第36話:そしてオレは、おまえを道連れにする。


 拳法は、

 両手を少女のようなウェストにすべらせ、

 武骨な両手で、

 その少年のあまりに細い腰を、がっちりと摑んだ。


 まるで、

 動けないように、

 逃がさないようにするかのように。——


「えっ、せ、せんせ……?」


 ヴォルフは息を止めた。

 過去に、

 いや、ついこの間まで、

 自分のからだを求める数え切れないくらいの男たちが、

 してきた仕草、——


 しかし、

 そこでピタリと動きを止めると、

 硬い指先で筋肉を直接摑むようにして、

 少年の脇腹を、


 小刻みにくすぐり出した。


「わ! わひゃひゃひゃひゃひゃ! せ、せんせっ、や、やめっ、……」


「がははははははははは——!!」


「ちょっ、先生?」


 ヴォルフは大きな眼から涙をこぼして笑い、

 拳法も大口を開けて楽しそうに笑っている。

 ニーナだけが、この唐突な展開に付いて行けない。


 そしてすぐにくすぐるのを止めると、

 ウェストから手を離して肩を摑んで、

 告げた。


「ヴォルフ、ありがとう、すごく嬉しい、でも——」


「でも?」


「でもそれはダメだ」


「え、……」


「どうして先生? わたしもそれ、すごくいいアイデアだと思うんだけど」


「ぼ、ぼくが、……」


 不意に、

 泣きそうな声でヴォルフが言った。


「ぼくが、汚れてるから、……」


「ゆ、ユーリくん、……?」


「ぼくが、今までたくさんの男の人と、そういうことをしてきたから、……」


 少年は、

 今はもう泣いてしまっていた。


 過去は、消えない。

 宿命はまだ続いているのだ——


「毎日、毎日だったんだ、この手で、この口で、……気持ち悪くて吐きそうになると顔を叩かれて、おなかを蹴られて、……」


「ユリウス」


 拳法はそう静かに言うと、

 肩を摑む手に力を込めた。


「おまえは汚れてなんかいない」


「んっ、で、でもっ、……」


 細めた眼から、

 涙をたくさんこぼしながら、

 拳法を見上げるヴォルフの、


 いや、

 ユリウスのかおを、


 拳法は、

 はじめてと思った。


 西洋人形のような、

 整った顔立ち、

 美しい眼と、絹のように白い肌。


 しかし、

 そこに射すかげによって、

 表情全体が、

 羞恥はじと、恐怖おそれと、媚態こびと、懇願とに、

 汚く塗れていて、

 見ていられない程だった。


 痛々しかった。


「ユーリくん、……」


 深窓の少女のような美しい貌に落ちる、

 無惨に濁った奴隷の翳に、

 ニーナも息を呑む。


「ユーリ、いいか? おまえは汚れてなんかいない。汚れてるのはおまえにそんな事をした恥知らずな連中の方で、そしてそいつらは、いいか? このあいだ残らず全員このオレが叩きのめした」


