第五章 誠の過去
生ぬるい風で、名も無い草花が揺れている。
怪我だらけの誠は、立っているのがやっとだった。
嬉しかった。心配され、助け出していただけて。
しかし、あの場に現れたということは、雅近様にあの会話を聞かれていた可能性が高い。そう考えると、誠は雅近の顔を見られなかった。
俯いたまま立ち尽くす。
今すぐ逃げ出したかった。
弁解したって、どうせ信じてもらえない。それを、誠は経験上知っていた。
また失うのか、大切な人を。こんな形で。
これからきっと、信頼して笑いかけてくださったこの御方は私に蔑んだ目を向け、罵倒して去ってゆく。
嫌だ。
何故こんなことになってしまったんだろう。
やはり、全て私が悪いのだろうか。
「……っ!?」
支えるように抱きすくめられて、誠は面食らう。
拒む気力も残っておらず身を預けるが、先程までとは全く違う理由で心臓が早鐘を打っていた。
「誠、無事で良かった。可哀想に、こんなにぼろぼろになって。本当に、心配したんだよ…………!」
耳元で、泣きそうな声がする。
「申し訳ありません」
とっさに謝ると、声の弱々しさに動揺したようで、背中に置かれた手に力が込もった。
「大丈夫、もう大丈夫だから。安心して……」
あやすように背中をさすられ、誠は自分から尋ねてしまった。
「あの、いつから聞いていらしたのですか?」
「最初から」
即答に、息を呑む。
……全部、聞かれて、いた。
やはり、もう終わりだ。この抱擁を解いたら、雅近様は永遠に私の前から消えてしまう。
誠は、再び絶望に陥る。
おそらく、これは別れの挨拶なのだろう。
重罪人だろうがなんだろうが傷ついた人を憐れむ。そんなお優しい雅近様の中で、精一杯の。
体が離れていく。誠は思わず雅近の袖を掴んだ。
「どうしたんだい? さあ、一緒においで。どこか痛いならゆっくり歩くよ。置いて行かないから」
「……え?」
予想外の言葉に、顔を上げる。
「あの」
「何だい?」
「失望、なさらないのですか……?」
「何にだい?」
いよいよ唖然とした。恐る恐る口に出す。
「その、私が、人殺し、と」
「そんな訳ないだろう」
きっぱりと言い切られ、言葉に詰まった。
「……な、ぜ」
「君が犯したのは、『失態』なんでしょ。『罪』じゃなくて。前に、そう言っていたじゃないか」
「覚えて、いらしたのですね」
「ああ。君は、嘘をつかない。どんな些細な部分でも。偽るくらいなら、どんな目に遭おうと黙して語らずを貫く。そのくらい正直で、真摯な人だから」
「私ごときを、どうしてそこまで信用してくださるのですか」
今まで、ずっと知りたかった。
はぐらかすのは許さないという意思表示に、誠は雅近の目をまっすぐ見つめる。
そうしながら心の中では、こんな不敬な行為も許してもらえるという甘えに苦笑した。
「僕にもよくわからないな。理由が必要だって言うなら、いくらでも考えられるけど。どれも真実でありながら気持ちの核心ではない気がするというか。それでも、君への信頼は紛れもない本物だし、何があっても揺らがないことを誓うよ」
雅近の返答は、はぐらかしているようにも取れる。
それでも、誠にはわかった。これが偽りのない本音だと。
十分すぎるくらいの答えだった。
だから。
「全部聞いていらしたのなら、私を問いただしたくなっておられるのでは?」
「話したくないなら、無理強いしないほうが良いと思って」
「お心遣い、痛み入ります。しかし、話させていただいてもよろしいでしょうか。私の過去について」
信頼には信頼を。
一陣の風が吹き抜け、青々とした草がざわりと波打つ。
雅近は刹那驚いた後、
「ああ、いいよ」
顔中に喜びと慈愛をにじませて頷く。
どんな事実も受け入れる。誠は、そう言われた気がした。
「では」
❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿
私はかつて、とある貴族の若君に、従者としてお仕えしておりました。
主人の名は、篤良様。
とても穏やかで、聡明で、それでいて無欲な御方でした。
貴族として常識的な感覚を持ち合わせていながら目下の者を慮ってくださる。出世はあまり望めませんでしたが、共に平穏な人生を歩む主君としては理想的な御方。
篤良様には、私の他にもう一人、頼安という名の従者がおりました。
明るい性格で、一見豪快なのに実は細々とした仕事が得意な、篤良様の乳兄弟です。
武芸を志していた私が護衛を、頼安が身の回りの世話をと分担して、篤良様の為に日々勤めに励んでおりました。
私達三人は、とても仲の良い主従でした。
互いを兄弟のように思い合っておりました。
私以外の二人は乳兄弟なので、兄弟のような関係であることはある意味当然です。しかし、引け目を感じる私を二人は輪の中に引き入れ、本当の弟のように可愛がってくださったのです。
長男が篤良様、次男が頼安、そして末っ子は私。
弟達を慈しむ長男、兄達を慕う末っ子、遠慮がちな二人の支えになってくれる次男。
私達三人とも、この関係が大好きでした。これからもずっと、三人で支え合って生きていくのだと、疑っていなかった。
しかし。
事件は起こりました。
あれは、三人の中で最年少である私が元服し、同じ時期に篤良様の昇進も決まって。
全てはこれから。
めでたい出来事が重なり、一族皆が希望に満ちていた時期のことです。
私達三人は、夜道を歩いていました。
どうしても外せない用事で少し遠くへ出て、帰りが遅くなったのです。
薄闇の中。時折、姿の見えぬ鳥がぎゃあと鳴き、かすかな風に木々の葉がざわりざわりと擦れあっております。
そんな気味の悪い場も、三人いれば大丈夫。そう、呑気に構えて。
道端で眠る貧しい民やら、起き出して茂みの中で餌を探す獣やら。そういったものの迷惑にならないように、ぽつりぽつりと会話をしながら進んでおりました。
不意に、行く先に気配が生じました。私は立ち止まり、刀の柄に手を掛けます。
飛び出して来た男と斬り結ぶのと同時に、
「うわ!」
後ろから、声が上がりました。
鍔迫り合いに持ち込んで振り向くと、篤良様に他の男が迫っています。
男は応戦しようとする頼安をいなし、いとも簡単に篤良様の間合いへ入りました。
まずい!
