第7話

 夜勤の日は、いつも怖い。

 ビクビクしながらふるさと園のドアをくぐり、業務を開始する。

 引継ぎはシンプルに、手短に。細かいことはパソコンに入力された記録で確認。

 数日前から体調を崩しているキヨさんは、昨日も寝付けなかったようだ。昼夜逆転になりかけているらしく、昼間はウトウトしていたようだけれど、夕方から覚醒している。今も居室で横になったままテレビを眺めている。

 このフロアはわたし一人が夜勤に当たっている。普段は一フロアにつき夜勤者一人となっているけれど、下のフロアの夜勤にはベテランの河合さんと新人の西崎さんが入っている。余程のことがない限りは大きな問題なく朝を迎えることができるはずだ。

 今夜も、今までのところ特に異常はない。

 わたしはほぅっ、と息を吐き出し各居室を確認して回る。

 早々と就寝している人もいれば、テレビを見たり本を読んだり、好きなことをしている人もいる。

 キヨさんはベッドをリクライニングにしてテレビの歌番組を観ていた。知っている歌が流れると、それに合わせて小さく口ずさんでいる。

 わたしはそっとその場から離れると、再び自分のやるべきことに集中する。

 就寝前のトイレ誘導やおむつ交換は慌ただしく、合間に歯磨きや寝間着への着替えを行うのでまるで戦場のようだ。下のフロアは自分で動くことのできる人が多いが、わたしが巡回を行うフロアは何かしら介助が必要な人がほとんどだ。休む間もなく動き続け、ようやく消灯時間がやってくる。

 居室の灯りが消えると、本当の夜勤が始まる。わたしたちスタッフの仕事は、巡回、記録の作成、トイレの対応などなど。

 就寝時間だからとテレビを消すと、キヨさんは「消さないで、まだ見たいのに」と訴えてきた。

 規則ですからと告げてテレビを消すと、今度は寂しいから一人にしないでとわたしの腕にしがみついてきた。

 どうにかこうにか宥めすかして居室を後にして、巡回を始める。

 静まり返った薄暗いフロアに、時折ドアを開閉する音が聞こえる。トイレに行く人の足音や、居室でコン、コン、と咳き込んでいる音だ。

 ドアののぞき窓から室内を見回して、一部屋ひと部屋、異常がないか確認していく。仰向けに寝ている人、廊下側に背を向けて寝る人、廊下側を向いて寝る人、うつ伏せに寝る人……いろんな姿勢で寝ているけれど、体調の優れない人ほど眠りの浅い人が多いように思える。

 一通り巡回を終えると、気付いたことを記録する。二巡目の巡回を終えてしばらくすると、下のフロアから河合さんと西崎さんがやってきた。河合さんはややぽっちゃりとした体格の、愛想のいい姉御系。西崎さんはスレンダーな現代っ子。介護系の専門学校を卒業したばかりのお嬢さんだ。

「お疲れ」

 河合さんがにこにこと笑いながら声をかけてくる。

 河合さんのこの笑顔を見て、わたしはホッと安心する。下のフロアは何も問題ないようだ。

「お疲れ様です」

 軽く会釈をしたけれど、西崎さんは顔をそむけたままじっとその場に立っている。

「返事ぐらいしなさい。新人だからやらされてるんじゃなくて、これはマナーよ、マナー」

 河合さんが指摘すると西崎さんは「っす」と蚊の鳴くような声でボソボソと返してきた。

 西崎さんは個性的な新人だと噂に聞いている。悪い人ではないのだろうけれど、癖の強そうな人だし、彼女と一緒に組んで仕事をするのは少ししんどいかもしれないとわたしは密かに思う。

「それより、少し休憩にしない?」

 河合さんは手にした手提げのバッグをこちらに掲げて見せてきた。

「こっちもだいたいひと段落ついたところだと思うんだけど」

 確かにひと段落ついたところだし、もう既に休憩時間に入っている。河合さんたちと一緒に休憩をするのもいいかもしれない。

「ええ、いいですね」

 夜勤中の休憩には休憩室と仮眠室の両方を使うことが出来る。

 わたしたちは休憩室を使うことにした。

 それぞれが持ち寄ったお菓子や夜食を広げて、息抜きの時間。何かあっても呼び出しブザーが鳴るから、大丈夫。

「そういえば長田さん、大変なんでしょう?」

 持ってきた大福にかぶりつきながら河合さんが言う。

「そうですね」

 何と返せばいいだろう。

 キヨさんの認知はあっという間に進んでしまった。最近では表情も硬く、言葉数も少なくなった。笑うことなんてほとんどない。時々、いつものキヨさんに戻ることもあるけれど。だけどこんなに早く症状が進行するだなんて、思ってもいなかった。

