咎の醜女

 妙は今日も、獄中で、変わり映えのしない光景を眺めていた。

 無骨で、じめじめとした空間。時折聞こえてくるのは、陰気な呻きやすすり泣き、怒鳴り声、叫び。不快と悲痛の巣窟。

 心安らぐものなど何ひとつ存在しない。そう、疑いなく信じ込みそうになる。

 実際、妙自身もそうだったのだ。少し前までは暗い思い込みに囚われ、絶望に塗り潰されていた。



 あの日からだ。一筋の希望が心の片隅を照らし、未来というものへ僅かな夢を抱けているのは。

 そして、このようなひどい空間に押し込められても、妙は彼の来訪を待ちわびて、心を仄かにときめかせている。


『生きている限り、いつか救いがある』

 包み込むように温かく、噛みしめるように幸せと照れくささを滲ませた声だった。それでいて、これまで自身が味わってきた辛さを示すような苦みも含んでいて、しかしそれを必死に隠そうとしていた。気遣いがありがたいと同時に、声に潜んだ苦みが、「気休めではない」と彼の言葉を裏付けているようだった。

 自身の名を呼んでくれた声。頭を撫でてくれた手の平。こちらの怯えを察し、気づかない振りをしつつも心を解きほぐそうと苦心してくれた気配。与えてくれた薬よりも、余程効いたのだ。身体にも、心にも。



❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿



「なあなあ、聞いたか? あの噂」

「おっかねえなあ」

 がらがら声が、閉ざされた空間にこだまする。音がやたらと響くこの空間で、視界にいない仲間と会話する者はわりといるのだ。いちいち気にしていてはきりが無いと、妙は膝を抱え込んだのだが。

「はあ? 痩せっぽっちな女だろ。怖くもなんともねえじゃんか」

「そんなことねえって。蛇みてえにうねるどす黒い髪に、傷だらけの身体って、それだけでおっかねえだろうよ」

 ――うねる黒髪。その部分が引っかかり、顔を上げる。そして、続く会話に耳をすました。

「怨霊かもしれねえぞ」

「や、どーせここの古株だろうって」

「女が、か?」

「うるせぇなぁ。何の話だ?」

 一人、寝起きらしい若干呂律の回らない声が加わった。

「ああ。実はなあ――――」

 その人物に話題を説明するらしい。妙は意識を集中させる。


 先程までのあれはどうやら、怪談だったらしい。

 この獄に、いつしか現れるようになった女。擦り切れて汚れにまみれた単を纏い、はだけた胸もとや捲れた裾や袖から覗く肌は傷だらけ。髪は蛇のようにうねって背中を覆い、美しいはずの濡羽色も禍々しい。顔は蒼白く、腕や脚は痩せこけ骨が浮き出て、光を失った瞳からは生気というものがこれっぽっちも感じられない。この世の者とは思えない程の気味悪さだという。いつしか罪人達の話の種となり、まことしやかに囁かれる噂の女は、その名も『とが醜女しこめ』。



 ひええ、おっかねえと言い合う声達を、妙が、壁にもたれて聞くともなく聞いていると。

「どうした」

 割って入った新たな声。同時に踏み込んできた足音で声の主の立場を察し、一瞬で場がしいんとする。聞かれてしまったという焦りや、仕置きの予感に対する怯えの気配。

 だが、

「驚かせて申し訳ない。しかし、私以外の者が気づけば、怒るだけでは済まないぞ。あまり騒がない方が賢明だ」

 後に続いた言葉で、ほっと空気が緩んだ。

 現れたのは、妙が来訪を待ち望んでいた彼、なのだが。

「……?」

 少し、顔色が悪い。動揺している?

「『咎の醜女』か……」

 す、と斜め下に視線を流す顔の横を、真っ黒いくせっ毛が一束、滑ってゆく。それを払うために、青白いと形容して良い程に白い肌へ伸びる、折れそうに細い手。首元に、うっすらとした古傷。

 ふと、髪が伸びきり女のようになった姿の幻想が浮かぶ。

 …………いや、まさか。


 思えば、彼のことを何一つ知らない。優しく、遠慮がちで、あまりにも身分にそぐわない気質を持つ放免の彼。

 今まで、どのような道程を歩んできたのだろう。


「咳は、止まったのか」

 彼が、声をかけてくれる。息が詰まりそうな程に嬉しい、が。本当に息を詰まらせようものなら、また、心配させてしまうだろう。

「はい。おかげさまで」

 ほっと、息をつく彼。動揺した顔が見られないことや、こちらに手を伸ばしてくれることがないのが残念でもある。が、そのような理由で煩わせるのは心苦しい。だから。

「……あの」

「どうした」

 せめて。

「良ければ、ですが…………お名前を、教えてくださいませんか……?」

 不躾かもしれない。いや、これは、恩人の名も知らぬとはあまりにも情がない、から……

 彼は、思いがけないことにしばし固まっていたが、つと妙の方を見て、ふっと表情を緩めた。縮こまって動悸を抑えているのを、悟られたのだろうか。

「――そうだな。こちらから同じ質問をしたのだから、応えるのが筋か。私は、誠だ」

「まこと、様……」

 知りたての名を、何かとても貴重なもののように、舌の上でだいじに転がす。きれいだ。たった三音が、これ程に美しく感じるのか。驚くくらい、彼にしっくりと馴染む。


 ――『咎の醜女』とは、あなたなのですか?

 つい先ほどまでの疑問は、思考を埋め尽くす新たな感情に場所を奪われ、追われ、潰されて霧散した。

 「醜女」など、とんでもない。彼に相応しいのは、「誠」という、美しい、唯一の名だ。



「唯一の名、か……」

 誠が去り、妙は再び膝を抱え込む。

 

 周囲が使っていた呼び名ではなく、その奥にある真の名。これを彼・誠に差し出す日は来るのだろうか――――



✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀



「『咎の醜女』ね……」

「はい。最も辛かった日々の私の姿を、事情をよく知らぬ者が形容した名でございます」

 物憂げな表情の雅近に、誠は罪悪感をおぼえる。ふと思い立って話の種にしただけで、そのような顔をさせたかった訳ではない。

 夏が近づいてきたが、夜ともなれば、簀子縁には涼しい風が吹いている。

 雅近が睫毛を伏せるようにして見下ろす庭に、誠も目を向けた。闇が色彩を覆い隠しているが、影のみとなっている草木の葉は、さぞかし緑が深まっていることだろう。

「女と間違われるほどに髪が伸びるくらい長い間、生者と思われない姿に成り果てるくらい辛い思いをしたんだね…………」

「ご心配なさらず。今は、平気ですから」

 弱々しい声をすくい上げて支えるように、さらりと返す。膝枕ですうすうと寝息をたてる真白に、袿をかけ直した。

 雲が流れ、闇の帷が少しだけ遠のく。

「――季節外れの月見も、良いものだね」

「ええ、本当に」


 穏やかな時間を手にした。この出来事の重大さばかりは、鋭い雅近様でもわからないだろうな。

 願わくば、今度は自身が、与える側に。

 既に達成していることにも気づかず、誠は心の中で誓う。


「 とにかく、誠。これから、は、もっと、自分、を……大切、に………… 」

 二度三度、船を漕いだ後、雅近は睡魔に負けて倒れかかってきた。

 あどけない寝顔。久々に、この主が年下であることを意識する。


 ふ、と笑みをこぼし、誠は、眠りに落ちた二人を移動させる作業に取りかかった。

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