第34話:行かないで、がいちばん近いけど、それは無いものねだりで
「武術を教えといて、でもその秘訣は教えない、なんて、本当はそんなもの無いんじゃないの? だから勿体ぶった素振りで、語らない。教えない。無いからよ、そんなもの、ちがう?」
「ちょっと、………っ!」
頬を膨らませて抗議しようとするユリウスのくちびるを、ニーナは人差し指でふさぐ。視線は、まっすぐに拳法を見据えたままだ。
少年は、はっとした。
すると、拳法は、とても奇妙なことを始めた。奇妙、だった。違和感があった。その場に、雰囲気に、まったくそぐわない行動だった。
拳法は、急に踊り出した。沖縄の、民謡のような、田舎の、盆踊りのような、素朴な動き。両腕で、互い違いに大きな円を描きながら、それに合わせて片足ずつ交互に上げる。そうして全身を左右に揺らしてのんびりとリズムをとるような、滑稽な、可笑しみのある動き、———
拳法は、真顔だった。真顔で、その滑稽な、盆踊りじみた動きを続けている。
ふざけてる?
気が狂った?
「せんせえ、………?」
その真意を測りかねて、その白い肌のまぶしい半裸のこどもは、拳法に声をかける。
「ちょっと先生、ふざけてるの? それとも、殴られすぎで壊れちゃった?」
拳法はそんな二人を見ると、その踊りのような動きを止め、わざと視線を横にそむけて、大きく、ため息を吐いた。
「だから言ったんだ、簡単には教えられない、分からないって、………」
「………?」
「………??????」
眼を点にして固まる二人に、拳法はそれでも語り出した。分からないだろう? と、思い知らせようとするように。
「人間は、もともと猿だった。そして、その前は、四つ足の動物だった。人間が二本の脚で立って歩くようになったのは、たかだか五百万年前のハナシで、それ以前はずっと、四足歩行していたんだ。哺乳類が誕生してから二億三千万年前もの間、そのほとんどの期間を、四つ足の動物として俺たちは過ごしてきたんだ。その、いいか? 俺たちのからだの中に、基本的な機能として深く、強固に組み込まれている、四つ足の動物だった頃の、メカニズムを、使うんだ」
「その何だかむずかしい話とさっきの
「教えない!」少しむくれて、拳法はそっぽを向いてしまう。
「なんで? なんでよっ………」
「ヘンな、とかって言うからだよ………」
ユリウスが小声で、ニーナの無神経を咎める。すると横から、
「もういい加減にしてくれ」
と言いながら、先程のベテランの捜査官がニーナを押しのけて割って入って来た。
「その辺でいいだろう? もう話は終わりだ! 他の奴らはだいたい検挙した、あとはそこの強盗の親分と、物騒なカンフーの先生だけだ」
(ん?………っ!!)
最後の方に、聞き捨てならない言葉が紛れ込んでいた。
「ちょっ、まっ、待ってよ! 拳法先生は関係ないじゃない、検挙ってどういうこと! 先生は被害者なのよ?」
「せっ、せんせいは、ぼくを、助けようとして………」
「そうよ、デリンジャーの仲間じゃないわ、カン違いしないで!」
しかし男は、細めた眼でニーナを見据えながら、声を厳しく低めて言った。
「
「そんな………」ニーナは言葉を継げなくなった。
(ぼくの、せいだ………)ユリウスはくちびるを噛んで下を向いた。
しかし拳法は平気な顔をしていた。そして、辛そうな表情のニーナに向かって言った。
「気にするな。お前のせいじゃないし、警察も間違ってない。あれだけ暴れたんだ、しょうがない。どうなるか分かってて、本気で殴ったんだ。それに———」
一呼吸おいて、拳法は笑った。
「楽しかったしな」
驚くほど残忍な影が、その相貌に差した。
「それより———」
拳法は真顔に返り、ニーナを見た。
「ユーリを頼む」
「分かったわ」
「せんせえっ!」
ユリウスは叫んだ。しかし次の言葉が、出てこなかった。
ごめんなさい、
とは少し違うし、
ありがとう、
だと今この場面にそぐわない。
行かないで、
がいちばん近いけど、
それは無いものねだりで、
まるでわがままなこどもみたいだ。
言葉にならない想いが、涙となってあふれてくる。
そんな、まだ
優しい、父親のような眼差し。
