴った。拍手が止まった。
「あのさ」
アオイちゃんがリリ達を睨んだ。
「その発言はないんじゃない?」
「あ……」
「あーーー……ごめんね! 藤宮さん! 今の発言は良くなかったわ!」
「反省しなー!」
「まじでごめんね!」
「そろそろ先生来るかもね」
リリが笑顔でピアノから離れた。
「ココ、どうぞ」
「……ありがとう……」
「ココ」
「ありがとう、アオイちゃん」
小さく呟く。
「大丈夫だよ」
リリが座っていた椅子にあたしは座った。先生が来た。合唱コンクールの練習が始まった。あたしはピアノを弾く。皆が歌い出す。いつも通りの演奏。だけど、なぜだろう。違う気がする。鍵盤の弾き方。音の鳴らし方。わかってる。リリの方が上なのはわかってる。他所は他所。あたしはあたし。
だけど、
(違う、こうじゃない……)
指が震える。
(違う……違う……!)
自分の実力不足を目の当たりにしてしまった。
(どうしよう、もう本番なのに、練習、ああ、足りなかった、どうしよう……! どうしよう……!)
「よーし、じゃあ移動始めるぞー」
「あー、緊張してきたー!」
「頑張ろー!」
(どうしよう……、どうしよう……)
「ココ」
アオイちゃんがあたしの背中をさすった。
「大丈夫だから」
(あたし、やっぱり無理だったんだ……。背伸びしようとして……あたし……馬鹿だったんだ……)
「大丈夫、大丈夫。リラックス」
(どうしよう……。どうしよう……)
合唱コンクールのオープニングが始まり、他のクラスが歌い始める。
(考えたって仕方ない……。今のあたしでやるしかない……)
リリの音が頭から離れない。
「次のクラスの方は、移動をお願いします」
「あー、やばー!」
「やばい! やばい! 超緊張する!」
「大丈夫だよ」
リリが笑顔を浮かべる。
「今までいっぱい練習してきたんだもん。一番良いもの出そうね!」
皆が並び、あたしは椅子に座った。指揮者のクラスメイトが腕を上げたのを見て、ピアノを弾き始める。練習通り。歌声が響く。だけど、もう、あたしの手は……覚えた通りに動いただけだった。
(下手くそ、下手くそ、下手くそ)
リリの音が頭から離れない。
(下手くそ、下手くそ、下手くそ……)
演奏が終わった。拍手が鳴り響いた。
(終わった)
一礼をして、席に戻っていく。カースト一軍の子があたしの腕をつまんできた。
「……藤宮さん、さっき、本当にごめんね」
「え?」
「ピアノ、リリがやれば良かったのにって言っちゃって。演奏すごく良かった」
(ああ)
この子、優しい子なんだ。
「全然大丈夫だよ」
「まじごめんね!」
席に戻ると、アオイちゃんがあたしの耳に囁いた。
「めちゃくちゃ良かったよ」
アオイちゃんは優しいから。
「それでは、発表します。銅賞!」
呼ばれたクラスが歓喜の声を上げた。
「続いて銀賞!」
呼ばれたクラスが歓喜の声を上げた。
「そしてー! 輝く金賞は……!」
あたしのクラスが呼ばれ、みんなが歓喜の声を上げた。
「きゃー!!」
「やったー!!」
「うぇーい!!」
「クラスの代表者は後でトロフィーを受け取りに来てください。続いて、パフォーマンス賞です」
様々な賞を個人の生徒が取っていく。
「続いて、ピアノ演奏賞」
あたしは――渦巻く葛藤の中、その瞬間だけは耳をすませた。
クラスが呼ばれた。
「一ノ瀬はるかさん! おめでとうございまーす!」
一ノ瀬という生徒が嬉しそうに笑いながら前方に走っていく。トロフィーを受け取り、嬉しそうにクラスメイト達と笑い合った。あたしはそれを見て、思った。
やっぱり、現実はそんなものだよね。
いくら練習したって、上には上がいる。
リリなら賞を取れたんだろうな。
あたし、何やっても駄目だな。
本当に駄目だな。
「ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」
「え、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
