第33話:ちがう、我流の拳法だ、長年学んだ空手、ですらない。


 額に流れてくる黒い血を一筋、汚れた指で拭い取ると、拳法は再び語り出した。そしてその瞳には、何者かに対する怒りの色が浮かんでいた。その感情が怒りである証拠に、拳法はほとんど瞬きをしなかった。


 **


 例えばここに、武術を学ぼうとする若者がいて、その前に師が立っていたとする。その師は、元々はこう説いていた筈なんだ。


「お前に戦場で闘う術を授けん、だがそれに先立ち、まずこれを習い、修めるべし」と。


 これが、徒手空拳術だ。負荷のない状態で、身法と術理とを、その体に叩き込んだんだ。ところが、ある時点から、師はこう説くようになったんだ。


「お前に闘い方を教え、武術の秘訣を授ける、素手での格闘術だが、お前は強くなり、どんな敵とでも十分に闘える」と。


 戦場で闘えるその基礎を養う手段としての徒手空拳術が、目的そのもの、武術そのものと摺り替わってしまったんだ。いずれは武器を持って戦う、という前提が隠されてしまった。無くなってしまった。


 若者は、しかしその師に一心に憧れて、厳しい修行を自らに課して、やがて一廉ひとかどの武術家となり、道場を構えて多くの門弟を取り、そしてその門弟たちにこう説くのだ。


「私の教えを守り、修行を続ければ、やがて術理に開眼してその奥義を極め、無敵と称されるに至らん」と。


 こうして本来の術理を知らない師に教えを受けた武術家たちが育ち、皆伝を受けた彼らがまたそれぞれ多くの門弟を取り、育て、またその孫弟子たちがやがて皆伝を得て門弟を取り、・・・・・・・・・


 そうして、

 徒手空拳術が元々は何だったのか?

 徒手空拳術は何のための物なのか?

 その最も重要な部分が、失伝してしまったのだ。


 武術家は、

 特に競技ではない古流伝承武術を学ぶ者は、

 よく「実戦」という言葉を使うが、

 その「実戦」の詳細な意味を、一度訊いてみたいものだ。


 もしそれが「素手ゴロ」(素手でのケンカ)だって言うなら、

 もうそいつから何一つ学ぶものなど無い、

 ………とまでは言わないが、

 少なくともそいつは、

「武術とは何なのか?」

 という肝心な事がまったく分かっていない、という事になる。


 **


「嘘にまみれた武術、金のためのペテン、特殊詐欺だなまるで、そしてお前はその片棒を担いでるってワケだ、塚原拳法よ!」


 強盗団の頭目であるその大男は、乾いた眼で拳法を見た。そして、その眼を細めた。


「オマエが世の武術家をすっかり軽蔑し切っている、ってことはよく分かった。でも、それじゃ、俺の質問の答えになってないぜ?」


「………?」


 皆の視線がデリンジャーに集まる。しかし、拳法は一人、視線を逸らして暗い天井を見た。


「なぜ素手で闘う? なぜそんなになってまで、素手で闘うんだ?」


 最初に投げかけられた、問い。しかしそのシンプルな問いに、拳法はなぜか眼を細めて口をへの字に曲げ、急に頭をバリバリと搔き出し、すぐに、


「痛てッ!」


 といって血の付いた手を見た。そして、


「くそッ!」


 と独り言ちて今度は無精ひげをゴシゴシとこすり出し、こちらをチラリと一瞥し、すぐに眼を逸らしながら、短く、


「………好きなんだ」


 と、ものすごく小さな声で言った。


「………?」


 みんなの頭の上に浮かぶ大小さまざまな疑問符。


「声が小せぇ、聞こえねえぞ!」


 デリンジャーがイライラしながら訊き返す。完全に出来の悪い手下に対する時の、厳しいボスの眼になっている。


「ッ、………だから、その、す、好きなんだ、これが」


 そう言って、固く握った右拳を皆に示した。それは角張って、節くれ立って、いかにも硬そうな、武骨な拳だった。


 暴力のために、

 自らを傷め付けることによってあつらえた、

 凶器、———


 デリンジャーは、静かな眼で拳法を見たまま、何も語らない。

 ユリウスも、ニーナも、無心に、次の言葉を待った。

 その沈黙に耐えかねて、


「だからッ、その、………銃の方が有利なのは知ってる、そんなこと、このローディニア合衆国で、知らない奴なんかいるか? 要するに、なんて言うか、で、で勝ちたいんだ。銃で勝っても意味がない。空手で闘うからこそ、勝つことに意味があるんだ」


