第35話:「ヴォルフ・ビーン・ディラン、――おれの、……名前」

 

 夕刻の、

 人気のない道を男は歩いていた。


 陽が伸びたせいか、

 日没まではまだ時間がありそうだった。

 西の地平にかかった日輪の残光が、

 川べりの道を、

 一面、赤く、染めていた。


 のどかな、

 早春の夕暮れの景色。

 しかし、

 山火事の、その燃え狂う火焔を想起させるような、非現実的な赤さだった。


 血のような、赤さ。


 男は、拳法だった。

 今日、晴れて解放され、

 家へと帰る、その途中だった。


 デリンジャーのアジトでの一件から、

 もうすでに二ヶ月が経過していた。

 一ヶ月は警察病院に入院していて、

 その後の一ヶ月間は、留置所に拘留されていた。


 これといった取り調べや訊問などは無く、

 簡単な聴取を数回受けた以外は、

 部屋でただ日々を過ごしているだけだった。

 それは捜査上の都合、などでは断じてなく、

 連邦捜査局サイドの書類上の手続きが一通り終わるのを、

 ただ単に待っているだけ、ということらしかった。


 ローディニア合衆連邦は、

 後に「太平洋二十年戦争」と言われた泥沼の全面戦争下にあり、

 激増する凶悪犯罪者と、

 破綻寸前の深刻な財政難から、

 比較的罪状の軽い犯罪者までもを刑務所に収容する余裕が、

 国家には、もうすでに無かった。


 この数年後には、

 犯罪者を摘発・収容・処罰することが完全に不可能となった合衆国は、

 国家に害なす犯罪者に賞金を懸け、

 一定の要件を満たす民間人を「賞金稼ぎ」として公認し、

 彼らに、

 犯罪者を殺害させる、

 という制度を導入するに至るのだ。


 数ヶ月前の同じ時刻、

 もうすでに暗くなった初冬の道を、

 ひとり歩いた時のことを拳法は思い出していた。

 遠く銃声が聞こえて、

 確か、物盗りの若者たちとすれ違った。

 そして、

 美しい眼をした、

 痩せた少年を拾ったのだ。

 いや、

 拳法は思う。

 オレが、拾ってもらったのだ。

 孤独で、

 すっかり凍えて、

 泣き出しそうなオレの精神こころを、

 ユリウスが、拾ってくれたのだ。


 あの時、オレは孤独ひとりだった。

 そして、


(今も、孤独ひとり、か———)


 あの後、外部との連絡は一切取れなくなり、戦災孤児であるユリウスの消息など、拳法が知る由もなかった。


 普通に考えるなら、そういう子供たちが暮らす救護施設に、もうすでに入所していると考えるのが自然だった。二ヶ月も、経ってしまっているのだ。


 たぶん、もう会えない。

 会えても、

 あの頃と同じ、

 という訳には行かない。


 美しい眼をしていたな、———


 拳法は思った。そして、一緒に寝ようと、枕を抱える頼りなげな少年の姿を、その未完成な佇まいを、思い出す。


 少しは、

 何か父親らしいことが出来ただろうか?

 少しは、

 彼の心に生きて行く糧を残せたろうか?