あたしは体育館から出た。
「続いて、審査員特別演奏賞の発表です」
クラスが呼ばれた。
「藤宮ココさん、おめでとうございまーす!」
「あれ!?」
「藤宮さんは!?」
「藤宮……?」
五十嵐君が周辺を見回している間に、アオイちゃんが廊下に走った。
「ココ!!」
あたしは、以前子猫を世話していた――誰もいなくなった中庭で、空を眺めていた。雲の動きを目で追いかけながら、あたしは、笑った。
「あたし」
顔を上げても、
「やっぱり、駄目だ」
また、俯いた。
「……あたし、本当に馬鹿だった」
「昔から、駄目で、愚図で、救いようがない」
「どうしてリリにあんなことしたのか、今でも……あまり……本当に……衝動でやったんだなってくらい……記憶も曖昧で……」
「あたし、本当に駄目な奴だね」
「リリは、良い子なのに」
「あたしが……」
「だから……」
「あたし……」
「あたしさえ……いなくなっちゃえば……全部……」
「そんなの許さない」
リリが首に噛み付いてきた。痛い。
「いぃっ!」
「ココまで来て、後戻りなんか出来ないよ。ココ」
まつ毛がつくんじゃないかと思う距離まで来た青い目が、あたしを見つめてくる。
「リリッ……」
「もっと私を愛して」
「リリ、怖い」
「私のことだけ考えて」
「リリ」
「縄で縛って」
「そんな」
「私がココの言うこと聞くようになるまで殴って、蹴って、乱暴するの。そしたら心が壊れる。私はココに従うしか出来ない未来が訪れる」
「何言ってるの……!?」
「素敵でしょう?」
「リリ」
「叩いて。ココ」
「リリ!」
「私の心が壊れるくらい愛して!!」
「リリ、お願い、落ちつい……」
「全然足りない!! ココはいつだって中途半端で、曖昧で、だから結果に結びつかないんだってわかんないの!?」
「……っっ……!!」
「せっかく私を独り占め出来るのに、なんでいなくなろうとするの!? そんなのおかしい!! 酷いよ!! 無責任だよ!!」
「ごめんなさい、あたし、ごめんなさ……」
「自殺したら絶対許さない!! ココのこと呪うから!! 嫌いになるから!!」
「ん……、ん……っ……!」
「わかったなら叩いて。殴って。包丁で切ってもいい」
「リリ……!」
「ココ、ほら、早く。もっと、乱暴に」
私のこと独占して。
「私のこと、もっと愛して」
ココが、優しい手つきで頬に触れて、私の唇に優しくキスをしてきた。
乾燥して荒れた唇に触れられると、私の心臓がおかしくなった。跳ね跳んで、高鳴って、ブルブル震えだして、鼓動が激しくなる。
ココの優しい手が、また優しく私に離れる。頭、腕、手を握りしめられて、頬を撫でられて、優しく優しく……また、キスを繰り返す。
柔らかい。
温かい。
冷たい。
なのに温かい。
優しい。
愛を感じる。
ココ。
もっと。
ココ、
ココ。
ココ……。
――何よりも美しい闇に染まった黒い目が――私だけを見つめてくる。ココが私を見てる。私だけを見てる。ココに見られてる。心臓がまた飛び跳ねる。苦しい。大好きなココに見られて、息が止まりそうになる。私の視界にはココしか映らない。ココしか見えない。ココしか見たくない。ココだけ。そんなココに見られてる。見つめられてる。綺麗なおめめ。ココの唇。ココの温もり。ココ。
ココ。
「……ごめんね。リリ。不安になっちゃったんだね」
ココに優しく抱きしめられる。
「あたしのせいだね。……ごめんね」
もっと強く抱きしめて。
もっと強く求めて。
ココの優しさがいじらしい。
なのに、どうしても……ときめいてしまう。
「あたし……リリが側にいてくれるだけで嬉しいよ。本当だよ? リリがね、すごく……大切なんだ」
ココの声が、私の体の奥まで響いてくる。
「乱暴なんてしたくない。リリが壊れちゃうこと、したくない」
だから、壊れ物のように、優しく私を抱きしめてくる。
