第5話
遊戯室の隅にはパチンコ台が並んでいる。その内のひとつはシゲルさん個人所有のもパチンコ台だ。
シゲルさんがこのふるさと園に入所するにあたって強く希望したのが「パチンコができる」ことだった。
以前から入所している利用者の中にもパチンコが好きな方が何人かいて、そのうちの一人が自腹でパチンコ台を購入したのが始まりだ。今、園には三台のパチンコ台がある。そのうち二台は園の備品となっていて、誰でも使うことができる。
下町のおっちゃんよろしくジャージ姿で施設内を歩き回るシゲルさんは、ふるさと園に入所するよりも前から糖尿病を患っている。食事が少ないと黙ってカップ麺やレトルト食品を買いに出かけることがある、困ったおっちゃんだ。
おまけにヘビースモーカーで、所構わずタバコを口に咥えている。最近でこそ喫煙室を利用するようになったけれど、最初の頃は自室で煙草に火をつけた途端に火災報知器が鳴り響いたことが数知れず。
愛嬌があるからか、それとも関西弁の気さくな雰囲気のおかげか、シゲルさんにはパチンコ仲間や喫煙仲間、糖尿病仲間といったお仲間がふるさと園だけでなくあちこちにいるようだ。
そんな愛すべきお騒がせ人物であるシゲルさんだけど、女好きなところが玉に瑕だった。
とにかく若い女性スタッフが大好きで、すぐに手が出る。
気がつくとお尻を触られているなんて日常茶飯事、ときどき「肩揉んであげようか」なんて言いながらどこを揉む気なのか両手がモミモミといやらしく動いていることがある。
悪い人ではないのだけれど、とにかく癖が悪い。すぐに触りたがる人でなければ、本当にいい人なのに……。
「島崎さん、女性スタッフの体に触れるのは禁止されてますよね。お忘れですか」
名尾さんの声がした。いつもは温厚そうな表情が、今日は少し厳しい表情をしている。たった今、わたしの肩を掴もうとしていたシゲルさんの手が止まる。
「……アカンなぁ。触ったらアカンかったわ。そうや、そうや。忘れとった。
希ちゃんが可愛すぎるから、つい手が出そうになったんやな」
白々しくそう言うとシゲルさんは手を引っ込め、そそくさとわたしから離れる。
「パチンコしに行ってこよ」
わざとらしい独り言に、わたしと名尾さんは目を合わせて苦笑する。
とりあえずは触ろうとしていたのを阻止することができたけれど、そうまいど毎度うまくいくはずがない。
「島崎さん、絶対わたしの名前が名字だって思ってないですよね」
シゲルさんはわたしのことを「希ちゃん」と呼ぶ。他の人に対してはさん付けなのに、私だけがちゃん付けで呼ばれているのは、きっとこの名字のせいだろう。
首から下げている名札には
「あまり頻繁に接近するようだったら、男性スタッフと交代するか二人体制で対応するしかなくなるだろうね」
溜息をつきながら名尾さんが言う。
「そうですね」
ゆくゆくはそうなっていくのだろうか。
シゲルさんのあの歳になってから気持ちを入れ替え態度を改める、ということはおそらく難しいように思う。もちろん、それではいけないし、誰に言われるでもなくもともと清廉潔白な人もいるけれど、世間にはいろいろな人がいる。これまで施設を転々としてきたシゲルさんだけど、女性が好きで手をつないだり軽いタッチで触ったりということはあっても、それ以上を求めたという経歴はなかったはずだ。でも、だからこそ、質が悪いのだ。
「わたしたちも気を付けて対応するようにしないといけないですね、これからは」
名尾さんと二人で遊戯室へと足を向ける。
室内を覗くと既にシゲルさんはパチンコを楽しんでいた。ハンドル式のパチンコ台は園の台だけれど、シゲルさんの専用台はレバーを指で弾くタイプの昔のものだ。かつて働いていた店の台を、退職金代わりの餞別にもらったのだそうだ。もちろんメンテナンスもシゲルさん自身が行う。まだまだ現役だからと話すシゲルさんは、いつも眩しいぐらいに輝いていた。自分の得意なものを見せびらかす瞬間のある種の自信とでもいうのだろうか。そういう時のシゲルさんは楽しそうで、とても充実しているように見える。
「おっ……きよったで……」
ブツブツと呟きながらシゲルさんはレバーを弾く。銀色の小さな玉が盤面の中央に取り付けられたチューリップ型のカップに吸い込まれていくと、チューリップがパッと大きく開いた。チューリップ形に並べられた赤く小さな電飾がせわしなく点滅を繰り返す。面白いぐらいに正確に、綺麗な弧を描きながらいくつもの玉がカップめがけて飛び込んでいく。
わたしは、すぐ隣に立つ名尾さんにそっと囁きかける。
「……お上手ですよね」
パチンコに興味のないわたしには、どういったところが面白いのかよくわからないけれど、シゲルさんが今この瞬間をとても楽しんでいることだけは理解できた。
「うーん。上手いな」
名尾さんも低く呻いて、感嘆の呟きを漏らす。
盤面の下にある受け皿に、銀色の玉がジャラジャラと音を立てながら吐き出されてくる。
自分の好きなもの、得意なものに夢中になっている時というのは、こんなにも活き活きとした表情になるのだなとわたしは思う。
普段のシゲルさんは愛嬌のあるただのおっちゃんだけれども、今のシゲルさんは気難しい職人のように見えなくもない。
こんなにも真剣で、それでいてどこか嬉しそうな表情をするシゲルさんは、パチンコ台の前に座っている時にしか見ることはないだろう。
「見えてるんですね」
少し前から白内障が進行して、細かいものが見えにくいと頻繁に訴えるようになったシゲルさんだけれど、本人の意向により手術に踏み切ることができないでいる。いわく、そんなお金はないということだ。
若い頃からパチンコが大好きで、退職金のかわりにお気に入りのパチンコ台を頂いたシゲルさんらしいなと、わたしは思う。
「パチンコは別なんだってさ。どの位置に釘があって、どんなふうにレバーを弾いたらどこに玉が飛ぶか、感覚でだいたいわかるらしい」
それほどまでに大好きなパチンコも、目が見えなくなったら遊ぶことができなくなるのに。
「手術、したらいいのに」
思わず言葉が零れてしまう。
「希さん、それは言っちゃいけないよ。島崎さんには島崎さんなりの事情があるんだから」
その事情は、わたしたちには知らされていない。上司たちは知っているのだろうけれど、今のこの状況は歯痒くてならない。
「……じゃあ、そろそろ入浴の時間だから行くよ」
名尾さんはそう告げると浴室のある方面へとゆっくりと去っていった。わたしも名尾さんも、これから入浴介助がある。
わたしも、あれこれ考えてないでやるべきことをやろう。
今は思い悩んでいる時間ではない。
先を歩く名尾さんを追いかけ、わたしも浴室へと向かった。
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