第3話

 最寄駅からバスで十五分。

 ふるさと園の看板が見えた先のバス停で、バスを降りる。

「行ってきます」

 顔なじみの運転手さんに声をかける。

 いま降りたばかりのバスをちらりと振り返ると、運転手さんがにこやかに「いってらっしゃい」と声をかけてくれた。

 わたしがふるさと園で働きだしてから2年が過ぎた。初めは失敗だらけの日々だったけど、もうすぐ三年目になる。

 いろいろ大変なこともあるけれど来週には新人職員も入ってくることだし、もう少し気合を入れて頑張らなくっちゃ……なんて思いながら、更衣室で制服に着替える。

 今日は、朝のうちにリハビリの付き添いがある。午後からは近所のショッピングモールまで外出介助、レク教室、それらの合間に食事やちょっとしたお茶の時間、入浴などなど。

 事務所に顔を出して上司や同僚と挨拶を交わしてから、仕事に入る。

 まずはリハビリの呼び込みだ。時間になればだいたいの入居者はリハビリ室にやってくるけれど、そうでない人もいる。強制ではないけれど、居室から出てこない人には声をかけてリハビリ室へと誘導する。

 今朝は、ミチ子さんが部屋から出てきていないと聞いた。ミチ子さんの部屋に向かうとそっとドアをノックする。

「山本さん、リハビリに行きませんか」

 声をかけると焦らすようにゆっくりとドアが開く。

「おはようございます、山本さん。リハビリに……」

「ちょっとあなた。朝食に薬がついてなかったわよ」

 鬼のような形相でミチ子さんが言った。

「薬、ですか」

 ミチ子さんは朝食後に降圧剤を服用している。薬は基本的に施設が管理していて、服薬のタイミングにあわせてお薬を渡している。

「そうよ。あたしの血圧の薬はどうなっているのかしら?」

「今、確認します」

 慌ててそう告げるとわたしは、事務所に向かおうとする。

「お待ちなさい。逃げる気でしょう」

 腕を掴まれ、ミチ子さんの部屋に連れ込まれそうになる。

「違います、誤解です」

 わたしはただ、誰が配薬したのかを事務所で確認したかっただけなのだ。

「待って。話を聞いてください」

 ミチ子さんの手から逃れようとすると、髪を鷲掴みにされた。

「薬を出し忘れたからって、逃げる気なんでしょう。なんて失礼な!」

 ギリギリと髪を引っ張られる痛みでわたしの目に涙が滲む。

「年寄りだからって馬鹿にしてるのね。まったく、失礼極まりないわ」

 そんなことは、決してないのに。

 わたしは、わたしが出来ることを精一杯こなしている。このふるさと園で暮らす人たちの日々の生活が少しでも楽しいものになるように、自分なりに心を砕いているつもりだ。

「許しませんからね」

 そう言ってミチ子さんが手を振り上げる。

 叩かれる……そう思ってわたしは、きつく目を閉じた。

「山本さん」

 不意に廊下のほうから声がした。

「お薬が落ちてましたよ、食堂の椅子の下に」

 薬の包みを手にした浅川さんが、ミチ子さんのほうへと一歩近寄り、冷たい眼差しでじっと見つめる。

「あ……あら、落ちてたのね。嫌ねぇ、あたしったら」

 そう言うとミチ子さんは浅川さんが持っている薬を受け取る。それから、何事もなかったかのように踵を返して足早に食堂へと向かって歩き出す。

「嫌ねぇ、山本さんったら」

 浅川さんは無機質な冷たい声でそう言って、フン、と鼻で小さく笑った。

「気を付けないと、のぞみさん。あの人、嫌がらせの女王様なのよ。

 押しの弱い職員だと思ったらいい気になって平然と嘘をつくんだから」

 浅川さんは年下の先輩だ。年下とは言うものの、わたしにとって同性の同僚の中ではいちばん頼もしい存在でもある。

「ありがとうございます、浅川さん」

「あと、希さんが昨日用意した配薬分で山中さんの薬だけ今朝の分がなかったから、用意しといた。気を付けないと」

「あ……」

 重ね重ね、申し訳ない。

 わたしはしょんぼりと肩を落として「すみませんでした」と浅川さんに謝罪する。

「別にいいですよ。今度、焼き鳥おごってください。それでチャラにします」

 真面目な顔をして浅川さんは、冗談を言う。いや、冗談じゃないかもしれないけれど、わたしはそれでも構わない。浅川さんが時々こうして助けてくれるおかげで、なんとかやってこれているのだから。

「午後から大丈夫そうですか、希さん」

 午前中は特に困ることはないけれど、午後からの外出では山本さんの付き添いをすることになっている。何人かまとめての付き添いならともかく、マンツーマンでの付き添いはメンタルを削られること間違いなしだろう。

「んー……まあ、頑張ります」

 苦手な人だから担当を代わってほしいというのは、社会人としてどうなのだろう。うちの職場はそのあたりのことは特に何も言わないけれど、わたしは代わってもらうのが恥ずかしい。対応くらいできないのかと思われないかと、不安になることがある。

「わかりました、頑張ってください。何かあっても骨だけは拾ってあげますから」

 優しいんだか、厳しいんだか、よくわからない言葉を返されてしまう。

 浅川さんの少しつっけんどんな態度が苦手な人は、多い。わたしも最初の頃はよく失敗をして、浅川さんから冷たい目で注意をされたものだ。

 彼女の、きりっとしたあの態度が、羨ましい。

 なんて素敵なのだろう、浅川さんは。仕事は丁寧で正確で、それでいて素早い。

 わたしは小さくため息を吐き出すと、リハビリ室へと足を向ける。

 わたしは、わたしに出来ることをするだけだ。失敗もするし、まだまだ時間がかかってしまうこともある。支援の意味をとらえ間違っていることもある。だから一つひとつ、経験を積んでいくしかない。

 浅川さんや、名尾さんのように頼れる介護士になれるよう、沢山のことを経験していくしかないのだ。

 リハビリ室のドアを開け、既に集まっていた利用者たちにわたしは軽く会釈をする。わたしの入室に気付いた人もいるし、気付かなかった人もいる。

 機能訓練指導員の早川さんが口の動きだけで「遅い」と文句を言ってくる。

 わかっている。わかっているけど、こっちにも事情があるのだから、仕方がないじゃない。

 部屋の隅に置かれたパイプ椅子に腰を下ろすとわたしは、早川さんの合図に合わせて体を動かす。

 ミチ子さんも今は静かに体を動かすことに専念しているようだ。

 体を動かしながら私はそっと目を閉じた。

 よりはっきりと早川さんの声が耳に届いてくるのが心地いい。

「それじゃあ、そのまま体の力を抜いて。いち、に、さん……」

 聞こえてくる声に合わせてわたしは、淡々と体を動かし続けた。




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