「ん、んうっ、……」


 眼を細めて泣き崩れる少年の顔を、

 その涙に濡れた柔らかな頬肌ほおを、

 拳法は両方のてのひらで包んだ。

 小さなこどもに、そうするように。


 だって、——


 そこにいるのは十三歳の少年ではなく、

 まだ十一歳のこどもの精神たましいに違いないのだ。


「おまえを汚そうとする奴はもういなくなった、だから安心しろ」


「そんなの無理だよ、……」


 少年はしゃくり上げながら、

 細く、

 声を振りしぼる。


 三年という、

 永遠にも思える長い年月続いた地獄が、

 陽の射す方向に向おうとするこども本来の心の働きを、

 奪っていた。


「安心なんて出来ないか、……」


「んっ、……」


「だよな、……」


 拳法は、

 頬肌ほおを包んだ手を離すと、

 静かに立ち上がった。

 そんな拳法を、

 涙に暮れる少年は、

 下を向いたままで見上げることが出来ない。


 唐突に、

 低く、しかし厳しい声で、

 その武道家は、上から言った。


「じゃあ、ユーリ、おまえが強くなるしかないぞ」


 歔欷きょきを止めて、はっと息を呑む少年——


「オレはもう、おまえを助けない。しかしおまえを侵そうとする連中は、今後も必ず現れる。いいかユーリ、これからはおまえが、そいつ等を、自分の拳で叩きのめすんだ」


 十三歳の少年に向かって拳法はそう宣告し、

 さらに続けて問うた。


「どうだ、出来そうか——?」


「で、出来ないよ、そんなの無理だよ、……」


 少年は下を向いて言った。

 眼から、頬肌から、たくさんの涙が地に落ちる。


 ニーナは痛々しそうに、

 しかし、黙ってヴォルフを見た。

 何も言わなかった。慰めたりなどは、しなかった。


 ニーナは、やはり女性だった。

 たとえまだ少年と呼ぶべき年齢であったとしても、

 みずから戦うことを諦めてしまった男を、

 女性は、

 決してかばったりなどしないのだ。


「ユーリ」


 拳法は下を向いて泣く少年に、

 声を掛けた。

 先刻からわざと、

 ヴォルフではなくユリウスの名で呼んでいる。


「狼」の名は、やはりおまえには相応しくない——


 その意図が、

 決して愚かではない少年には分かり過ぎるくらいに分かって、

 一度はきつく眼を細めて拳法を見たが、

 すぐにまた下を向いて、

 涙をこぼしてしまう。


 そんな少年に対して今までの拳法なら、

 きっと屈んで目線の高さを合わせたに違いない。

 そして優しく話しかけたに違いない。

 しかし今は拳法はそうせず、

 上から少年を見下ろしたまま、

 続けた。


「じゃあこれならどうだ、ユーリ?」


 はっと見上げる美しい少年の瞳を、

 武道家は、

 険しくも乾いた眼差しで、見返す。

 残忍で、非情な眼。


 もちろん、

 もちろん本意ではない。


 大切な子。——


 しかし今、

 試さなければならない。

 その覚悟を、

 測らなければならない。


 武道を、武術を身に付けたが故に命を落とした弟子たちの相貌が、

 脳裏に、浮かんでは消える。


「オレが編み出した戦闘術をおまえに授ける。人体を素手で容易たやすく破壊してしまえるとても危険な技術だ。習得は、いいか? 容易ではない。はっきり言う、才能の無いヤツには無理だ。努力したから強くなれる、武術は、そんな甘いものじゃない。そして、いいか? それをたとえマスター出来たとしても、それを人に向けた瞬間、おまえは人殺しと呼ばれる。そいつがおまえに害を為そうとしていたとしてもな——」


 ヴォルフの貌から、表情無くなった。

 それはまるで、

 何も書かれていない真っ白なコピー用紙のようだった。


「ちょっと待って」


 咄嗟とっさに、ニーナは言った。

 そして、

 先程からとても気になっていることを訊いてみた。


「そこまでしてあげるなら、何で養子にしてあげないの? あなたの子供としてユーリくんを迎えてあげればいいじゃない?」


「だから、それはダメだ」


「なんで?」


「オレが大東亜皇統帝国の出身者だからだ」


 拳法は端的に答えた。


「この太平洋を挟んだ戦争は、共産主義者連邦を巻き込んだイデオロギー戦争に発展した。まだまだ終わらないし、この先何十年も続くだろう、ひょっとしたら、永遠に終わらないかも知れない。戦端を開いた帝国は、合衆国の人々からますます憎まれるようになるだろう、難民とはいえ帝国に出自を持つオレと、家族になんてなるべきじゃない」


「せ、せんせえは、ぼくがそんなこと気にすると思ってるの?!」


 怒りを含み、やや震える声で、少年は抗議する。


「思ってない」


「じゃあ、……じゃあなんで?」


「おまえの父親と母親が、それを望まないからだ」


「そっ、そんな、……」


 少年は、絶句した。


「おまえは利発で、だけじゃなくてとても優しい子だ。おまえを家族として迎えることを、このオレが嫌なハズがない。しかしおまえが幸せになることを一心に願って、とても大切におまえを育てたハズの、その両親の切実な願いを、オレは無視できない。おまえは、いいか、悪い奴らに捕まってしまってひどい暮らしをしてきたが、本来は戦没軍人の遺族だ。おまえの父親はその人で、その人を差し置いて、帝国出身のアジア人で、オマケに人殺しであるこのオレが、おまえの父親になる訳には行かないんだ」


「かっ、考えすぎだと思うな、拳法先生は、……」


「……」


 いつか言った言葉と同じセリフを、ニーナは言った。しかし拳法の固い表情は変わらない。


「せんせ、……ありがとう」


 不意に、少年は言った。

 こどもの顔、

 まるでおんなの子みたいな、

 やさしい顔。


 しかし次の瞬間、

 その白い相貌に、獰猛な影が差した。

 それは手の付けられない反抗心を内に蔵した、

 若い、男の貌——


 少年は反発力バネを秘めたしなやかな脚で、

 鋭くステップ・インすると、

 拳法のボディに強烈な右ストレートを見舞った。


「うッ、——」


 思わず声を発し、

 拳法は少しだけ前屈みになった。


「先生のこどもにしてなんて、もう言わないよ。その代わり、ぼくを先生の弟子にして。先生みたいには強くはなれないかも知れないけど、誰かに、護ってもらうんじゃなくて、誰かを、護ってあげられる、そういう大人になりたい」


