第9話 エレジー
三カ月後、震災からの復旧を徐々に遂げ始めた町で、房森中の合唱祭が行われた。
当初の予定を大幅に変更して、この合唱祭はコンクール的なものよりも、町を活気付ける催し的な色彩が濃くなっていたけれど、それだけに観客も多いし生徒の気合も入るしで、お祭りとしては大成功だった。
鈴木しほりのアドバイスを受けた久壁君のB組は、特に見事な団結っぷりを見せ、当然のごとく学年優勝をかっさらっていった。ちなみにしほりの妹が在籍しているはずのC組は、八クラス中で学年四位という、ごく普通の成績を見せたのだけれど。
「なんでさほりちゃん、伴奏しなかったの?」
時折そんなことを聞かれたけれど、もういちいち落ち込んだりはしない。堂々と「もっとうまい人がいたから」と言うことにしている。
ちなみにお姉ちゃんが自由曲と課題曲を弾いた二年A組も、ごく自然に学年優勝を勝ち取っていた。もちろん伴奏だけじゃなく歌も素晴らしかったのだけれど、鈴木しほりの株がこれでさらに上がるのは間違いないだろう。
何せ避難所生活をこなしながら、勉強もピアノの練習も疎かにしなかった偉人なのだ。誰もが納得の評価である。うちのお姉ちゃんはすごいんだ、と自慢して回っても、文句を言う人なんてどこにもいないだろう。
ちなみに、失われた鈴木家のピアノの代替を申し出てくれたのは、久壁家のピアノだった。
「散々お世話になったし、困ったときはお互いさまなので」
頬に桜色を散らしながら、私を通して久壁君がそう申し出てくれた。彼の家は物が散乱したくらいで、家にもピアノにも被害はなかったらしい。
お姉ちゃんは喜んで出かけていき、私はそれを見送った。
今はピアノに触りたくなかった。
「それでは本日の合唱祭の締めとして、観客の皆さんもどうぞ一緒に歌ってください。曲目は……」
ガタガタッと周囲がパイプ椅子を鳴らして立ち上がり、慌てて私もそれに倣う。
三年生から代表の伴奏者と指揮者が壇上に上がり、重厚かつ温かみに溢れる和音の前奏が入り、やがて体育館中が人々の歌声に溢れた。
細く透明なソプラノが天井に吸い込まれ、それを包みこむようにアルトが、下から支えるようにテナーが、全てを見守るようにバスが響く。
誰も彼もこの一時、音楽に身を任せていた。
久々に心地の良い感覚。私は目をつむった。するとピアノの伴奏が、私の耳に語りかけるように優しく滑り込んできた。
気付けば私は、いつもベルキーにしていたように、ピアノに心で語りかけていた。
今日はよく働いて、疲れたんじゃない?
大勢の人が、あんたの音色に合わせて歌っているよ。
一年に一度の、あんたの晴れ舞台だね。
不思議なことに、語りかければ語りかけるほど、ピアノの音色はますます私の中に入り込んでくるようだった。言葉は聞こえないけれど、会話しているみたいだ。
ある音が鳴るたびに、少し音色が濁るのがわかった。弦が緩んでいるのだ。
ちょっと風邪引いているみたいだね。あとで先生に言っておくね。
語りかけながら、鎖に通して首に下げたベルキーの鍵を、服の上からそっと掴む。
――ベルキー。私は、あんたが教えてくれた長所を、伸ばしたい。
あんたたちの喜ぶ声が、好きだから。
気付くだけじゃなくて、会話しながら私の手で、直してあげたいから。
だから私は、調律師になるよ。
きっとそれが、私の長所を生かす道。
あんたと一緒にいられる方法だ。
*
「鈴木さん!」
弾む声で呼びかけられ、振り返ると、久壁君が真っ赤な顔で息を切らして後ろに立っていた。ずいぶん追いかけていたらしい。私は慌てて謝った。
「ごめんね、気付かなかった!」
「ううん、いいんだ。呼び止めてごめん。あのさ……」
少し息を整え、久壁君は何を言うか迷うような素振りを見せた。
「どうだった? 今日は歌のことも考えて、演奏できていたかな」
「うん、すごくいい演奏だったよ。こないだよりずっと良くなってた」
私は即答して頷いた。本当に今日の彼は、いい演奏をしたと思っていたからだ。
「それに、お姉ちゃんにピアノを貸してくれてありがとうね。すごく感謝してたよ」
「いや、そんなのは全然、当たり前のことだけど……」
ちょっと言葉を切ったあと、彼は少し早口になる。
「鈴木さんは来なかったね。来てくれて構わなかったのに」
「うん、でも私は別に、伴奏者じゃないし。邪魔するのも……」
悪いし、と言いかけて言葉を呑み込む。まずいまずい、いくらなんでもあからさまだ。久壁君は眼鏡のフレームを押し上げ、どこか落ち着きなく視線を揺らしている。
「あの、良かったら、これからも弾きたいときは、うちに来てくれていいから」
「ありがとう。お姉ちゃんに伝えとくね」
そう言った途端、眼鏡の奥で黒目がちの瞳が見開かれた。
そうじゃなくてっ、という、半ばやけっぱちのような声が響く。
「鈴木さんが、だよ!」
あまり聞いたことのない久壁君の大きな声に、思わずキョトンとしてしまった。
「あ……その、もちろん、鈴木先輩にも、来てほしいけど……」
まずい、という顔つきで久壁君が付け足す。なんだか様子がおかしい。
「……あ、私も、行っていいんだ」
私も私で、妙な間で返事をしている。
微妙な沈黙が二人の間に漂った。
コホンと一つ咳払いし、やがて久壁君が、意を決したような顔つきになった。
「あのさ。前の演奏が独奏みたいに盛り上がり過ぎた原因、あれってたぶん、鈴木さんがいたからだと思うんだよね。俺、鈴木さんのことばっか意識して弾いてたから。それを指摘されて恥ずかしかったけど、逆にもっといいなと思った。相手の悪いところを誤摩化さずにきちんと言ってくれる人って、なかなかいないと思うんだ。そういうまっすぐなところが」
私は息を止める。ふいにベルキーとの会話が蘇る。
――ヒサカベの演奏を聞いたな。
――聞いたよ。おまけに余計なこと言った。
――それが答えだ。
まさか。顔から火が噴き出した。手も指の先まで、燃えるように熱い。
「あのさ」
全身心臓になってしまったかのような私の前で、久壁君が一歩踏み出す。
「もう鈴木先輩とかピアノとか口実にしないから、良かったら、これからも……」
秋真っ盛りの風の中。
私も一歩を、踏み出すのだろうか。
気付けば服の下の銀の鍵を、無意識に握り締めていた。
言っただろう、と優しいささやきが、耳元で聞こえた気がした。
<了>
銀の鍵のエレジー 鐘古こよみ @kanekoyomi
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