私と頼安はおそらく、全く同じことを思ったでしょう。
盗賊と思しきその男は武器を手にするのではなく、篤良様の懐に手を突っ込みます。そして、絹の巾着を抜き取って去っていきました。
私と斬り合っていた男も、もう一人が巾着を手に入れるなり飛び退き、同じように逃げて行きました。
私はすぐさま
「篤良様、ここでお待ちください。頼安、この場を頼む」
言い置いて、追跡を開始します。
男の一人が奪っていった巾着には、私達にとって極めて重要な物が入っていたのです。
しかし、この判断は完全に間違っておりました。
あの時、あの場を離れなかったら。
この後、私は何年も後悔を抱えることとなります。
私が自分の能力で自信を持っている。そんな、数少ないものの一つが、足の速さです。
私はそうかからずに、巾着を持ち去った男に追いつきました。
躊躇いなく抜刀し、そのままの勢いで巾着を持っている方の二の腕に斬りかかります。
傷口からぱっと紅い花が咲き、男は思わず巾着を取り落としました。私は返り血を少々浴びましたが意に介すことなく、巾着を拾い上げます。
そこで相手方にもう一人の加勢が入ったので、深追いをしないことに決めました。
得意の走りを再び駆使して二人を振り切ります。
途中の木陰で、巾着の中に例のものが無傷で残っているのを確認してほっと息をつき、再び全速力で大事な主人と同僚のもとを目指して駆け出しました。
二人が待っている場所までもうすぐという所で、異臭がして立ち止まります。
このにおいは……血!?
嫌な予感に、心臓がばくばくと鼓動します。
二人が待っているはずの場所に、何か大きなものが落ちているのが見えました。
ま、さか。
飛ぶように駆け寄ると、やはり。篤良様と頼安が、重なって倒れておりました。
いや、この表現では生ぬるいかもしれません。
体中を斬りつけられ、おびただしい量の血を流して、もののように転がっておりました。
木々の葉は変わらず、ざわりざわりとこすれ合っています。
そんな中、私の何より大切な二人は、血と泥に汚れた骸と成り果てていたのです。
状況を理解できませんでした。
いいや。
理解を拒んでいました。
私は立ち尽くします。大事な巾着を握りしめ、盗賊を斬った血刀を引っ提げたまま。
巡回の検非違使が通り掛かった時も、私は動けずに、二人の骸をじっと見つめておりました。
私は捕縛され、投獄されました。
この時点では、自分にかかっている嫌疑になど、思いもよりませんでした。
二人を守れなかった。
そんな罪悪感に囚われていたせいで、暗い牢獄に閉じ込められることも当然の報いだと感じてしまったのです。
初めて尋問された時。二人を殺したと責められ、必死で否定しましたが、信じてもらえませんでした。
それから何年も強いられた牢獄生活は、心にも体にも辛いものでした。
逃亡を防ぐ為に何もかも取り上げられて。
日の当たらぬ牢の中は、夏は蒸されるように暑く冬は凍るように寒い。
時折、日の下に引きずり出された時には暴力を伴った尋問。
罪を認めることを私が頑なに拒むので、受ける責め苦は日に日に苛烈さを増してゆく。
手口も回数も、明らかに律令で許される範囲内ではありませんでした。
証拠は揃っているようなものだったので、私は罰に怯えて虚偽の自白ばかりする卑怯で凶悪な罪人だと思われていたのでしょう。
罪状が『主人を謀った上で二名もの命を奪う強盗殺人』というかなり重いものだったため、酷い扱いも見逃されていました。
ほとんど地面に覆われた視界。もはやどこが痛いのかもわからない、体中の激痛。心は完全に壊れ、不気味な程隅々まで凪いで。恐怖も悲しみも麻痺していた。
ずっと考えていました。
本当に、私は無実なのだろうか。私の失態が、二人の死という結果を招いたんだ。私が殺したようなものじゃないか、と。
それでも、既に壊れて消え去ったはずの心が、無実の罪を認めたくないと、訴え続けたのです。
ある日。
牢番達の雑談から自分を殺す計画が持ち上がっているのを知っても、ああついに。と、無感動に思っただけでした。
怖くはなかった。
いっそのこと私も命を失えば、楽になれる。
結局、計画が実行される前に今上帝即位で大赦が行われ、罪状もうやむやのままに、私は放免となりました。
そのまま、今に至ります。
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