 拳法は、黙って少年を見た。

 彼が放った右ストレートの、

 その意外なほどのスピードとパワーに、

 驚いてしまっていた。


 自分の知らない少年が、

 そこに立っているような気がした。


「ヴォルフ、……」


 期せず、そう呼び掛けていた。


「なれるかな、……?」


 少年は、少し照れた表情になって言った。


「なれるさ、ヴォルフ、なれるさ、おまえはオレなんかより強くなる」


「それはいくらなんでも、……」


 割って入るニーナに、拳法は言った。


「こいつは手とか足だってけっこう大きいし、まだ子供みたいな身体からだつきなのに現時点でそれなりに身長もある、まだまだでかくなる、そうしたら、もうオレなんか勝てないさ、……」


 そんなことを言う拳法は、しかし嬉しそうに笑った。


「ただし、オレの言うことをよく聞いて、しっかり練習したらの話だ」


「はい、先生」


「よしッ、さっそく明日から練習だ。厳しいぞ、覚悟しとけよ!」


「覚悟しなよヴォルフくん、明日からあの変なダンスをやらされるんだよ?」


「えぇ、……」


「変なって何だよ? 奥義だって言ってるだろ? それに、えぇって、……おまえまで何だよヴォルフ!」


「あははははは・・」


「そんなに怒んないでよ拳法!」


 そんなことを言い合いながら、

 夕闇が静かに溶けてゆく景色の中を、

 三人は歩いた。

 家々に、

 明かりが灯り始める時刻。


 怒っている筈の拳法も、

 しかしすっかり笑ってしまっていた。

 家庭を持つのって、

 こういうことなのかと拳法は思った。

 悪くない。

 こういうの、悪くない——


 しかし、そこまで考えて、


「ニーナ、家はあの時のままだよな、……」


 と拳法は訊いた。しかしその問いに答えたのは、意外にもヴォルフだった。


「えっと、道場の方はまだダメだけど、家の方は、けっこう片付けたから住めるよ、いちおう、……」


「ほめてあげてよ! ヴォルフくん毎日朝からあなたの家に行って片づけてたんだから」


「朝から、……ってことは、夜はいつも何処で過ごしてるんだヴォルフ?」


 地域の救護施設だろうか? 気にはなっていた。戦災孤児が激増しているため公的な施設はどこもいっぱいで受け入れ不能と聞いていた。


「わ、……わたしん


 横からニーナが答える。


「えっ? ……」


 と驚いて振り返る拳法の視線を、ニーナは横を向いて逸らした。白い頬肌ほおをこちらに向け、目線は完全に百八十度反対のやや斜め上に向けられている。


「ど、どういうことなんだ? おいヴォルフ、大丈夫だったか? な、何も無かったか?」


「——?」


 笑顔のまま、しかし不思議そうな眼を拳法に向けるヴォルフ。


「ある訳ないじゃない! わたしこう見えても連邦捜査局の捜査官なのよ?」


「おふろは一緒に入ってたけど、寝るのはもちろん別——」


「わーっ! わーっ! わーっ! ちょっ、ヴォルフくん、それは誰にも内緒って、……」


「おいニーナ! おまえ、それは児童虐待ってことになるんじゃないのか? 」


 さすがに怒気を込めて、そのダイナマイト&スレンダーボディの女性捜査官をたしなめる。


「別に何かしたいとか、そういうことじゃなくて、燃料費の高騰とか、……先生も知ってるでしょ?」


 言い訳だ。アイロンがパリッと効いた白いワイシャツに、とても、とても窮屈そうに包まれたニーナのロケット形のバストを、拳法は睨め付ける。


「こいつの過去を、おまえだって——」


「せんせ、別にぼくは平気だよ」


 少年がニーナに助け舟を出す。


「せんせ、別にぼくは平気だし、先生が心配してるようなこと、何も無かったよ。それに——」


「それに?」


「おとこの人とおふろ入るより、ずっと安心だし、……」


 そう言って、少年は(ふにゃっ)と笑った。

 その言葉に、拳法は最初驚いて、

 しかしすぐに、

 ああ、そうか、そうかもな——

 と思い直した。


「これからは一人で入るんだヴォルフ」


 そしてそう言うと拳法は、猫の毛のような少年の、その銀色の髪を撫でた。


「じゃ、早く帰って夕食にしよう。ニーナ、おまえも食ってくだろ?」


「またカレーなの?」


「嫌なら食うなよ」


「あは、うそうそ」


「おいしいよね、カレー、ぼく好き」


 そんなことを言い合いながら、三人は暮れ始めた家路を急いだ。


「ニーナさんも一緒に住めばいいじゃん! どう? いいアイデアだと思うんだけど」


