第4話 変化していく世界

 GWが明け、新型コロナは感染症法上の位置づけが5類へ移行した。

 今までは、人と会話をするようなときや密になるときは必ずマスクを付けなくてはいけなかったが、今度は「症状があるとき」や「家庭内に感染者がいるとき」、あとは「医療機関や高齢者施設に行く場合」に変わったので、マスクを外している人たちもちらほら見かける。


 とはいえ、まだ5類に移行したばかりだからか、抵抗がある人もいるようで、ここまで来る電車のなかや学校でも、マスクをしている人が多いし、学食のテーブルもパーテンションで区切られたままだ。


 でも、少しずつマスクを外していく人が増えていけば、きっと俺もマスクを外すだろう。そして店に設置された消毒液も、どんどん減っていくのではないだろうか。そうすれば、きっと原さんの手の具合も良くなる。でも……、マスクや消毒液で守られていた人たちがいたのに、それでいいんだろうか、とも思う。


 経済を動かさないと、困る人もいる。

 しかし、新型コロナに罹ったら困る人もいる。原さんの弟のように。


 社会はどちらも救うことはできない。だから、どちらか一方を犠牲にするのだろう。

 いくら人間が倫理を説いたところで、やはりこの世界は強者が生き残る仕組みになっているのかもしれない。


「そっか。弟さんのためにしていたんだね……」


 俺はぽつりと呟いた。


「天沢君?」


 彼女には聞こえていなかったのか、不思議な表情を向けられる。俺は慌てて話を逸らした。


「あ、えっと……、実は原さんのその手、心配していた人がいてさ。松岡って言うんだけど……」


 もちろん、松岡理玖りくのことである。

 そして俺は、きっとあいつに原さんの手のことを聞かれなかったら、スーパーで見たおじいさんの手を気にすることもなかっただろうし、今日、原さんに声をかけることもしなかっただろうな、と思った。

 松岡はきっと、人の痛みを人一倍気づいてやれる、根っ子の部分から優しい人なのかもしれない。


「松岡君……? あ! 前に教科書を見せたことがある人のことかな?」

「そうそう、そいつ」

「何か……恥ずかしいな。こんなみっともない手を心配してもらうなんて。あの、何でもないから、気にしないでって言っておいてもらえるかな?」


 笑いつつも、申し訳なさそうな顔をする原さんに、俺は言った。


「原さん。松岡に弟さんのことを話すのはダメ、かな?」

「え?」


 原さんは少し驚いた顔を見せる。


「俺も松岡のことよく分かってるわけじゃないんだけど、本当に心配してたみたいだから。あ、もちろん他の人には言わないよ」

「まあ、それならいいけど……」

「あの、さ」


 俺はテーブルの下で、両手をぎゅっと握りしめて言った。


「すごいって思うよ。弟さんのためにちゃんとやっていて。俺なんかアルコール消毒なんて気分でやってたのに……」


 そう。気分。

 アルコール消毒をすることで、多少は意味があるのだろうとは思う。だが、俺のなかでは、やってもやらなくてもどちらでもいい存在になっていた。


 原さんが自嘲するように、彼女の手は単なる自虐な行為にも見える。アルコール消毒さえしなければ、このような手にはならなかったのだから。俺も事情を知らなければ、「馬鹿だろう」「そこまでする必要ある?」とあざけていたかもしれない。

 でも、彼女は自分の手を傷つけてまでも、そうせずにはいられなかった。


「そうなるのも無理ないよ。普通の人だって、アルコール消毒をしすぎれば手が荒れるし、ほどほどにやったらいいんだよ。それに―—」


 といって、原さんは力なく笑う。その笑みの奥には不安があるように俺には思えた。


「マスクをすることを強要する場面も、減って来ると思う。だから、余計しなくてよくなるんじゃないかな」


 原さんはそう言って少し困ったように笑う。

 きっと彼女は、これからもマスクをし続け、アルコール消毒をし続けるのだろう。守りたい家族のために。


「……そうだね」


 俺たちがマスクをし続けきた三年間。

 ここで失ったものも沢山あった。だけど、知らないうちに、守られたものも沢山あるんじゃないだろうか。

 今まで守って来たものを、どこまで守れるか。

 これからまた考えなくてはいけないのだろうなと、俺は彼女の優しさのために傷ついた手を見て思うのだった。


(完)

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荒れた手の優しさ 彩霞 @Pleiades_Yuri

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