第6話
待ちに待った休みは、朝寝坊から始まる。
だらしのないパジャマ姿で台所に降りていくと、母がスマートフォンで通話中だった。聞こえてくる声の調子からすると、兄と通話中のようだ。
「おかーさん。ご飯ないの?」
家事炊事洗濯なんて家の中では母に任せきりのわたしは、冷蔵庫からパックのオレンジジュースを出してくると、だらしなく直に口をつけて飲みながらキッチンの椅子に座る。
「ねえ、ご飯まだー?」
朝は、できれば白米がいい。あったかい白いご飯と、卵焼き。鮭の切り身とお味噌汁。それから時々は甘い昆布豆。
オレンジジュースを飲み干したわたしは、冷蔵庫の中を漁りだす。冷蔵庫に入っている菓子は母の手作り菓子だ。ハート型の容器の上段は鮮やかな赤いイチゴゼリー、下段はピンク色のイチゴムースで、トッピングにはハート型にカットしたイチゴとミントの葉が乗っている。
「おかーさん、このゼリー食べちゃうよ」
声をかけると一瞬、母はこちらに顔を向けた。わたしがゼリーを指すと、母はうん、うん、と大きく頷いた。
お許しが出たわたしは、大きな顔をしてゼリーにスプーンを入れる。
「おいしーい」
母のお菓子は世界一だ。洋菓子店のものも市販のものもそれなりに好きだし食べるけれど、わたしは母の手作りが一番好きだ。
ゼリーを全部食べ終えたところで、次はお茶を入れる。そろそろ兄との電話を切り上げて、母にはわたしの朝食を用意してほしいと視線で訴える作戦に切り替える。
兄との通話はまだ終わらない。いったいいつから話しているのだろう。随分と長い間話しているように思うけれど、いったい何の用事なのだろう。
「
スマートホンをスピーカー通話に切り替えながら母が言う。
何の用事だろう。
「律くん、なに?」
ゼリーを食べながらわたしはスマホに向かって喋りかける。
大学卒業と同時に十年越しの彼女と結婚した律樹は、わたしの双子の兄だ。
愛妻家の律くんには奥さんとの間に五歳になる娘がいる。
「
可愛い姪っ子のリクエストなら、会わないわけにはいかないかな。おしゃまな彼女は、叔母にあたるわたしのことをちーちゃんと呼んでくれる。律くんがわたしのことをちーと呼ぶから、いつしかそれを真似るようになったらしい。
「もちろん、遊びにおいでよ」
できたら休みの日に来てくれたら嬉しいのだけれど。
「相談したいことがあるみたいだから、今から行ってもいい?」
えらく急な話だけれど、わたしは「いいよ」と返す。特に予定もないし、今日は一日ダラダラして過ごすつもりだったから、どうということもない。グータラして過ごすよりは、可愛い姪っ子に会うほうがはるかに健全だ。
「じゃあ、今からそっちに向かうから」
「あ、ドンジュでケーキ買ってきて」
律くんの言葉に、わたしは即座に返した。
律くんのところからだと、途中で
「わかった。じゃあ、後で」
そう言って律くんは通話を切った。
「今日は
律くんの奥さんは小学校で教員をしているけれど、現在は二人目を妊娠中だ。ぎりぎりまで働いて、産休に入る予定だと聞いている。
「めぐちゃん、忙しいみたいだよ」
今回は公務員の律くんが育休を取るから、産休明けすぐに仕事に復帰するのだと愛実ちゃんは話していた。パワフルで、いつも生き生きとしている
「大丈夫なのかしら?」
「律くんが育休取るから、大丈夫なんじゃない?」
私立の幼稚園に通う史絵ちゃんは、両親が仕事で忙しい日は延長保育をお願いしているらしい。それでも延長が無理な時は母がお迎えに行くことがあるようだけれど、年に数回、あるかどうかだ。律くんが融通をきかせてお迎えに行っていると聞くと、やっぱり公務員は恵まれているなと羨ましく思う。
