第9話
レクの写真教室が終わり、中から颯爽と出てきたのはテルさんだ。
テルさんは、カメラのことを語らせたら一時間はしゃべり続ける程カメラが大好きで、穏やかで人好きのするロマンスグレーのイケおじだ。ふるさと園の近所で数年前まで写真館を営んでいたと聞いているけれど、奥様が亡くなられた今は写真館も閉めてしまい、こうして写真教室の講師としてボランティアで月に3回、ふるさと園にやってくる。
写真教室の後、テルさんは仲のいい人たちと一緒にテラスでささやかなティータイムを楽しんでから、帰宅する。
穏やかな日々の繰り返しだけどボランティアのない日は近所のコンビニでバイトをしていると聞くから、充実した日々を送っているように見えた。
そんなテルさんが倒れたのは、写真教室の後のティータイムでのことだった。
今まで会話をしていたのにふと言葉が止まり、コーヒーカップを持つ手がだらりとなって……そのまま椅子からズルズルと滑り落ちて床にゴロンと横になってしまったのだとか。
異変に気付いたスタッフがすぐに駆け寄り声をかけるとテルさんはうっすらと目を開け、ニカッと笑った。不明瞭な言葉がテルさんの口から零れ出て、体を動かそうとするのだが、思うように動かない。床の上に座らせようとしたが右側へくにゃりと姿勢が崩れるものだから、とりあえず寝そべらせる。
すぐさま常勤のナースがやってきて、たちまちテラスは騒がしくなる。
テーブルの上で、転がったままのコーヒーカップがゆらゆらと不安そうに揺れていた。
他の利用者たちをそっと別の場所に誘導しつつ、救急車のサイレン音が近づいてくるのをわたしたちは感じている。
一部のスタッフがテルさんに途中まで付き添っていたが、わたしたちは通常の業務に速やかに戻らなければならない。救急車が来たことで利用者の中にはそわそわとして落ち着かない人もいる。できるだけさり気なく、皆が元の生活に戻ることが出来るように……。
とは言うものの、人の口に戸は立てられない。ヒソヒソと救急車が来ていたことが
「……脳梗塞らしいですよ」
更衣室で着替えていると、ボソボソと喋るスタッフの声が聞こえてきた。
テルさんは脳梗塞だったらしい。
幸い、気付くのが早かったため、大事には至らなかったようだ。
それでも、テルさんの日常はこれから大きく変わっていくだろう。
リハビリにリハビリを重ねても、元には戻らない体の右側の麻痺。慣れない左側での動作の数々。
もしかしたら、麻痺のせいで歩行が危ういかもしれない。嚥下も上手くできるかわからない。
何よりテルさんは独居老人だ。
家族は亡くなった奥様だけで、遠く離れた海外に一人娘がいるだけだとか。
これからテルさんはどうなってしまうのだろう。
考えても詮無いことを、いつまでもうだうだ考思い悩んでいる暇はない。やるべきことは、他にも山積されているのだから。
わたしは頭を軽く振って、思考を切り替えた。
今日は、いよいよキヨさんの退所の日だ。誤嚥性肺炎での入退院を経て、キヨさんは別の施設へ移ることになった。看取りに対応している施設での受け入れ態勢がようやく整ったのだ。
キヨさんはわたしがこのふるさと園で働きだしてすぐの頃に担当を受け持った利用者だ。当時はキヨさんから色々と教わることもあった。特に料理のレシピや手芸細工のいくつかは、わたしにとって忘れられないものとなっている。
一緒に外出をした時には、まるで母娘のように仲良く買い物をしたこともあった。映画館に出かけたこともある。
キヨさんがいなくなるのは寂しいけれど、彼女の幸せを考えたら、ふるさと園での生活よりも次の施設のほうがずっと手厚いケアを受けられるはずだ。
必要な荷物は既に先方へ送り届けている。あとは、キヨさんが移動するだけだ。
既に車椅子に乗り、ロビーで待機しているキヨさんは珍しく化粧をしていた。うっすらと口紅を引いたキヨさんの唇は健康的に見える。
「おはようございます、長田さん」
わたしの姿を目にすると、キヨさんはニッコリと笑いかけてきてくれた。
「おはよう」
もう、わたしの名前も出てこないけれど、挨拶だけはしてくれる。
「朝ごはんは食べましたか?」
わたしが尋ねると、キヨさんは「うん」と子どものように頷いて笑いかけてくる。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「うん」
昼夜逆転気味のキヨさんは、夜間はあまり眠ることができていない。逆に昼間、人の気配の中でうとうととしていることのほうが最近は多い。
「ねえ、車まだ?」
今日は車で新しい施設に移る日だと説明をしたからか、キヨさんは車に乗るのを楽しみにしている。だからだろうか、言葉数もいつになく多い。
「もうすぐですよ」
「ご飯あるかしら?」
「おいしいご飯だそうですよ」
「一緒に食べる?」
「うーん。わたしの分はないと思います」
「ないの?」
「ないです」
そんな言葉を交わしながら、車が到着するのを待つ。
思っていたよりもキヨさんは明るく、元気な様子だった。
「一緒に行きましょうね、希さん」
不意に、キヨさんがわたしの手を握ってきた。
「……長田さん」
わたしは言葉に詰まってしまい、返事をすることができなかった。
いったい、何と返せばよかったのだろう。
「あの……ええと……」
料理教室でドーナツを作ってくれたキヨさんが、記憶の中に浮かび上がってくる。白いエプロンをさっと身に着けて、他の利用者と楽しそうに会話をしながらあっという間にクッキーを作る姿、玄関の作品展示スペースに折り紙のくす玉が飾られるのを誇らしそうに眺めている姿、テラスで一緒にティータイムを楽しんだこと……沢山の思い出が頭の中に蘇ってきて、わたしは目頭の奥が熱くなるのを感じた。
「長田さん、お迎えの車が到着しましたよ」
施設長がやってきて、キヨさんに声をかける。
「車、来たの?」
キヨさんの顔がぱあっ、と嬉しそうな表情になる。その表情を目にしてわたしは、もうこれきりキヨさんとは会うことはないだろうということに気付く。
新しい施設へ行ってしまうのだ、キヨさんは。
入所先の翠光園の所長が車から降りてくると、施設長と簡単に挨拶を交わす。
「長田さん、こんにちは。今から翠光園へ車で移動しましょうね。皆、あなたが来るのを楽しみにしているんですよ」
感じのいい雰囲気の女性がにこやかに笑いながら、キヨさんに声をかけている。
ああ……行ってしまう。
キヨさんが、ふるさと園を出て行ってしまう……。
「……長田さん!」
車に乗り込んだキヨさんに、ドア越しに私は声をかけた。
「元気でね、長田さん」
声をかけるとキヨさんは、笑って手を振った。
別れを告げるように車はエントランスをぐるりと回ると、ゆっくりとわたしたちの目の前を通り過ぎて行こうとする。
「希さん、行ってきます!」
手を振りながらキヨさんは笑っていた。
楽しそうに、遠足にでも行く子どものように屈託のない無邪気な笑顔を浮かべて窓越しにこちらを見ている。
泣くもんか。
わたしは笑った。
エントランスに立って、車が見えなくなるまで笑って手を振り続けた。
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