「えっ? でもそれは、……わたしの方は別に、……だけど」


 そんな会話をする二人をよそに、拳法は一人、夜の闇に覆われ始めた空を見上げた。


 星は、やはりまだ見えない。


 しかし、拳法はわずかに口元に笑みを浮かべる。

 時代の展望は、決して明るくない。

 しかし自分には、

 非常を生き抜く知恵である武術と、

 この身の内にひそむ、

 地から湧き上がる程のがある。

 ヴォルフが、

 一人前の(男)に育つ、その時まで、


(この子を護る——)


「ねえ、先生どう思う? 三人で住むの、いいアイデアでしょ?」


「ちょっ、ヴォルフくん待ってよ、……」頬肌を赤くして、アセるニーナ。


 拳法は、

 少年の言葉に、笑みで答える。

 しかし、

 拳法はまったく違うことを考えていた。


(泣き言を言っても許さない、ヤメたいと言っても逃がさない、必ずおまえを、一人前の戦士に育てる——)


 漆黒の地平に燃え落ちる、

 血塗れの真っ赤な、

 夕日——


 西の空に、やはり星は見えない。


(だからどうしたと言うのだ?)


 拳法は笑う。


「ほら、いいってニーナさん!」


「でも、……う、うん」


(武術は非常の時代ときの技術だ。逆に平常の時代には役に立たず、娯楽、ペテン、まやかしと化す)


 少年のきらめく眼差しと、輝く笑顔とに、拳法は眼を細める。


(そして武術家は、非常の時代ときの人間だ。平常の時代にはうまく世に馴染むことが出来ず、怖れられ、さげずまれ、嫌われる)


「ヴォルフ」


「はい」


(そしてオレは、おまえを道連れにする。それでもオレは、おまえを非常の時代ときを生き抜くことに最適化した、戦士に育て上げる)


「オレはおまえを、必ず一人前の武術家にする」


 少年は、

 こどもにようなまるい頬肌に、

 少し得意げな笑みを浮かべたまま、

 こちらを見た。

 そして、

 その表情のまま、少しの間、黙った。


 おんなの子のような横顔が、

 ごく自然に、静止した。

 まるで、

 一瞬の笑顔を切り取った、スナップ写真ショットのように。


 思わぬ反応に、

 拳法は期せずして息を呑んだ。

 少年のその様子は、拳法の発言の真意を、

 単に計りかねているようにも見えたし、

 逆にその意図を敏感に感じ取り、

 判断を留保しているようにも見えた。


 拳法は笑顔を浮かべたまま、

 しかし瞬きが出来なくなった。

 こめかみに、

 汗がひとすじ伝うのを感じて、

 拳法は、

 主導権が眼の前の少年に、

 完全に移ってしまっていることを知った。


 表情を変えない、

 沈黙の間、

 ただそれだけで。


 しかし、

 すぐにそれは杞憂であると知れた。

 一秒に満たない時間の後、


「うん、ぼくやるよ、変わりたい、……」


 笑顔は、消えていた。

 ごく、真面目な表情——

 そしてそれはすぐに、

 今にも泣き出しそうな顔に変わった。


 拳法は、はっとして、

 しかしすぐに眼を伏せて、

 ヴォルフの肩を掌で優しく叩いた。


 強くなりたい——


 そう願うに至るには、

 誰にも、切実な願いがある。

 余人には分からない、

 言い知れぬほどの思いが、理由が、

 きっとあるのに違いない。


 きっと今、この少年の、

 その胸の内に、

 その頭の中に、

 その瞼の裏側に、

 その理由が、映っているのに違いない。


 少年は、

 下を向いたまま、

 地面に涙の粒をこぼしながら歩いた。


「どうしたの、……?」


 気付いたニーナが、少年に声を掛ける。

 しかし拳法はそちらは見ずに、

 黙ったまま、

 ただ少しだけ、歩調を弛めた。





———『狼の子供』 了







































































































































































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狼の子供 刈田狼藉 @kattarouzeki

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