「あたし、ね、リリ、……リリのこと、リリが思ってる以上に、大好きなんだよ? あたし、最近ね……本当に……リリのことずっと考えてるの。夢にね、ずっと、リリが出てくるんだ。小さい時のだけど、でも、リリはね、本当にいつも可愛いんだ。いつも、ココって、明るい声で、呼んでくれるの。あたし、それが本当に嬉しくて……」
私の背中を撫でていく。
「リリは傷つきやすいから……もっと……大切にしなきゃ……駄目だったね。ごめんね。あたし……本当に駄目だね……」
優しいココの手で、私は溶かされていく。
「リリ、大好きだよ」
満たされる。
でもすぐに足りなくなる。
もっと言ってほしくなる。
ココの声が好き。
ココの言葉が好き。
ココのことを考えたら、止まらなくなる。
だから、ココに笑みを浮かべる。
「……私も大好きだよ。ココ」
「……リリは、本当に優しいね。……ありがとう。……血だらけで倒れてて、怖かったよね。ごめんね」
「うん。怖かった。だからね、ココ」
「あっ」
ココをベッドに閉じ込める。
「安心させて」
「リリ……んっ」
こんな甘さじゃ足りない。
もっと濃厚なのがいい。
「ココ、可愛い。大好きだよ。ココの全部が好き」
「っ、……あっ……、っ、リリ……」
私はココの全部が欲しい。でもココはそうじゃない。私を愛してると言いながら、私の意志を尊重しようとする。
それじゃあ駄目。
もっと我儘になって。
もっと私を縛って。
もっと私を愛して。
もっと私を捕まえて。
もっと私に酷いことして。
こんな風に。
「あっ!」
ココの首元は傷だらけ。
「リリッ……!」
痛みに耐えるココの顔も、すごく可愛い。
「んっ……! んぅ……!!」
包帯に血が滲む。あとで取り替えてあげるね。
「リリ……あっ……ぐっ……ふぅ……!」
涙を流すココは、見たことがない宝石みたいに綺麗。見惚れて、しばらく動けなくなって、もっと見たいと思って、ココの服を乱暴に脱がした。
「ひぅっ……!」
ココが一瞬怯えた声を出してきたから、私は優しい手でココの肌をなぞるの。
「ん……あ……リリ……くすぐっ……たい、よ……」
そして思い切りつねるの。
「いたっ」
ここも。
「痛い」
噛みつくよ。
「リリ、痛い」
爪を立てるよ。
「痛い、いたっ……」
それでもココは、私を大切に抱きしめて、大切に名前を呼んで、――優しく撫でるの。
違う。それじゃあ足りないの。全然――足りないの!!
「あっ……」
もっと求めて。
「リリ……あっ……」
足りないの。愛が全然足りない。
「んっ……リリ……っ……」
私がココを必死に求めているように、ココも私を求めて求めて求めて求めて何度も何度も乱暴に横暴にもっと求めてくれないと、私、おかしくなりそう。私は激しいくらいココに愛されたい。でもココはあり得ないくらい優しくて、とても繊細で、脆くて、すぐに崩れそうで、なのに私を優しく抱きしめて、愛してるって言うの。どうして焦らすの? 私はココのものになりたいのに。全部を捧げる準備ができてるのに。ココは優しすぎる。もっと求めてほしいのに、ココは私を手の平で踊らせてしまう。それが嫌なの。だから私が怒りだせば、発狂すれば、そしたらココは優しい声で、私を一気に押さえてくるの。
「大切にしたいの。リリ」
「傷付けたくないよ」
「可愛い」
「やっぱり美人だね。リリは」
「リリ」
「……大好きだよ……。リリ……」
結局、負けるのはいつだって私。
ココに勝てたことなんて、人生で一度もない。
ココはいつだって努力家で、
ココはいつだって前向きで、
ココはいつだって諦めなくて、
ココはいつだって未来を見ていて、
ココはいつだって、一人で立ち上がる。
私にはお父さんとお母さんがいる。お爺ちゃんもお婆ちゃんもいる。
ココは一人だ。父親は父親ではない。だから一人で生きてきた。前向きに、努力を続け、器用で、そつなくこなし、常に新しいものを追い求め、私が見つける頃には既にここが見つけてる。追いつくのが大変だよ。ココ。
ココが何もできない、無能な人間だったら良かったのに。
どうして優秀なの?