「つまり?」


「強いか弱いか?———なんてどうでもいい。オレは師や、先輩たちのことを尊敬していて、空手や、武術そのものに、何と言うか、………その、例えそれが兵法上の理に適っていなくても、やっぱりオレは空手をやるし、素手で闘う。空手が、やりたいんだ。強いか弱いか?———なんて、本当はどうでもいいんだ」


 ユリウスは、敏感そうな眼を大きく見開いた。先生は、今、とても大切なことを言ってる、と思った。


「つまり一言で言うと?」

「つまり………かっこいい、だからやるんだ」

「好き、ってことか?」

「そうとも、言える」

「やっぱオマエ変わってるよ」


 デリンジャーは笑った。可笑しかった。


「ねえ、ちょっと待って!」


 しかしそこで、若い女性の声。———ニーナだ。


「あなたを監視してる連邦捜査局の立場としては今の説明は納得行かないわ」

「へぇ、監視してるんだ」と拳法。

「そうよ、まさか知らなかった?」クールな表情で平然と返すニーナ。

「知ってるさ」笑ってしまう。悪くない。


「あの事件、………瀕死の病人が屈強な介護士二名を素手で殴り殺した、っていうあのニュース、あれはどう説明するの? その内の一人は、痩せ衰えて体重四十キロを切った老人の振りかぶった、その本来痛くも何とも無いはずのパンチを胸に受けて、にも拘わらず胸郭を囲んでいる肋骨が、前面だけじゃなくて背中側も全部折れて、肺と、心臓が、破裂したせいで死んだのよ?! 弱いなんてあり得る?」


「ニュースで俺も見た。そいつが背にしていた耐火構造のコンクリート・スラブの壁に、ひびが入った、って聞いたぜ」


「徒手空拳術が弱い、とは言ってない」拳法は返した。そして続けた。


「戦闘術そのものでは無い徒手空拳術は、術理を具体的な動きに落とし込んで修行者に学ばせるためのものだった。要するに術理を、体現したものなんだ。そして実際の戦闘の在り様に束縛されなかったことにより、術理だけをより集中的に、深く追求することが可能だったんだ。そういった意味において徒手空拳術は、術理そのものと言える。人類が到達した叡智が、その高みが、その伝えられた「形」と「動き」の中に、書き込まれているんだ。


 ———力とは何か?

 ———速さとは何か?


 純粋にそれを極めようとした試みの結果が、徒手空拳術だ。だから、徒手空拳術の術理は、戦闘の常識を一切斟酌しない、逆に、途轍もなく危険なものに昇華したんだ。例えば多くの人が「あれは健康体操だ」と切って捨てる太極拳は、実はまともに喰らえば即死間違いなしの、とても危険な技術の集合体だ。人体から、如何に強大な力を引き出すかを、純粋に追求した結果が、全身で大きく円を描く、あの動きなんだ。具体的な戦闘術ではないからこそ、逆に、あの境地に到達できたんだ」


「先生がやっているのは太極拳、なの?」

「ちがう、我流の拳法だ、長年学んだ空手、ですらない」

「自分で編み出した、ってこと?」

「というか、降って来たんだ、神鳴りカミナリに打たれた、誰かに教わった訳じゃない、しかし、自分で考えた、というのも違う、うまく言えない」

「どういう理論なの? どうすれば瀕死のおじいさんが十人以上を相手に暴れまわったり、あなたみたいに突撃錠のキマッたグリズリー級のバケモノを一撃で沈めたりできるの?」

「………」


 拳法は急に黙った。そして、笑いながら言った。


「教えない」

「なんでぇ?」

「簡単に教えてたまるか、奥義だぞ、それに、説明してもたぶん分からない、強さを追い求めて、さんざん苦労して、でも実は多くの人がそうであるように、その苦労がぜんぜん報われなくて、絶望して、自分が嫌いになって、でもやっぱり諦めきれなくて、結果的には一日たりとも休むことなく鍛錬を続けて、そしてその努力も当然のごとく一ミリも報われなくて、でも、それでも、石を咬む思いで修行を続けて、その果てに出会うから、分かるんだ、遠い道の果てに見つけるから、………価値がある」

「………言い訳ね、それも、へたな言い訳」


 しかしニーナは冷たく、そう断じた。めがねのレンズ越しの双眸そうぼうには、軽蔑の色さえ浮かべている。拳法は「えっ!………」と呟いて口をつぐんだ。意味が、分からない。


「おとこの人ってみんなそう! おとこのウソって、たいていそう! 自分の気持ちを大げさに言って、一般論を大上段に構えて見せて、ばかみたい! 奥義だの、秘訣だのって、そんなもの無いんじゃないの? 教えないんじゃなくて、教えられないんじゃないの? 何故なら、そんなもの無いから」




























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