ふるさと園にも子育て中のスタッフはいるけれど、時間のやりくりが難しく、保育園やおじいちゃんおばあちゃんと連携を取りながらも四苦八苦している姿をよく目にする。
「それより、わたしのご飯は?」
尋ねると母が眉間に小さく皺を寄せる。
「睦花ちゃん、あなたご飯ぐらい自分で用意しなさいよ。いったい
ごめんなさい、面倒くさくて、つい。そんな言葉を飲み込んで、わたしは「あはは」と笑うのだった。
小一時間もかからずして、律くんと史絵ちゃんはやってきた。ドンジュの期間限定ケーキが手土産だ。
「やった、イチゴと桃とキウイのタルト!」
甘酸っぱいフルーツの味とあっさりとしたカスタードクリームの味。タルトの生地はザクザクとした食感のパイシート。大好きなドンジュのフルーツタルトは、幸せの味だ。
「ねえ、ちーちゃん。ユウコちゃんは大人になったらケーキ屋さんになるから、史絵はケーキ屋さんになっちゃダメって言うの。史絵、パパとママにばぁばに教えてもらったおいしいお菓子をたくさん作って食べてもらいたいからケーキ屋さんになりたいのに。意地悪なのよ、ユウコちゃんは」
顔を合わせた途端に可愛い姪っ子が、一気に捲し立ててくる。
ああ、相談って、そういうことか。わたしは姪っ子の姿を微笑ましく思いながら、彼女の頭を撫でた。
「ユウコちゃんは、しーちゃんのライバルなんだね」
二人一緒にケーキ屋さんになるのはきっと駄目なのだろう。
「そうなの、ライバルなの」
おしゃまな口調で史絵が告げる。
「じゃあさ、パパとママに、おいしいご飯もお菓子も作れる
そう提案すると史絵ははっと息を飲み、わたしを見つめ返してくる。
「コックさん?」
「そう。コックさんなら、おいしいご飯とお菓子、どっちも作れるんじゃないかなあ?」
史絵は祖母にあたるわたしの母からお菓子作りだけじゃなくて、いろいろ教えてもらっている。今はまだ手伝うぐらいのことしかできなくても、そのうち簡単な料理なら作れるようになるのではないだろうか。
「コックさんだったら、ご飯もお菓子も作れるの?」
史絵がわたしの顔を覗き込んでくる。
「お仕事から帰ってきた時にご飯が出来てたら、嬉しいだろうなぁ」
家事はからっきしのわたしには、とても魅力的に思える話だ。
「どう?」
と、わたしが尋ねた時には既に史絵の瞳はキラキラと輝きを放っていた。
「史絵、コックさんになる」
子どもの心は移ろいやすい。あっという間に
「じゃあ、わたしは史絵のお店のお客さん第一号になろうかな」
二人で言葉を交わしながら、ドンジュのフルーツタルトを切り分けてお皿に取り分ける。わたしと史絵、それに母と律くんの分だ。
「紅茶でいいかしら」
母が尋ねてくる。
「わたし、ミルクティーがいいな」
すかさず告げると、母に小さく睨まれた。
「少しは自分で動きなさい」
怒られるわたしを尻目に、要領のいい律くんが紅茶を用意して居間へと運んでいく。
その後をついていく史絵が、ちらりとわたしを振り返る。
「ちーちゃん、ミルク持っていくね」
いつの間に用意したのか、史絵は陶器のミルクピッチャーを手にしていた。
「さっすが、しーちゃん」
母がケーキを運んでくれているものだから、わたしは手ぶらで居間へ移動した。
「相変わらずちーは何もしないんだな」
呆れたように、律樹が言う。
「みんなの仕事を奪っちゃ、悪いからね」
だって、今日は貴重なお休みの日なんだもの。
わたしはそう言いながらそそくさと自分の場所に腰を下ろす。
忙しい毎日をリセットしてくれる時間が、今、ここにあった。
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