【おまけ2】なんと「四人称」が存在する

 アイヌ語や北米アルゴンギン族(余談だが拙著『ベルダーシュの勇者』の主人公ロインもアルゴンギン族の部族だ)には「四人称」が存在する。つまり私、あなた、彼・彼女以外に人称が存在するわけ。


 義父とか義母が他人の「三人称」にはならない。そんな言語がそれも北米とあろうことかアイヌ語……つまり日本国内に存在したわけ。なんとそんな貴重な言語を我々日本人は「土人」と称して言語ごと抹殺したのです。恥を知れって思いますね。義父・義母は魂の片割れとされたので「他人」じゃないのです。


 (※「旧土人法」と言って戦後も法律からしてアイヌ人は差別されていました。この創作論はアイヌ系の方々を差別するために書かれているのではなくそういう歴史がありましたよ、という意味で書いてます)


 じゃー「四人称」文学ってあるのかって事になるのですがあるんです。横光利一『機械』というものがございます。なんとこれが「神人称」文学と言われているものです。でも古代の人や民族叙事詩を語っている者からするとそんなもん日常で読んでるよということになるのです。新感覚派と呼ばれる文学は近代社会を生きて来た人間にとって「新感覚」なだけで、非欧米圏ではそんなものは新感覚でも何でもなかったのです。『機械』は1930(昭和10)年の作品ですからもう昭和に入るころになると一人称・三人称絶対主義に落ちていたことがわかります。


 我が国はそういう貴重な表現を殺してしまったのです。


 本当に「一人称」や「三人称」は正しいのでしょうか。みんなでよくお考え下さい。


 なぜならこの「四人称」とはまさに「AI社会」の事を言うからです。AIから見た人称ということで有効です。横光利一先生は作品の登場が100年も早かったのです。


 勘違いしてほしくないのは「HAL9000」(2001年宇宙の旅)のような人間臭いAIでは「四人称」にはなりえないことです。「四人称」は神か神に近いものでなければなりません。


 そうなんだ。なぜ四人称が消えてしまったのか。それは機械・AIを「擬人化」してしまったからなんだ。でももうそろそろ「AI」というものは神と同等に近い存在になって来ている。もう「頭二十世紀」はもうやめないか。

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もう「一人称」・「三人称」の呪縛から解き放たれないか? らんた @lantan2024

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