第四章 因縁
久々に、人の出が多い所の巡回を命ぜられた。
貴族も庶民も入り乱れ、聞こえてくるのは客引きや値切り、尼の説法、物乞い、噂話など。
ここは東の市。
売り手買い手その他、老若男女の声が混ざって喧しい。
誠は人混みを避けるように隅へ寄り、嘆息した。
活気にあてられて、頭が痛い。
普段から彼は明るい質ではないが、先日のことで気が重いこともあり、陽気な喧騒とはなおさら相容れなかった。
ふと、殺気をはらんだ視線を感じて振り返る。
そちらにいたのは山吹色の被衣姿の女性だ。
その顔を見るなり、どっと全身から汗が吹き出す。
「あれ、は…………!」
体の中で、嫌なものがむくりと起き上がるのを感じた。
ひたひたと、過去の名残が足音を大きくしていく。それが誠を絡め取るまで、もうさほど猶予は無かった。
❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿
ここ数日、誠に会っていない。
真白のおかげで屋敷は賑やかになったのに、誠と折り合いが悪くなっているという事実が頭から離れない。
雅近は、誠へ強い執着を持っている自分に驚く。
彼は昔から、人に執着しない質だった。
名家の直系、ただし末っ子という身分は、高いのか低いのか。いまいち判じづらい。
優秀なところを見せると兄達に疎まれ、無能な振りをすると他家の者達から侮られる。
雅近は、人間関係を捨てた。
恨まれて排除されない程度に愛想良くする。ただし、深入りはしない。
昇進に、一族の力は一切借りない。ただし、兄達より上の位は賜らない。
そうやって身を守ってきた。
裏切りを恐れながら共に過ごすくらいなら、誰も頼らない方が良い。ずっとそう考えてきたのに。
拒まれてもなお、誠を側に置きたいと思っているのは、気の迷いだろうか。
ともかく、気が滅入る。たまには賑やかな所に行くのも良いか。そう思い、雅近は東の市に繰り出した。
しかし。
「待って。あれ、誠!?」
人気の少ない場所でしか会ったことがないのに。今日に限ってなぜ……
話しかけるか? いや、やめておこう。もう少しほとぼりが冷めるまでは。
そう考えつつも、体は何故か一定の距離を保って誠について行く。
誠は暫くすると市を離れ、逃げるように大路を逸れていった。
彼の入った横道を、雅近が覗き込む。そして、
「何者だ!」
鋭い誰何に、見つかったかと身をすくませる。
ただ、誠が声を掛けた相手は、雅近ではなかった。
雅近が目を開けると。
誠は、武士と思しき男達に囲まれていた。
雅近は驚くが、静観を決め込む。誠なら、このくらいは自力で切り抜けるだろう。
だが、予想は裏切られた。男の一人が何か言うと、誠から動揺の気配が発せられる。
「あっ!」
腕を掴まれ引き倒されて、たちまち後ろ手に縛られた。
誠は碌な抵抗をせず、素直に連れ去られていく。
雅近は呆然と見送り、我に返って後を追った。
誠と男達は、とある屋敷に入っていった。
雅近は、築地塀の割れ目を見つけ、そこから様子を見ることにする。
そっと窺うと、誠は庭先に罪人のような姿勢で両膝をついていた。
庭に面した簀子縁にいる女は、ここの主か。とにかく、今日の襲撃は彼女の指示で間違いないだろう。
雅近の位置からは、向かい合う双方の顔がよく見える。
誠は下を向いて、一切の表情を消していた。何かを覚悟した風に、それでいて何もかも諦めたみたいに。
一方、女は誠を見下ろしていた。というか、見下していた。ありえない程高慢な態度で。
「久しぶり。あれから何年経ったかしら。五年? いや、それ以上ね」
女がねちねちと嫌味ったらしい口調で語りかける。
あれとは、何だ?
「おい、聞いているのか」
無反応な誠を、彼の後ろに立っていた武士が、槍の石突きで突き倒す。
誠っ……!?
顔をしたたかに打ち、身を引きずるように起き上がる間も、誠は終始黙っていた。
「相も変らぬつれなさだこと。それが本性だったのね。醜い髪の毛ばかりでなく、顔も見せてちょうだい。そっちのほうが、多少はましに見えるんだから」
散々に言われても、誠はあっさりと顔を上げる。
表情は少しも動いていないが、傷付いていないというより、何も感じないように感情を押し留めているみたいだった。
やめろ。誠を侮辱するな。
従順さに満足して、女はにったりと嗤った。
「おお、随分とみすぼらしくなって」
黙れ。
「まあ、お似合いね。当然の末路だわ。だってあんたは…………」
そこまで言うと、女の表情が憎々しげなものに豹変する。
「私利私欲のためにあの子達に手をかけた裏切り者。最低最悪な、人殺しだもの」
人殺し………………!?
誰かを裏切った? 誠が? 私利私欲のために?
嘘だ。彼はそんなことはしない。
雅近は縋るように誠の方ヘ目を遣り、息を呑む。
誠は、苦しげに顔を歪めていた。深くうなだれ、小さく喘ぎながら。
ま、さか。本当なのか?
本当に、誠が、人を殺した…………!?