どうしてそんなに頭がいいの?
どうしてそんなに器用なの?
なのに、どうして努力を続けるの?
私がへし折っても、へし折っても、壊しても、壊し尽くしても、どうして何度も立ち上がろうとするの?
「リリ……」
どうしていつも優しくて、温かいの?
「大丈夫。……あたし……側にいるよ」
ココの言葉で息が止まる。ココに囁かれたら、耳が熱くなる。ココに見つめられたら、もう、私……もう……おかしくなっちゃう……。
「……っ……リリ……っ!」
頭の天辺から足の爪先。その中の中の中の中の一番奥の底まで、私はココのものになりたい。ココに独占してほしい。ココに求められたい。やめて。溶かさないで。甘い言葉を囁かないで。もっと酷くして。もっと激しくして。もっと求めて。もっと言って。
「リリ、好き……」
心臓が飛び跳ねる。
「リリ……大好き……」
ココ、私も大好き。ココのことしか考えられないの。ココのことばかりなの。おかしくなりそうなの。ココが私をどうにかしてしまうの。だからもっと愛して。もっと好きって言って。私がココに飽きてしまうくらい言って。どうして毎日違う顔のココが出てくるの? どうして毎日私を惚れさせようとしてくるの? ココ、ねえ、ココ。愛してる。大好き。もうココのことしか考えられないの。ねえ、助けて。ココのことが好きすぎてどうにかなってしまいそうなの。お願い。そんな風に優しく抱きしめないで。もっと痛くして。ココに支配されたいの。ココに求められたいの。愛してる。ココ。もっと言って。もっと求めて。ココ。ねえ、ココったら……。
「リリ……」
甘い声が耳に入るたびにとろけていく。
ベッドから、ココの服が落ちた。
「……」
眠るココを見ながら、ココのスマートフォンから連絡してみる。すると、相手が電話に出た。
「……あ、おじいちゃん? リリだよ。元気? ……そっか。そっか。お父さんとお母さんは? ……あー。じゃあ順調なんだね。ううん。私は今、ほら、連絡取ったら、警察にバレちゃうから。うん。あー。監視カメラは心配ないよ。お父さんが回収してくれてると思う」
……。
「そうだね。そろそろ行く。うん。明日出るよ。お金もとりあえず……うん。全然足りるから。それで行く。髪の毛染めればバレないでしょ。うん。だよね。わかった。うん。ココ連れて行く。……今寝ちゃってて。うん。伝えておく。ありがとう」
通話を終え、スマートフォンを弄る。あの女からチャットが来てた。あたしは画面をタップする。チャットを確認する。
『ココ、なんで既読スルーするの?』
『心配だよ』
『せめて返事してくれないかな?』
メッセージを見つめる。そして、そのタイミングで、チャットが送られた。
『宇南山だろ』
返事はしない。笑みを浮かべて眺めるだけ。
『今どこにいる』
私はつい、声を出して笑った。負け犬の遠吠えはとても楽しい。
『ココはどこだよ』
無駄だよ。お前は病院から出られない。
『答えろよ』
着信が来た。マナーモードには誰も気付かない。
『よくも背中を押してくれたな』
『覚悟しとけよ』
『警察に全部言ってやるから』
言えば?
どうせ明日にはもうここにいない。
『ココを返して』
とてもいい気分になった私は、スマートフォンを見るのをやめて、愛しいココに寄り添った。
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