「暴力に訴える者は、暴力によって滅び、何とか生き残っても、世の中が許さない。歴史が許さない。正義のために戦っても、武力・暴力に訴えた者は、必ず厳しい制裁を受ける。暴力という手段に訴えたオレがどんな目に遭うか、よく見ておくんだユーリ———」
「でもっ、それは、ぼくのために………」
「ユーリ、………お前の言うとおりだ」
「えっ?」
「言ってたじゃないか、『ぼくと一緒に逃げよう』って、あれが正解だ。あの時に逃げるべきだったし、そんなこと、もうあの時に分かっていたんだ。でもそうしなかったのは、オレが、戦いたかったからだ、オレは拘束されて、法律に裁かれて、罪を償う生活を送る、だがしかし、オレには悔いはない、磨き続けた武術を生きた人間で存分に試せて、むしろ幸せな気分だ、………なあユーリ、オレはこういう〇〇ガイだ、お前は、同じになるな」
後悔ともとれる言葉、しかし、拳法は晴れ晴れとした顔をしていた。
「ぼくに、………」
少女のような肢体の、その半裸の少年は、拳法のそばに歩み寄った。
成長期によくあるアンバランスな長さの脚が、その肌の白さが、まぶしかった。
「武術を教えてくれないの、………?」
拳法は、表情は変えず、しかし眼だけを僅かに見開いた。
驚いた、———
その眼は、ユリウスに対してそう告げていた。
拳法は、その眼のまま、瞬きもせず少しだけ考えに沈んだ。
そして、
「教えてやらないでもない、………ただし、条件がある」
「え? ………」そう呟くとニーナは、ユリウスの子供のような丸いフォルムの双臀を見た。いやまさか………
ユリウスは、まっすぐに拳法を見ていた。そしてはっきりと頷いて見せた。その眼に、迷いは無い。
「ユーリ、今日からお前はユリウスではなく、ヴォルフと名乗れ」
「ヴォルフ、………?」
「ヴォルフ・ビンセント・ディラン、だ」
そう、拳法は言った。
「お前は見た目がきれいで、なんだ、その、年頃のむすめのみたいで、それは別に悪いことじゃないが、悪い連中から侮りを受け、利用しようと付け込まれてしまう」
「ユーリくんの名前を変える、ってこと?」
「氏名を法的に変更する必要はない、名乗りを変えればいい、それでイメージがかなり変わる。名は体を表す、俺の国の言葉だ。「
「名前がユーリくんを、護ってくれる、っていうこと?」
「少しだけな。だが人付き合いも、勝負も、護身に於いても、やはり「構え」が重要なんだ。余計な攻撃を事前に封じてしまう、ということは、兵法に於いても処世に於いても、必要なことなんだ」
「分かったよ」
涙をぐっと拭い、そして強い声でユリウスは言った。
「ぼくは、狼になる。ヴォルフって名乗る」
そして涙に濡れた手のひらを、今度は胸に、ぎゅっと押し付けて見せた。拳法は眼だけで笑い、小さく頷いた。
「さ、行くぞ、………」
捜査官がそう言うと、横にいた部下が拳法に手錠を掛けようとしたが、緊張で手が震えてしまって、うまく掛けられなかった。それはそうだろう、猛獣に素手で首輪をかけるようなハナシだ。しかし拳法も手を上に上げて協力し、何とか手錠を掛け終わると、拳法はその捜査員に連行された。
ニーナはユリウスと並んで見送りながら、少年の、その濡れたように美しい髪を、撫でた。
「その女の子はどうしますか?」捜査員が訊いた。
「少年よ、それもオオカミって名前のね」
「あっ、失礼しました、………で、どうしますか?」
「私の方で保護するから心配しなくてもいいわ」
「はあ、………」
そう呟くと、その少年の危ないくらいに長くて白い
**
拳法は、
それはそうだろう———
控えめに言っても拳法の姿は「
「やれやれ」
助手席でタバコに火を点けながら、例のベテランの捜査官はぼやいた。
「これじゃ事情聴取どころじゃねえな、
ハンドルを回して窓を開けると、つまらなそうな顔で煙を外に、細く、長く吐き、そのままふと、夜空を見上げる。星は、出ていない。
「おい、このまま病院に回せ。
そう指示しながら、しかしすぐにつまらなそうな顔に戻り、窓べりでタバコの灰を落とした。
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