「何故、あの子と
女は改めて忌々しげに誠を睨みつけ、吐き捨てた。
「あんた、よくものうのうと生きていられるわね…………!!」
「っ!」
あまりに攻撃的な様子に、雅近は傍から見ているだけで気圧される。
そんな中、誠がやっと口を開いた。
「……篤良様や頼安のこと、も、申し訳、ありませ」
「黙りなさい!」
勇気を振り絞った言葉も、最後まで言わずに遮られる。
誠は絶望に目を見開いた後、肩を落とした。
「謝罪なんかで許されるとでも思っていたのかしら」
「いいえ」
掠れた声で答える誠があまりに辛そうで。雅近まで胸が張り裂けそうな心地になる。
反対に女は、誠が苦しんでいるのに機嫌が良くなったらしい。
おもむろに、こんなことを言い出した。
「よくわかっているじゃない。もし本当に反省していると言うなら、証明して見せなさいよ」
「え?」
誠が戸惑って顔を上げると、女は鮮やかで残酷な笑みをひらめかせる。
雅近は、嫌な予感がした。
「わたくしの命じたことをしっかりやり遂げたら、あんたの言葉を信じて、赦してあげる。どう?」
「やります。それがあなた様ヘの償いになるならば」
何をさせられるのか聞く前にも関わらず、誠はきっぱりと宣言した。
女はますます唇の端を吊り上げる。
「そう。じゃあ…………」
そして、懐から短刀を取り出した。
「今すぐ、わたくしの前で死になさい」
誠を見張っていた武士達がどよめく。
「さあ、この者の縄を解いて」
「しかし……」
「襲いかかってきたらすぐに取り押さえればいいじゃない。そのくらいできるでしょう? もし変な動きをしたら、問答無用で殺していいから」
一人が苦言を呈するも一蹴され、武士達は渋々と命に従った。
手首の縄を切られ、誠の腕がだらりと垂れ下がる。
女は彼の前に短刀を投げやった。
誠はそれを拾い上げようと手を伸ばす。
あとほんの少しで届かず、体が傾いだ。
地面に這いつくばって柄を掴むが、何度も手が滑って取り落とす。
誠の様子を、誠本人と雅近以外でその場にいる者達は皆、嘲笑しながら眺めていた。
それでも何とか握り込む。言うことを聞かない身体に鞭打って膝立ちの姿勢まで起き上がった。
刃を自らの喉に向ける。
時間が、やけにゆっくり流れた。
ときに止まり、ときに思い切って進み、ときに震え。
陽の光を受けてきらりと銀色に輝くそれはじれったい動きで、しかし確実に白くて細い首筋に近づいてゆく。
いよいよ切っ先が肌に触れ、ぷくりと血の玉が浮いた。息を詰めて見守っていた雅近はとうとう我慢できなくなり、
「やめろ!!」
と叫ぶ。
ぽとりと、短刀が地に落ちた。
「……雅近、様?」
途端に、その場が蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「くっ! あいつ、いつの間に助けなんか呼びやがった!」
「奥方を守れ! 曲者を捕らえろ!」
誠はすぐさま手荒に組み伏せられる。
雅近も、四方を囲まれて武器を突きつけられた。
が、自身のことよりも。誠が首を絞められて呻いた。それを聞き、怒りが沸点に達する。
「誠に手を出すな」
高貴な者だけが持つもの。
普段は表に出ない、自然と人を跪かせる、威厳に満ちた雰囲気。
それを全身に纏って、雅近は、誠を押さえつけている武士を冷然と睨み据えた。
武士達は恐れおののき、反射的に身を引くが、
「怯むでないよ! しっかりなさい!」
女の怒号に武器を構え直す。
首に掛かった手も力を増し、誠は苦痛の声を絞り出した。
それを聞き、雅近は心を決める。
この手段は、出来れば使いたくなかったのだが。誠を助けるためには致し方ない。
女の方に向き直り、すっくと背筋を伸ばして、堂々とした立ち姿をつくる。
そして、声を張り上げた。
「我の名は雅近、由緒正しき大納言家で、末席とはいえ直系に連なる者! 皆の者、その身を守りたくば、検非違使庁の放免・誠の身柄を解放せよ! 我の命ぞ!」
衝撃が広がる。
だ、大納言家!? そんな名門が何故!? 武士達からは、そんな心の声がだだ漏れだった。
「ど、どうせはったり」
「な訳がないだろう。騙るならもっとふさわしい家がある。左大臣家とか」
往生際が悪い言葉を遮ると、女が初めてしっかりと雅近を見つめた。
雅近が傲岸に見返すと、急に青ざめてがたがたと震えだす。視線をまともに受けて初めて、雅近の言葉に偽りが一切無いことを悟ったのだ。
「お、お許し下さいませ!」
「ああ。誠を返してくれたら」
「ほら、早く放してやりなさい!」
女はすぐさま態度を変え、武士達に命じる。
皆が武器を収め、跪いた。
その中を、雅近が悠々と歩む。誠の方ヘ、一直線に。
彼のためだけに纏った、王者の風格を背負って。
誠は、動けなかった。
首の圧迫が消え去って激しく咳き込みながら、地面に転がっていた。
汚れきり、心も体も疲れ果てた惨めな姿をさらすことしかできなかった。
雅近は当たり前のように誠を抱き起こす。
短刀でつけた傷を源にした、首筋にある細い紅色の線を拭ってやる。
誠をゆっくり座らせた後、そっと手を差し伸べた。
誠は、おずおずとその手を取って、立ち上がる。
ただそれだけのことに、雅近は極上の笑みを浮かべた。
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