第8話

 真っ黒な衣服に、真っ黒に染めた髪。毛先だけは目を見張るような鮮やかな紫色に染めて。腕には、紫や黒のパワーストーンを散りばめたブレスレット。

 カズコさんは今日も単独行動を取っている。

 反転世界の冥王星からの使者プルート様のお導きにより、カズコさんはこのふるさと園にやってきたという話だ。

 カズコさんの使命は主に、地球の人々による冥王星への侵略行為を阻止し、監視すること。ふるさと園に来て以来カズコさんは、侵略を未然に防ぐことに成功しているらしい。

 ところで少し前に還暦を過ぎたばかりのカズコさんには、四人のお子さんがいる。娘さんが二人と、息子さん。それから、亡くなられたご主人の連れ子が一人。それぞれに独立して家庭を持っているからか、それともカズコさんの病気のせいか、面会どころか電話や手紙でのやり取りすら絶えて久しい。

 入所当初にはそれぞれの家族が週替りで面会に来ていたものだけれど。

 だけどカズコさんの病気が進行しだしてからはピタリと面会に来なくなり、電話も繋がらなくなってしまった。

 唯一、連れ子にあたる娘さんだけが連絡先となって定期的に様子伺いの電話をかけてきてくれている状態だ。

 そんなカズコさんの病気は、統合失調症。

 これまでのところ他害に及ぶまでの問題行動はないけれど、その圧倒的なまでの威圧感に恐れをなした苦情の申立がほぼ毎日、複数件ある。

 今日は珍しく居室から出てきて、ラウンジの入口脇の席に居座っている。

 無言の圧力とでも言うのだろうか、それともオーラのようなものが湧き出ているのか、カズコさんが座っているところを中心にして半径一メートルは誰も近寄ろうとしない。

 コーヒーを飲みながらトランプを手に、何やら熱心に独り言を呟いている。

 まあ、誰に迷惑をかけるわけでもなく、ただラウンジで自分の時間を楽しんでいるだけなのだから、そっとしておいてもいいだろう。

「ちょっと、困るわよ。あの人、ずっとあの席占領して動かないじゃないの。いつになったら席を空けてくれるのかしら」

 ミチ子さんが苛々した様子で訴えてくる。

「ええと、あの……」

 誰がどの席に座ろうと自由なのだけれど、ミチ子さんには隅の席に座りたい理由がある。ふるさと園で生活するには問題ないけれど、足が不自由だから、できるだけ動きやすい出入り口付近の席を使いたいのだ。

「今日は無理みたいですよ、山本さん」

 通りがかった浅川さんが、さらりと告げてくる。

「ラウンジは食堂と違って席が決まってないから、早いもの勝ちなのは山本さんもご存知ですよね?」

 眼鏡の奥で、浅川さんの目がキラリと光る。眼力とでも言うのか、浅川さんの威圧感に押し切られ、ミチ子さんは顔を皺くちゃにしてプンプン怒りながら別の席へと足を向けた。

「プルート様が、今朝はラウンジで布教活動に精を出しなさいとお告げを下されたそうですよ」

 困ったものですね、と言いながらも浅川さんは全く困っているような様子がない。

「……それで、遠野さんの布教活動は上手くいってるんですか?」

 わたしが尋ねると、浅川さんは肩を軽くすくめた。

「上手くいってたら閑古鳥は鳴いてませんよ」

 あの席に座ってからカズコさんはずっと一人らしい。ブツブツと呟きながらトランプをめくり続けている姿が他人の目には異様に映るのだろう。

のぞみさん、そろそろリハの準備を始めましょうか」

 気持ちを切り替えるかのように浅川さんが言う。

 今日のリハビリには、指圧師の柳田さんが来てくれる予定だ。眼鏡を外すとちょっと可愛いアイドル系の顔立ちをしている柳田さんに、私は密かに憧れている。

「そうですね」

 髪や制服を直してからわたしは浅川さんの後を追いかけようとした。

「希さん」

 不意に背後から声がかかり、わたしは足を止める。

 カズコさんだ。

「はい、なんでしょう」

 振り返ってドキッとした。目が、怖い。こちらを射抜くような冷たい瞳がわたしをじっと見つめている。周囲の空気が急速的に張り詰めていき、ひんやりとした冷気が感じられる。