 そんなことを、考える。


 少年と共に過ごしたのは、

 決して長い期間ではない。

 しかし痛みに似た虚しさの満ちる、

 己の胸の内を覗いて見れば、

 護るべき存在を必要としている、

 それも泣きたいくらいに必要としている、

 そんな自分に気付いてしまう。


 ほんの、

 二ヶ月にも満たない間に、

 自分の心の構造が、

 こんなにも変わってしまった事に驚く。


 以前は、

 どんな気分で朝起きて、

 どんな気分で髭を剃って、

 どんな気分で飯を食って、

 どんな気分で呼吸をしていたのか、

 まったく見当が付かない。


 しかし、

 それにも、

 早く慣れてしまわなければならない。


「はっ」


 ワザと、笑ってみる。

 しかし胸の中の言い知れぬ痛みと、

 へたり込んでしまいたくなるような脱力感は消えない。


 視線を下げ、

 夕刻の影が覆う地面を睨み、

 地面だけを睨み、

 力を込めて、ただ歩いた。


 近付いてくる春の気配が、

 何故だか鬱陶しく、

 やるせない。


 だって、———

 もう、あの子はいないのだ。

 オレ一人なら、

 別に、寒いままでいい。

 オレ一人なら、

 別に、飢えたままでいい。

 オレ一人なら、

 別に、痛い目に遭ったっていい。


 あの子がいるから、

 暖かい季節が待ち遠しいし、

 あの子がいるから、

 今日の食事のことを考える。

 あの子がいるから、

 世界が平和で、安全な場所であって欲しい、と願う。


 あの子がいるから、———


 無言で、

 下だけを向いて、

 足裏で地を咬み続ける。


 ふと、


 武術家らしいカンの良さで、

 川べりの道の先、

 眩い夕陽のある方向を見る。


 そこに、

 二つの人影が差すのを、

 拳法は認めた。


 若い女性と、

 少年。


 すぐに分かった。


 ニーナと、

 ユリウスだった。


「はっ」


 もう一度、拳法は笑った。

 今度の笑いは、可笑しかったからだった。

 いい歳をして、ひどい一人相撲だ。

 笑ってしまう。

 笑うしかない。

 みんな去って行くと、

 勝手にカン違いして、

 そして一人、

 泣きそうな気分になっている。


 いつものダークスーツ姿のニーナが、

 眼鏡のレンズの向こうから、

 ニヤニヤ笑いながらこちらを見ていた。


 まるで———ユーリくん連れて来たわよ、気が利くでしょ? とでも言いたげだ。会いたかったくせに………そんな声が、聞こえて来そうだ。


 走り出しそうになる気持ちを、

 危ういところで押さえ付け、

 拳法は同じペースを保持し続けて歩いた。

 敢えて、

 横を向いたりしながら、

 ゆっくりと歩いた。

 うれしさよりも、照れ臭さが勝った。


「せーんせっ! おかえり」


 明るく、ニーナが言った。そして横を向いて、


「ほらっ、………」


 と横に立つ少年を肘で押した。


「おかえりなさい、………」


 少し含羞はにかみながら、少年は言った。


 真っ直ぐに拳法を見れない、その様子が、

 とても可愛らしいと拳法は思った。

 少女のような、

 きれいな顔、きれいな肌、細いからだ――


 自分に、もし娘がいたら胸にいだくであろう、

 甘く、くすぐったい気持ちを、

 しかし、

 拳法はぐっと噛み殺し、

 息子を鍛える父親の心構えで笑いかけた。


「ユリウス! ……元気だったか?」


 無難な一言。

 しかし少年は、

 ちょっと変な顔をして拳法を見た。


「ぷっ――」


 ニーナは小さく噴き出して、白い人差し指で口元を押さえた。


「……ん、なんだ?」


 拳法は分からない。

 不思議そうな顔の少年と、

 笑ってしまっている若い女性とを交互に見る。


「おれ、……」


 少年が、何かを言いかける。


(えっ、――?)


 違和感に、拳法は黙った。


 ユリウス、……今、……なんて言った?


 ぼく。

 ユリウスなら、自身をそう呼ぶハズだった。

 ユリウスじゃないような気がした。

 ユリウスそっくりの、見知らぬ少年――


 そして、或る意味、それは当っていた。


「はじめまして」


 ニーナが、少年に代わって言って、

 そして少年の細い腕を、肘で、

 笑いながらわりかし強めに突っついた。


(ほら、……!)


