第一章 藤の下で

 右京のとある小路を、貴族の少年が一人、歩いていた。

 纏っている衣は趣味が良く、所作の端々から気品のにじみ出ている様子は、明らかに名家の貴公子という風情だ。

 そんな彼が伴も付けずにこのような寂れた一角にいるのは大変奇妙だが、彼・雅近まさちかがこうして一人で出歩くのはいつものことだった。


 そもそも、直系とはいえ末息子である彼は、自分の屋敷を持っていながら側近という存在は持っていない。

 屋敷の管理や身の回りの世話をする使用人はいるが、外出にまで付き添ってくれるような者はいなかった。

 跡継ぎではないので、親には昔からあまり気にかけて貰えない。しかし、その分自由に行動できるので、それを利用して誰の目もない所を一人そぞろ歩きするのが彼の楽しみだった。


「おや」

 ふと、通り掛かった荒屋の門前で立ち止まる。

 そこの庭は草がぼうぼうに生い茂って酷い有様だったが、そんな中に立派な藤があった。

 ちょうど満開で、薄紫の無数の花房が、巻き付いている枯木を絢爛に飾り立てている。

 心惹かれてその下に歩み寄ろうとするが、途中で他人の住処かもしれないと我に返った。


「もし。誰か居られますか?」

 一応、声を投げかけて少し待ってみる。まあ、建物と庭共に見る影もない荒れようで、このような場所に住まう者がいるとは考え難かったのだが。

 案の定、応えはなかった。


 今度こそ、庭に踏み込む。

 背の高い雑草が纏わりついて装束に葉や種を付けるが意に介さず、藤のすぐ下にたどり着いた。

 間近で見てもやはり美しい。遠目に見た際のけぶるような儚げな風情も良かったが、近づいて見ると紫色の濃淡や花弁に浮き出た紋様までもがはっきりとわかり、気高さや品の良さが感じられる。

 思わず、手近な花房に指先で触れようとした、その時。


「おい。何してやがる」

 不意に、粗野な声が耳を打った。

 弾かれるように振り返ると、無骨な男が近づいてくる。その身なりは、みすぼらしいというよりも荒々しいという言葉が似合いそうであった。

 見るからに真っ当な者ではなさそうだ。

「はて、もしや、ここはあなたの住まいだったのか。勝手に入ってすまない。歩いていたら、たいそう雅やかな藤を見つけたものでね」

 雅近の飄々とした物言いが気に障ったらしい。

「ふっざけんなよ……!」

 男は身を低くし、いきなり飛びかかってくる。

 これには、流石の雅近もぎょっとした。慌てて辺りに目を走らせるが、当然ながら人影はない。


 男の汚い手に引き倒され、尻餅をついた。真正面に立った男が手を振り上げる。

 覚悟して、身をすくませながら目を瞑る。


 が、いつまで経っても衝撃が来ない。代わりに聞こえたのは、ドサッと何かが地に倒れる音だった。


「……?」

 恐る恐る目を開けると、雅近と男の間に誰かが立ちはだかっていた。男はその者にやられたらしく、昏倒している。


 しかし、雅近はほっとする前に恐れおののいた。

 助けに入ってくれたと思しきその者はまだ青年と言える年頃の若者だったが、格好が明らかに放免のそれだったからである。

 むさ苦しい髭面ではないものの、派手で趣味の悪い装束を見紛うことはない。鉾などの武具を持っていないのも、よほど腕におぼえがあるようで、そら恐ろしくあった。


 放免とは検非違使庁の下っ端で「毒を以て毒を制す」の考えの下、前科のある元罪人を汚れ仕事や犯罪者の捕縛にあたらせるもの。その性質上、盗賊並みに乱暴な者や手癖の悪い者がほとんどである。


 放免に関わるのはまずい。恩着せがましく金品をせしめてくるか、妙な言い掛かりをつけてくるか。

 いずれにせよ、碌なことになるまい。

 助けて貰った礼を言いたいが、そんなことより身の安全が大事だ。礼なら後で検非違使庁を通して伝えれば良かろう。

 とにかく、一刻も早くここから去らなければ。

 雅近はそう決心したのだが。予想に反して青年が

「お怪我はありませんか?」

 と、丁寧な物腰で手を差し出してきたことで、それを行動に移すことはできなかった。

 青年の手は痩せこけていたが、意外にも強い力で雅近を引き上げてくれる。

 立ち上がった雅近は、正面の青年をまじまじと眺めた。


 漆黒の髪や瞳はたいそう美しく、やや子供っぽくはあるが顔立ちもそこそこ整っている。

 ただ、肌は白いというより青白くかさかさしていて、髪は酷いくせっ毛だ。

 目はとろんとしていて一見ふわふわした雰囲気だが、瞳にはやるせなさとともに何かを拒む色が宿っている。

 感情の一部が欠落したようにぼんやりとした、人形のような青年だった。


 青年は雅近の前で跪く。

「申し遅れました。私は検非違使庁の放免、まことでございます」

「本当に君は『放免』なのかい?」

「ええ」

「そっか……とにかく、ありがとう。助かったよ」

「もったいないお言葉です。では、私はこれにて失礼いたします」


 去っていく誠の背中を眺めながら、変わった者もいるものだな、と雅近は独り言ちる。

 他人に興味を持つなどいつ振りだろう。愉快な心地に浸りつつ。

 また会いたいものだな。そう、本気で思った。


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