「……名前が、わからないんです。わたしのことも、仲の良かったスタッフのことも、わからないみたいで」

 ぽつりと告げると、なんだか涙が出そうになった。

 キヨさんは、料理教室が大好きだった。折り紙で作品をつくるのも得意だった。いろいろなことが出来なくなって、大事な思い出を一つひとつ忘れていって……これからどうなっていくのだろう。

「仕方ないよ。そういう病気なんだからさ」

 河合さんの言うことはわたしも理解している。

 認知症の薬は何種類か出ているが、特効薬といえるほど大きな効果を持つ薬はまだない。ただ症状の進行を遅らせるだけのものがあるだけだ。もっとも、キヨさんは服薬治療は行っていない。キヨさんの後見人である遠縁にあたる人が、治療薬は使わないことを決めたからだ。

「ま、あたしらに出来ることは、いざって時のために力をつけておくだけだね。いつ、何があっても、動じることなく利用者の支援ができるように、ね」

 そう言うと河合さんはもうひとつ、大福を口に運ぶ。

「食べといたほうがいいわよ、希さん。西崎さんも今のうちに英気を養っておかないと、いざって時に動けないわよ」

 河合さんの言うとおりだ。わたしも河合さんの持ってきた大福にかぶりついた。餡子の甘さが切なく感じられる。

 しばらく雑談をしたところで、会話が途切れた。

「さて、あたしらはそろそろ戻るとするかね」

 うーん、と伸びをすると河合さんは立ち上がる。

「ほら、行くよ」

 少し前から椅子に座ったまま船を漕いでいた西崎さんを連れて、河合さんは「じゃあ、朝まで頑張ろうね」と言って去っていった。きっとあの二人は仮眠室へ行くのだろう。

 わたしは夜食に持ってきたカップラーメンを食べてしまうと、時計を見た。

 まだ休憩時間ではあるけれど、キヨさんが気になる。

 少しだけ、と居室を覗きに行くとキヨさんはやはり起きていた。暗がりの中で目を開けて、じっと天井を見つめてブツブツ呟いている。

「長田さん、眠れないんですか?」

 声をかけ、ベッドのそばに行く。

「寂しいから傍にいて」

 そう言うとキヨさんは、私の手を求めて自身の手を差し伸べてきた。

「ここにいますよ、長田さん」

 わたしはキヨさんの手を取った。元々はふっくらとしていた長田さんの手は、気が付けばいつしか骨ばったガリガリの手になっていた。だけどそれでも、優しいおばあちゃんの手だ。

「ねえ……一緒に、お出かけしたわよね。ショッピングモールで食べたドーナツ、おいしかったわぁ……」

 キヨさんがまだ元気な頃、わたしは一緒に外出をしたことがある。近所のショッピングモールでドーナツを食べたし、喫茶店でホットケーキを食べたこともある。カラオケだって、行った。足を延ばして映画館まで出かけたこともあるし、近くの神社やお寺を巡ったことだってある。あの頃は楽しかった。キヨさんは元気で、料理教室で得意のクッキーを作ったり、煮物を作ったりしていた。折り紙手芸で玄関口にいくつも作品を展示していたものだ。

 いつもにこにこしていて、笑うとふんわりとした和やかな雰囲気があたりに広がる人だった。

「そうですね。長田さん、ドーナツふたつも食べてましたよね」

「映画も観に行ったわよねえ。とっても面白かったわぁ」

 ショッピングモールには、併設する映画館がある。話題作や、時々はキヨさんの好きなラブロマンスを観ることもあった。

「ねえ、寂しいのよ。ここにいてくれる?」

 ぎゅっと手を握り、キヨさんが訴えてくる。

「はい。ここにいますね」

 開いているほうの手でキヨさんの手をさする。拘縮気味の手を撫でると、キヨさんの指から力が抜けていくような感じがする。

「行かないで。ずっと一緒にいて……ねえ、大好き。大好きよ、希さん」

「ええ。ええ、また一緒に外出しましょうね、長田さん」

 折り紙作品がくしゃくしゃだろうと、エプロンの紐をくるくると回して結べなくなろうと、キヨさんはキヨさんだ。

 どんなに変わってしまおうとも、すぐ怒りよく笑う、折り紙と歌が好きなキュートなキヨさんだ。

「また、一緒に……カラオケに行きましょうね」

 だからまた、笑ってください。歌ってください。

 前のように、元気に……。

 認知症が治るだなんて、そんなお伽噺のような都合のいい奇跡が起きるはずがない。そんなこと、わたしだってちゃんと理解しているけれど、それでもこうして時折、以前のキヨさんと出会える瞬間が今はたまらなく愛おしい。

 時間の許す限りわたしはキヨさんの手を握り、骨ばった甲を撫で続けた。

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