 小さく、少年にそううながす。


 きらめくまなこで、少年はニーナを見上げ、

 そして恥ずかしげにまぶたを伏せると、

 次に、上眼づかいにおずおずと拳法を見て、


(星屑のようにきらめく瞳が、赤く上気するおんなの子のような頬と相俟あいまって、はっとするほどきれいで、印象的だった)


 そして、恥じらいにその眼を細めた少年は、

 しかし、はっきりと、自らを紹介した。


「ヴォルフ・ビーン・ディラン、――おれの、……名前」


「ああ、……」


 そう言って、拳法は笑った。


「そうだったな、でも、なんか少し……」


「ビーン、は私のアイデア、ちょっとカッコいいでしょ」


 そう、

 セカンドネームはビンセントのままだったハズだった。


「そうか、なるほどな、……でも、目上の人に『おれ』って言うのは良くないな、仮にもオレは、おまえの師匠だしなヴォルフ」


「ほら、……」


 しかしヴォルフ少年は、

 拳法にではなくニーナに向かってそうつぶやくと、

 やや拗ねたようなジト眼で、ニーナを責めるように見た。


「そんなこと言ってたらオトコらしくなれないぞっ!」


「なんだ、おまえかよニーナ! 変なこと教えるなよ」


 そう言って拳法は、笑った。

 良かった、

 呼び名以外はまだ、ユリウスのままだ。

 安心した。

 いや、うれしかった。


「ぼくも先生せんせえに向かって『おれ』って言うのは違うと思う」


 少年は言った。

 彼は確かに戦災孤児だが、

 本来は、

 きちんとした家庭で、愛情あふれる両親に、大切に育てられた子なのだ。


「そうだな、そのうちおまえにも同じ年頃の友達ができる。そうしたら『ぼく』じゃなくて『おれ』って言えばいい。気心の知れた友達になら、それでいい」


 そう言って、思わずあたまを撫でそうになったのを、

 すんでのところで踏み止まり、

 少女のような小さい肩を、

 横から掌で、ぽんっ、と叩いた。

 軽くて、やわらかくて、あたたかな手応え——


 ユリウスだ。


 拳法は、

 しあわせな気持ちに、少しだけ相好を崩した。


「ねぇ先生せんせえ、……」


 急に下を向いて、

 ヴォルフは言った。


「なんだ、ヴォルフ?」


 しかし黙ったまま、

 少年は次の言葉を、なかなか言うことができなかった。

 頬を真っ赤に上気させながら、

 瞳を横に流して視線を合わせないヴォルフ。


「どうしたの?」


 ニーナもヴォルフに注意を向けた。

 これから少年が何を言おうとしているのか、

 彼女も知らないようだった。


「ぼくね、……」


「どうした? はっきり言っていいんだぞヴォルフ」


 告白をためらうおんなの子のように揺れる瞳を左右に泳がせていた少年は、

 意を決したように息を大きく吸い込むと、

 真っ直ぐに拳法の眼を見た。


「ぼく、先生の子供になってもいいよ、……ツカハラ・ヴォルフでもいいよ」


 そして、

 恥ずかしさに耐えかねて眩しげに視線を逸らし、

 ちょっとだけ、

 涙眼なみだめになった。


「くっ、……」


 告白を恥じらう少女のような、

 そんな危うい姿態に、

 拳法は思わず、

 その少年の小さな肩と、

 ふわっとたなびく銀髪とを、

 自身の武骨な腕と、胸とに、


 抱き締めてしまった。


「くそっ、本当におまえ、何でそんなに可愛いんだよ……」


 そんな言い訳じみた独り言を口走る。


「せんせ、……」


 拳法は、

 ヴォルフの子猫のような髪を撫で、

 そのこどものような頬の柔らかさを確かめ、

 娘のような頸すじをなぞり、

 そして華奢で小さな肩の、

 その肉の柔らかさとを味わった。


 少年は、

 武道家の分厚い胸におでこを押し付けたまま、

 何を思っているのか、

 下を向いたまま黙っていた。

 しかし、

 肩を摑む拳法の手に力が籠ると、


「……っ、せんせっ」


 と、敏感そうな眉をしかめ、

 小さく声を上げた。


 その声に力を緩めると、

 拳法はそのまま、

 十三歳の少年のたおやかな背すじを撫でて、

 それから両手を、

 少女のようなか細いウェストにすべらせた。

 そしてそのウェストを、

 大きな男の手でがっちりと摑んだ。


「えっ、ちょっ、せんせっ——?」


 異性の腰を抱く、

 男の手、——


 そして、

 その手に、

 徐々に力が籠って行った。















































































































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