「プルート様の託宣です」

 感情のない声が響いた。この人はこんなに冷たい声をしていたのだと、初めて知った。時々、妙な言動をすることはあったけれど、こんな人だとはわたしは思ってもいなかった。

 誰か、助けて……

「今日一日、光るもの……ガラスやレンズなどの光るものに気を付けてください」

 抑揚のない声でそう告げるとカズコさんは、行ってしまった。

 こ…怖かった……心底、怖かった。いつも以上の威圧感に、腰が抜けそう。

「希さん!」

 背後から声がかかり、わたしは思わず「ヒッ!」と声を上げていた。

「あ、浅川さんんんっ」

 後ろから声をかけないでください。半泣きでわたしが言うと、浅川さんは至極真面目そうな顔をしてわたしを見つめてくる。

「その怖がり方……さては遠野さんの洗礼受けたんですね?」

 浅川さんはニヤニヤと笑いながらわたしを眺めている。

「……たった今、受けたところです」

 本当に怖かった。

 無表情、無感情なカズコさんのあの言動。わけがわからない。

「あの人、意外と周囲のこと見てるから鋭いでしょう?」

 ドヤ顔で浅川さんが言う。

「そうなんですか?」

「すごいですよ。あれで統合失調だなんて、ちょっと信じられないかな」

 でもカズコさんは精神科で統合失調の診断がついていて、もうずっとお薬を飲んでいる。症状は良くなったり悪くなったりを繰り返しているけれど、今までのところ入院をしたことはない……と、わたしは聞いている。

「プルート様を信じているわけじゃないけれど、彼女の託宣は割と本当のことを言っている時があるから、気にかけておいたほうがいいですよ」

 なんだか……意外。

 浅川さんが占いだとか、託宣だとかを気にかけるなんて。

「希さん、今、占いなんてとちょっと馬鹿にしましたね」

 すかさず浅川さんはわたしを軽く睨み付け、それから小さく笑った。

「とりあえず、行きましょう。早くリハの用意しなくちゃ」

「そうですね」

 わたしは頷いた。

 早く行かないと、柳田さんに迷惑をかけることになる。

 二人して最後は駆け足になりながらリハビリ室に飛び込むと、ちょうど柳田さんが室内で会場設営を終わらせたところだった。

「お待たせしてすみません、柳田さん」

 温厚そうな笑みを浮かべた柳田さんは「いえいえ」と返してくる。リハビリ会場の様子をぐるりと見まわした柳田さんは、満足そうに小さく頷くと眼鏡のフレームをくい、と上げた。

 今日はマット運動をする予定で、リハビリ室の床には畳サイズの運動マットがずらりと並んでいる。

「設営ありがとうございます」

 浅川さんと二人して、頭を下げた。

 柳田さんはいつものことだからと言ってくれるけれど、本当はわたしたちも手伝わなければならないはず。だけど柳田さんの到着時間が早いのだ。リハビリの始まる一時間近く前からやってきて、自分のしたいように設営させてほしいからと、いつものんびり一人で準備を始めている。

「腰痛に効くストレッチもしますから、今日も呼び込みお願いしますね」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 柳田さんの指示で、呼び込みが始まる。

 わたしは浅川さんと手分けして参加者の誘導を始めた。リハビリはデイサービスの利用者も混じっているから、わたしはそちらの誘導を受け持つ。顔馴染みの利用者が何人か、親し気に挨拶をしてくれた。

「二階のリハビリ室にどうぞ。今日は腰痛に効くストレッチもしますよ」

 さあ、笑顔、笑顔。

 にっこり笑ってデイサービス利用の皆さんを案内する。

 さらに運動嫌いのミチ子さんがこそこそとラウンジを出て居室に戻ろうとしているのを見付けたので、こちらも笑顔でリハビリ室に誘導する。

 ミチ子さんの歩みに合わせてゆっくり移動していると、彼女の左手首に見慣れないブレスレットがちらちらと見え隠れしているのに気付いた。

「きれいですね」

 声をかけるとミチ子さんは、嬉しそうに笑う。

「そうなのよ。孫からもらったのよ」

 ほら、と見せられてはたとわたしの足が止まる。黒と紫色の石のこのデザイン、なんだか見たことがあるように思うのは気のせいだろうか。

 いやいや、だけどミチ子さんのところのお孫さんは優しいおばあちゃん思いのお孫さんで……。

「本当に、きれいでしょう。大事にしているのよ」

 そう言ってミチ子さんは、ブレスレットを愛しそうにもう一方の手で撫で摩る。

「そうなんですね」

 わたしは早々に会話を切り上げた。

 ミチ子さんと二人してリハビリ室に入ると、もうすでに柳田さんの指導でストレッチが始まっていた。

「さあ、それではゆっくりと伸びをするように……」

 柳田さんの声に合わせて参加者が身体を動かす。

 わたしは、こっそりとミチ子さんの左手首を見つめた。

 結局、ミチ子さんのブレスレットが気になって仕方のなかったわたしはその日のリハビリの内容をほとんど覚えていない。

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